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最果ての流星

作者: 大野サクラ


 はあ、はあ、はあ。

 疲労と焦りで震える荒い息が吐き出され、夜の静寂に消えていった。足音は2人分。家を飛び出した時は、私がアベルの手を引いていたのに、今は反対に、アベルが私の手を引いている。

 時折、彼がこちらを振り返った。揺れる黒髪の隙間から、吸血族特有の血に染まったような色の瞳が、不安げに私を捉える。「走れる?」彼は何度もそう聞いて、私は何度も「大丈夫」と答えた。けれどもう、足の感覚はもうほとんどない。

 家を飛び出して、どれくらいの時間が経ったのだろう。遠くの山向こうを染めていた朱色は、もうどこにもない。空は塗りつぶしたように黒く、木々の間からは星も月も見えない。時折風が吹き、森が生き物のように唸り声を上げた。

 はあ、はあ、はあ。

 呼吸がどんどん速くなる。

 ようやく森を抜け、開けた場所に出た瞬間、ついに限界が来た。


「あっ」


 足がもつれ、膝から崩れ落ちるようにその場に倒れ込む。しっかりと握っていたはずの手が滑るように離れて、地面に頬を擦ってしまう。慌ててアベルがこちらに駆け寄ってきて、私の体を起こした。


「ジジ、大丈夫?」

「っ、大丈夫よ」


 彼の表情をこれ以上曇らせまいと、いつものように笑って見せて、アベルの手を支えに立ち上がろうとした。けれど、足首に走った鈍痛で、無様に顔を歪めることになる。申し訳なさそうに私の靴下を下げたアベルは、「腫れてる」と小さくつぶやいた。壊れ物を触るような手つきで触れてくれたのに、刺すような痛みでつい声が出る。


「転んだときに捻ったんだ」

「そうかもしれないわね。でも、行かないと」


 アベルは立ち上がろうとする私を制し、小さく首を横に振った。


「立っちゃだめだ」

「何言ってるの」

「辛いだろう」

「辛くなんてないわ」


 私はアベルの肩を掴んだ。不安げに揺れる瞳を覗き込み、もう一度強く「辛くなんてない」と手に力を込める。


「今逃げなければ、もう逃げられないのよ」


 自分でも驚くほど切羽つまった声が出た。アベルの目が伏せられ、「そうだね」と悲哀に満ちた肯定が返ってくる。


「ただ、これ以上きみを走らせるわけにはいかない。ここからは僕が抱えていく」

「……無理よ。私、別に軽くないもの。負担になるわ」


 アベルは小さく笑うと、逃げる間もなく膝裏に手を差し込んで、私を抱え上げた。


「ちょっと!」

「軽いよ」


 アベルは、目を細めて私を見た。


「不安になるほど軽い」

「……あなたが、吸血族だからそう思うだけよ。私の体重は、ふつう」

「そう?」

「ええ」

「……もっと早く、こうしていればよかったね」


 アベルはゆっくりと顔を上げ、道の先を見る。その顔に、もう、笑みはない。


「行こう。留まっている時間はない」

「ええ」


 これは私たちに許された、きっと最後の抗いだ。

 私たちの、灰色の日々から抜け出す、最後の――




◇◇◇

 ずうっと昔、趣味の悪い父親が、オークションで買ったんだ、と一人の子供を連れて帰ってきた。薄汚れ、骨が浮いた虚ろな目をした少年は、希少な吸血族だという。名前はない。お前がつけてやれ。と父が言ったので、私は3日ほど悩んで“アベル”という名前を彼に贈った。

 アベルは家に来てから、ほとんど口を開かなかったし、表情も変えなかった。だから彼がその名前を聞いて、どう思ったのかは知らない。「私の好きな画家の名前からとったの。アベル・フォローっていう、古い画家よ。お母様が誕生日に画集をくださったの。今度、彼の絵を見せてあげるわ」そんな説明を聞いていたのか聞いていなかったのかも知らない。

 アベルは5日ほど家で過ごした後、絵を見せる前に、父に連れられどこかへ行ってしまった。



 次にアベルに会ったのは、それから3年後。

 しつこく絡んでくる男がいて、逃げるように夜会から抜け出した夜のことだった。

 人気のない庭の植え込みの影に、ドレスが汚れるのも気にせず座り込む。まだ片足を子供に突っ込んだままのような女相手に、どうしてあれほどまでに必死になれるのか理解できない。男のにたついた顔を思い出し、つい、重いため息が漏れた。

