天神
「んーんんんー、んーんんんー」
鼻唄を歌う。
軍帽を目隠し代わりにして寝転び、持て余した暇を唄にて潰す。
澄み渡った空に、音符が吸い込まれては消えていく。
「ん……んん」
そうしていると、隣で少女の声がした。
起き上がって顔をのぞき込んでみると、うっすらと瞼が開いた。
寝ぼけた表情をして、少女はのっそりと起き上がる。
「あれ……ここは……」
まだ物事の前後がはっきりしないらしい。
隣にいる俺にも気がついていないようだ。
だから、目覚めの挨拶を少女へと送る。
「おはよう」
「あぁ、おは……って――だだだだだだっ、だれだ! あんたは!」
寝起きから随分とご機嫌な様子だ。
縁側から飛び退いたかと思えば、もう随分と距離を空けている。
この分なら、精神にも肉体にも後遺症は残っていないな。
妖怪に取り憑かれて、あれだけ意識を保っていたんだ。
ただの人間じゃあないのはたしかだな。
「俺の名前は神楽透だ。そっちは?」
「あ、えっと、伽藍空」
伽藍空。
それが俺が初めて聞く、人間の名前か。
「まぁ、いろいろと混乱しているだろうけど。とりあえず、空は生きてるってことだけ先に伝えておく」
「生きてる? なに言って――あ」
目が覚めて、驚いて、冷静になって、ようやく物事の前後が繋がったようだ。
空は思い出した。妖怪に取り憑かれていたことを。自ら首を差し出したことを。刀で首を刎ねられたことを。
「どうして……私は……だって、首を」
ひどく混乱したように、空は頭を抱えた。
それもそのはずだ。
斬られた感触だけは、たしかにあったのだから。
「取り憑いていた妖怪を斬るには、空ごと斬るしかなかった。だから、選んで斬ったんだ」
「選ん……で?」
「そう。空の首だけを素通りして、妖怪の首だけを断った。斬られた感触があるのに、首が繋がっているのは、そのためだ」
「待て待て待て!」
混乱を解消しようと解説をしていると、待ったがかかる。
なぜか先ほどよりも、空は深く頭を抱えている様子だった。
「じゃあ、なにか? あんたは、斬る斬らないの対象を自在に選べるのか?」
「あぁ、そう言ったけど」
「……なにをどうしたらそんな芸当が」
説明すればするほど混乱が悪化しているような気がする。
どうやら説明の仕方や順番を間違えてしまっていたようだ。
いかんせん、人間と話すのはこれが初めてだからな。
不格好でも、手探りで話を進めないと。
「あー……まず、この領域について話をしようか」
「領域? そう言えば、ここって」
思い出したように、空は周囲を見渡した。
それほど広くない日本屋敷に、ちょっとした庭。
ここにはそれしかないが、逆を言えばそれ以上は必要ない。
人生、衣食住と唄さえあれば生きていけるのだから。
「ここは天神の領域。神様の住処だ」
「てんじっ――本当か、それはっ!」
先ほどまでの混乱が嘘のように、空は話に食いついた。
「なんだ、知ってて入って来たんじゃあないのか」
「あ、あぁ……あの時は、無我夢中で。とにかく、人のいない所を目指していたから……」
「偶然、あの細道に入り込んだってわけか。なるほどな」
この領域には天神招きがなければ、基本的に入れない。
時たまに人や妖怪が紛れ込むと聞かされてはいたが、人間がこうして迷い込んできたのは初めてだ。妖怪は結構な頻度で、この領域を侵略しようとやってくるのに。
「……なら、ここに住んでいる……あんたが、そうなのか?」
天神なのか。
そう、空は問う。
「いいや、違うよ。俺は天神じゃあない、その子供だ」
「子供……だって? 天神に、子供がいたのか」
「そりゃ、いるだろ。人は七つになるまでは、みんな神の子だ。俺以外にも子供はたくさんいる」
七つを過ぎて、ようやく子供は人間になれる。
「でも、あんたはもう」
「あぁ、七つをとうに過ぎてる。もう十八だ。でも、なかなか俺を手放してくれなくてさ」
だから、俺は未だに人間になれていない。
七つを過ぎても、俺は神様の子供。
神であり、人でもある。
所謂、現人神という奴だ。
「俺の刀が空の首を素通りしたのも、神性や神気によるものだ。天神は人に好意的だからな。邪な妖怪だけを斬って捨てられるんだ」
「そういう……理屈か」
腑に落ちたような様子で、空は思案を巡らせる。
先ほどから見られていた混乱は、すでに姿を消していた。
落ち着きは、取り戻せたみたいだ。
「ほかに、なにか質問はあるか?」
「聞きたいことは、そりゃ山ほどあるけど……」
空の視線が、俺の爪先から頭の天辺までをなぞる。
「なんでそんな、大正時代みたいな格好をしているんだ?」
どうやら、この軍服姿が不思議に映ったらしい。
「趣味だよ、趣味。あぁ、俺のじゃねーよ? 天神の」
「……天神に趣味があるのか? 人間みたいに」
「元々、神様なんて人間が造り出したモノだからな。造形も、趣向も、人間が基準なんだよ」
鶏が先か、卵が先か。
神が先か、人間が先か。
神が人を創ったという者もいれば、人が神を造ったという者もいる。
余所はどうかはしらないけれど。すくなくとも天神は後者だ。
人の祈りや願い、畏敬や畏怖。
それらが折り重ねられて、天神は造り上げられた。
だから、人のように思考し、人のように好む。
「なんだか……私の中の神様に対するイメージが。本当なのか?」
「疑わしいなら会ってみるか?」
「会えるのか!?」
「あぁ、いまちょうど昼寝が終わる頃だから、すぐに出てくる」
「神様が昼寝をするのか……」
混乱につづいて、今度は困惑している様子だ。
人間にとって神様というのは、どうやら威厳に満ちた厳格な存在のようであるらしい。
その期待を裏切るようで悪いが、うちの天神はそんなに硬派ではない。
「――んんんー……透ちゃーん。どこー?」
噂をすれば影が差す、とはよく言ったもので。
ちょうど昼寝から目覚めたらしく、奥から声がした。
「こっちだ、天」
はるか昔に俺が勝手につけたあだ名で、天神を――天を呼ぶ。
すると、ゆったりとした足音がこちらへと近づいてきた。
「なんか、変な感じがするのー。ここに他の誰かがいるような……」
そう言いながら、天は姿を見せる。
相変わらずの袴姿で、寝ぼけ眼をこすっていた。
「んん?」
それも一通りの仕草を終えたころ、その目に空を映す。
一人の見慣れない少女に、天は目を丸くした。
「あらあら、珍しいこともあるものね」
そして、すぐに嬉しそうな表情をした。
「貴女、空ちゃんでしょ? 懐かしいわ」
名乗りもしていないのに、自身の名前を言い当てられた。
そのことに、今度は空が目をまるくした。
「どう、して」
「当然よ。七つになるまでは、みんな私の子だもの。空ちゃんだって、例外じゃあないわ」
天は、かつて子だったすべての人間の名前を憶えている。
容姿も、背格好も、性格も、好き嫌いも、正確に記憶している。
それは目の前の空も例外ではない。
「あぁ、えっと……」
敬うべき神様に親しげに話しかけられ、またしても空は困惑する。
その様子を見て天も察したのか、すこし困ったような顔をした。
そうして、ぱんっと手を叩く。
「とりあえず。お茶にしましょうか」
天は、それでも楽しそうに提案した。