 ぼんやり空を見上げる。月は雲に隠れて見えない。

 ふと、3年前別れた少年を思い出した。アベル。彼はあれからどこに行ってしまったんだろうか。穏やかに過ごしていてくれればいいけれど--そんな風に一瞬思って、自分が嫌になった。

 なんて偽善ぶった考えだろうか。あの父が、“オークションで買った”“吸血族の少年”。穏やかな生活など、送れているはずがない。


「みーつけた!」


 突然、体が後ろに倒れた。

 間髪入れずにのしかかってきたのは、しつこく絡んできたあの男だ。

 悲鳴が出る前に、口を押さえつけられる。この切羽詰まった状況に似合わない、「探したよ~」という、男のどこか抜けたような声が顔に当たった。酒臭い。男が上機嫌でなにか話しているが、混乱した頭では理解できない。

 男のざらついた指先が、胸元に触れようとしたその時だった。


 まばたきの間に、男が吹き飛んでいた。


 何が起こったのか分からず、目を白黒させていると、そっと背中に手が差し込まれた。


「大丈夫?」


 そう言って、男を殴り飛ばした少年は、私の体を起こし上着を掛けてくれた。


「あ……ありが、とう」

「怪我は?」

「……ないわ」


 少年は端正な顔をしていた。血色の瞳が、会話を続けながらも絶えず周囲を警戒し続けている。

 彼の顔には見覚えがあった。


「……アベル」


 名前を呼ぶと、少年――アベルは幽霊の声でも聴いたかのように目を丸くし、こちらを見た。


「……驚いた。覚えてたの?」


 私だって驚いた。アベルの声を聞くのは初めてだ。まだ若さを残した心地よいテノールが、彼の口から落とされる。


「も、もちろんよ! アベル、今までどこに」


 そう尋ねかかって、はっとした。

 彼が着ている、夜に溶けてしまいそうな色の上着。軍人を連想させるようなデザインのそれを、昔、一度だけ見たことがあった。

 深夜、灯りも付けない父の部屋の中、父の側にそれを着た男性が立っていた。アベルと同じ血色の瞳をした彼はまるで幽霊のように存在感がなく、それでいて抜身のナイフのような冷たさを纏っていた。

 怯える私に、父は「彼は私の駒の一つだよ」と、自慢げに言った。彼らは私たちを守ってくれている。お前も、気に入らないやつがいたら教えなさい。彼らが全部、消してくれるよ。

 ぞっとした。それからずいぶんたって、父が人に言えないような汚れ仕事を任せている人たちを囲っていることを、風の噂で知った。


「アベルも……」


 アベルは私が何を考えているのか分かったようだった。彼は私の言葉を肯定するように薄く笑った。

 3年ぶりに見たアベルは、もう薄汚れてはいなかった。顔つきはずいぶん大人びて、表情もあり、細身だが体もしっかりしている。けれどやはり、あの夜の男のような、どこか危うげな雰囲気を纏っている。


「無事でよかった」


 アベルはそう言って、立ち上がった。


「酒が入ると変わってしまう人もいるからね。あまり薄暗い場所で一人にはならないで。さあ、早く、夜会に戻りな」

「……その人は、どうするの?」


 気に入らないやつがいたら教えなさい。彼らが全部、消してくれるよ。

 父の言葉が頭の中で聞こえた。

 アベルは困ったように微笑んで、「これくらいじゃ、殺したりはしないよ」と言った。


「……アベル」

「じゃあ、さようなら、ジジ」

「ま、待って」


 咄嗟に、無様に伸びる男の元へ向かおうとしたアベルの手を掴んだ。彼の手は、氷のように冷たかった。


「……私たち、また、会える?」


 アベルは、目を見開いた後、困ったように眉尻を下げた。肯定の言葉は続かない。

 けれど、引き下がるわけにもいかなかった。


「お願い」

「……うーん……」

「また会いたい」


 アベルの口からは、まだ、いい返事が返ってこない。


「……あなたは、父の命令で動くんでしょう? 私は娘よ。だから、私の言うことだって、聞いて」


 父の娘であることがとても嫌なのに、こういう時だけ父の名前を出すなんて、私もたいがい利己的な人間だ。

 アベルはしばらく悩んだ後、イエスともノーともとれる、曖昧な響きで「うん」と小さく答えた。



 それから、アベルは時々、私の部屋にやってきた。

 来るのは決まって夜更け。誰もが寝静まった頃に窓がノックされ、開けると穏やかな笑みを浮かべるアベルがいる。

 部屋に招いたが、彼は頑なに入ろうとはしなかったので、いつも窓の向こう側とこちら側で、5分ほどの会話を楽しんだ。

 天気の話。読んだ本の話。今日食べたもの。アベルはいつも他愛もない私の話を、楽しそうに聞いてくれた。3年越しに、約束も果たした。私はアベル・フォローの画集をようやく彼に見せることができた。


「彼の絵は夜をテーマにしたものがとても多いの。でも、いつもどこかに光があるのよ。そういうところが好きなの。だからあなたに、この名前を贈ったの」


 そう言うと、アベルはいっとう嬉しそうに、けれどどこか恥ずかしそうに微笑んだ。ずっと冷えていた胸の一番深いところに、再び灯りが灯ったような気持ちだった。


 アベルとの逢瀬は、私の灰色の日々に現れた、輝く星のようだった。


 父は醜悪で、世界中の欲望を煮詰めて固めたような人間だ。金と地位にしがみつくために何でもしていた。父の非道さは、娘の私にまで容易く届いてくる。

 母はそんな父との生活に疲れ果て、次第に心を病んでいった。随分前に療養という名目で、田舎に送られてからは、一度もこの屋敷には戻ってきていない。手紙はとうの昔に途絶えた。代わりに、毒のように甘い香りをまき散らせる美しい女性たちが、代わる代わる訪ねてくるようになった。

 父の周囲は年々きらびやかになっていく。それに反して、世界からは色が消えて行く。

 私は、自分よりも40も年の離れた、父よりも年上の男の貴族の元へ嫁ぐことが決まった。

 たった一度だけ会ったことがある彼のことはよく覚えている。鳥肌が立つような、ねっとりとした視線で、足先から頭の先まで、舐めるように見られたから。

 いつだったか、父は、アベルと同じ色の服を着た男性のことを、自分の駒の一つだと言った。きっと父にとっては、誰もがそうなのだ。あの男性も、アベルも、母も、私も、自分の欲望を満たすための、駒の一つだ。


 だから、この家で過ごす最後の夜、私は初めて窓の外に出て、アベルの手を取った。


「お願い、一緒に逃げて」


 二人で。誰もいないところまで。

 この灰色の日々は、今夜で終わりにして。




◇◇◇

 アベルに抱きかかえられ、草原を抜けた。

 吸血族は普通の人間より力も体力もある。文献で読んで知っていたが、実際に目の当たりにするのは初めてだった。アベルは私を抱えながら先ほどまでよりずっと速く走り、それでも息一つ乱してはいなかった。


 小さな村を二つ抜け、気が付くと小高い丘の上に来ていた。アベルは私を降ろすと、額に浮かんだ汗をぬぐった。さすがに疲労が見てとれる。


「ありがとう、ここまでこれば」

「いや」


 アベルは荒い息の合間に言った。


「まだ、近すぎる。追手には吸血族が何人もいる。これくらいじゃ、追いつかれる」


 その言葉に、私は不安な顔をしたのだろうか。アベルは息を零すように笑い、少し休めば大丈夫だよ、と私の頭を一度だけ撫でた。

 時折、ぬるい風が頬をさらった。アベルの白い首筋に汗が流れる。いつの間にか雲は晴れ、見上げた先には満天の星空があった。てっぺんに浮かんだ細い三日月が、私たちを見て笑っている。

 ふと、一筋の光が流れた。流れ星だ。アベルも同じものを見たのだろう。「きれいだね」と、この逃走劇にふさわしくない、穏やかな声が静寂に落ちた。


「……ねぇ、アベル」


 名前を呼んだ。「ん?」アベルは振り返った。顔に、ゆるい笑みを浮かべて。


「アベル」

「どうしたの?」

「……私、あなたの、血が欲しい」


 一瞬で、アベルの表情が陰った。口元から笑みは消え、穏やかな色をしていた瞳から温度がなくなる。


「どうして」


 と続いた彼の声は、ひどく怒っていた。


「どうして、そんなことを言うの」

「……本を読んで調べたの。あなたの血を飲めば、私も吸血族になれるんでしょう」

「なれないよ」


 私の提案を、アベルは咎めた。


「僕らの血を君が飲んでも、本物にはなれない。なれるのは“まがいもの”だ。調べたなら、それくらい知っているだろう」

「もちろん、知ってるわ」


 よどみない私の答えに、アベルは眉をひそめた。知っているなら、なぜそんなことを言うんだ。彼の困惑した表情が雄弁に語る。


「でも、私はあなたに抱えられなくとも走れるようになる。追手から逃げられる可能性も、今よりずっと高くなる。違う?」

「それは……」


 彼は言葉を濁したが、それが答えだ。

 アベルのことを知りたくて、吸血族についていくつか文献を読んだ。人間の私がアベルの血を飲めば、私はまがいものの吸血族となり、彼と同じように早く走れるようになる。今よりずっと長い距離を移動できるようになる。

 それでも彼が首を縦に振らない理由も、私はなんとなく知っている。


「……きみは、人の血を飲んだことがあるのかい?」


 アベルの細い指先が、私の首筋に触れた。


「吸血族はその名前の通り、人の血をすすらないと生きていけない生き物だ。おぞましいだろう? 正気の沙汰じゃない。この薄い皮膚を裂いて、口元を真っ赤にして、そうして僕らはやっと生きていける。我慢なんてできない。渇きは地獄。死んだ方がましだと思うような苦しさだ。理性が焼き切れて、正気になったときには、また口元を真っ赤に染めている。そんな生活が、人間のきみに耐えられると思えない」


 呪いの言葉を吐くように、アベルは言った。

 彼の呪いの言葉は、彼の人生そのものなのだろう。窓の向こうの彼からは、いつも血の匂いがした。アベルもまた、父の駒として、私には想像もできないような、灰色の日々を生きてきたのだ。

 だからきっと、私はこれほどまでに、どうしようもなく彼に惹かれるのだろう。


「……いいよ」


 私の答えで、アベルが憤ったのがよく分かった。衝動に任せるように開いた口が私を非難する前に、私は声を大きくして言った。


「あなたのいない世界なんて、それこそ正気じゃいられない!」


 言葉にした途端、目から感情が溢れた。変なの、今まで、一度も泣いたことなんてなかったのに。でも、もう止められない。ぼろぼろと、涙が頬を滑り落ちて行った。


「あなたがいないのなら、私の人生に生きる意味なんてない」

「……そんなこと、言わないでくれ」

「あんな男の妻になるくらいなら、あんな父の駒の一つになるくらいなら、私は……私は……」

「……ジジ……」


 地面に突っ伏したように泣く私の背を、何度もアベルの手が撫でた。


「……無事に逃げだしても、まがいものの吸血族は、長くは生きられない」

「……知ってるわ」


 文献によれば、吸血族の血を飲んでまがいものになった人間は、せいぜい5年生きるのが限界。血を飲んだ時が最後。そこからは、花が枯れ落ちるよう、日に日に命が目減りしていく。


「でも、お願い。分かってるの、私。でも、いいの。最後はせめて、あなたのものでありたいの」


 アベルの手が止まった。

 風が吹き、耳元でかさかさと草が揺れる音が聞こえる。


「ジジ」


 夜の闇に消え入るように弱々しい声が、耳元で揺れた。アベルは覆いかぶさるようにして私の体を抱いた。心臓の音が聞こえる。アベルのほうが、少しだけ速い。次第に、私とアベルの鼓動は混じり合い、一つの音のように聞こえるようになった。

 心地よかった。このままここで、世界が終わったらいいのにと、思うほどには。


「ジジ」


 もう一度、今度はさっきよりも少しだけはっきりと、アベルは私の名前を呼んだ。それから、誰もいないと分かっているはずなのに、まるで内緒話でもするような小さな声で話を始めた。


「……あの日、きみの家を去った日、ジジの父親につれられて、部隊の人間に会いに行く前、彼が“最後に一つ、願いをかなえてやろう”って、言ったんだ」


 これからお前が行くところは悲惨だ。血みどろの地獄だ。だから、最後に一つくらい、いい思いをさせてやろう。なにがいい?


「僕は困ったよ。人生で一度も、願いなんて持ったことはなかったから。でも、その時ふと、君が言っていたことを思い出した。“アベル・フォローという画家から、あなたの名前をつけた”と。それまで一度も、名前をもらったことはなかったから、だから僕は、アベル・フォローの絵を見たいと言ったんだ」


 そう言った時の君のお父さんは、ずいぶんつまらなさそうな顔をしていたよ。

 アベルは小馬鹿にするように笑った。

 なにか豪華なものを食べたいだとか、高価なものを欲しがるとでも思ったのかな。それとも泣いて、みじめったらしく命乞いでもするのかと思ったのかな。


「まあとにかく、彼は僕の願いをかなえたよ。街外れの小さな画廊で、僕はアベル・フォローの絵を見た。見て、驚いた。それから、涙が出た」


 古い画廊は、ドアを開けると埃が舞った。店の奥から、古い樹木のような男性がのそのそと出て来た。尋ねると、うちにあるアベル・フォローの絵はたった一枚だと言う。両手を大きく広げたくらいしかない小さな額に入った絵は、夜と朝の狭間に染まる、広い草原を描いたものだった。


「その小さな額縁の中に、僕は初めて世界を見たような気持ちになった。初めて、美しいという言葉の意味を知った。胸の奥で、小さな灯りが灯ったのを感じたよ。きっとあの時、僕ははじめてこの世界に生まれたんだ。君に名前を貰って、僕は初めて――」


 アベルの冷たい指が、愛おしむように私の頬を擦った。

 背中を包んでいた熱が、そっと離れていく。体を起こし、アベルを見た。視線がかち合うと、彼は自嘲するような薄笑いを浮かべた。


「……それから過ごした日々は地獄だったけれど、あの父親を守ることでジジの生活を守れるなら、僕の地獄なんてなんでもないことのように思えた。きみが健やかで、安全で、穏やかな日々を過ごすのならば……」


 アベルは言った。

 時々、こっそり、ジジを見に行ったんだ。

 声なんかかけない。遠くから、一目見るだけでよかった。眠っている姿、窓際の机で画集を読んでいるところ、きらびやかなドレスで夜会に出掛けて行くところ。遥か遠くの神様を見ているような、けれど同時に、自分だけの秘密の宝物を見ているような、不思議な気持ちだった。


「話すようになってからも、その気持ちは変わらなかった。君の声や柔らかな表情を見られるのはとても嬉しかったけれど、きみはいつだってとてもきれいで、まるであの日見た額縁の中の絵のようで……」


 言葉を切り、アベルは私に向かって手を伸ばした。指先が、頬の輪郭をなぞる様に滑る。


「別にきみの側にいようなんて思わなかった。ただ穏やかに生きていてくれれば、それでよかった。それだけしか、願わなかったのに……」


 譫言のように紡がれた言葉は、はらはらと地面に吸い込まれていった。


「ごめんね、ジジ。僕がきみを守ることは、結局、きみの幸せにはならなかったね」


 アベルは泣いていた。真っ白な頬を、星のように輝く涙が何度も伝い落ちた。

 美しかった。私は指を伸ばし、彼の涙をすくい上げる。ああ、なんて暖かいんだろうか。


「幸せよ」

「ジジ……」

「あなたがいれば、私はそれだけで」


 アベルは何か言いかけて口を開いたが、次の瞬間にはくしゃりと顔を歪めて、私の体を引き寄せ抱きしめた。「ごめん」もう一度、小さな謝罪が続き、彼は首筋に顔を埋めた。

 耳元で小さな嗚咽が聞こえる。空は満天の星空。首筋に当たる熱は、彼の涙だ。震える背中を抱きしめ返して、彼の香りに頬を寄せた。彼の甘い香りの奥に、生々しい血の香りが潜んでいる。


「君は世界で一番、美しいものだったのに……」


 それを僕が、僕なんかが。

 アベルは口の中で言った。

 罪悪感が胸を締め付ける。私は美しくなんかない。あなたのことだって、可哀想だと思いながら結局なにもしなかった。ああして二人で会うことが、あなたにとってよくないことだと知っていたのに、それでも会いたいと願った。一緒に逃げたいだなんて、あなたの人生を狂わせると知っていたけれど、それでも手を取った。

 自分の欲望を満たすために他人を駒のように扱う父を嫌っていても、結局私も利己的で、おのれの欲望に忠実な汚い人間だ。


「ごめんなさい」


 出会わなければよかった。あの日、あなたに名前を贈らなければよかった。

 けれど、それでも。


「すきよ、アベル。私の輝く星。あなたがいれば、そこが私にとっての楽園なの」


 口から出た言葉は、許しを請うような、祈るような響きをしていた。

 アベルの背中がびくりと跳ねる。震える呼吸を一つ。彼はゆっくり体を起こした。もう、その目に涙はない。血色の瞳が一度天を仰ぎ、それからゆっくり、私を見下ろした。

 時間の流れがひどく遅く感じる。彼の一挙手一動は祈りを捧げる儀式のように神秘的だった。

 シャツの袖口を捲り、アベルは自分の手首に噛みついた。遅れて、手首を一筋の深紅が流れる。とても、とても、美しかった。

 アベルは手首から口元を離した。口の端に、血が残っている。それと同じ色の瞳が、こちらを向いた。私は頷き、静かに目を閉じた。


 はじめての口づけは、鉄の味。

 唇も、舌も、熱い。

 この熱が離れた時、私たちは笑い合えるだろうか。

 薄く開けた目の端で星が流れる。


 誰にも祝福されないこの恋だけど、せめて夜空を流れ落ちる星々は、世界から私たちへの祝福であれと、強く願った。



END.

ここまで読んでくださりありがとうございました。

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