26話 余韻に
「はあっ、はあっ、はあっ……」
全力で一分ほど走ったところで息が切れて、私は足を止めた。
どこをどう走ったのか覚えていない。気がついたら、駅前の広場に戻っていた。
時計台に寄りかかりながら、必死になって呼吸を整える。
「……はあああああ」
なんとか落ち着いたところで、今度は深い深い吐息がこぼれた。
肺の空気を全部吐き出すような勢いで息を吐いて……
それから、そっと唇を指先でなぞる。
「キス……したんだよね」
橘さんとキス。
夢のように曖昧で、よく覚えていない。
でも、あの柔らかい感触だけは……
「あ、あれ?」
どきんっ、どきんっ、と心臓の鼓動が鳴り止まない。壊れてしまったかのように、早鐘を打ち続ける。
橘さんのことを考えると、顔が熱くなってしまう。落ち着かない気分になって、意味もなく無性に走り出したくなってしまう。
これは……この症状って……
「う、ううんっ、そんなことない! あるわけないよ!」
私は女の子だもん。
それなのに、こんな気持ち……ありえない。
ありえない、はずなのに……
「橘伊織には、グッジョブと賛辞を送りたいな」
「ひゃあっ!?」
突然、桜が現れて、私は十センチほど飛び上がった。
「さ、桜!? いったい、いつからそこに……」
「逃げる葵を追いかけていたから、最初から横にいた。ぼーっとしていた葵が気づかなかっただけだ。この鈍感野郎」
「いきなり罵られた!?」
「葵を罵ることは桜の生き……主のためを思い、あえて鬼になっているんだ」
「今、生き甲斐って言おうとしなかった? ねえ、そう言おうとしたよね?」
「それはともかく」
ごまかされた……
「橘伊織とのキスはどうだった?」
「うっ……」
「レモンの味がしたか? それとも、魚の味か?」
「なんで魚?」
「鱚だけにキス、ってな」
「ドヤ顔でどうしようもないこと言わないで! 唐突な上に、ぜんぜんうまいこと言えてないからね!?」
「やれやれ、葵は美的センスがないな」
「今の、美的センスにカテゴリされるんだ、びっくりだよ……それよりも、その……やっぱり、見ていたんだ」
「それはもう、ばっちり見ていたぞ。デジカメに撮って、動画も撮影したな」
「そこまでしていたの!?」
「すでにプリントアウトしている」
いつの間にやったのか、桜は私と橘さんのキスシーンを収めた写真を手にして……
「うわっ、あわわわわわ!」
慌てて写真を奪い取った。
「こんなものを見せないでっ!」
「どうしてだ? これは記念すべき写真だ。永久保存するべき。未来永劫語り継ごう」
「すごく壮大な話になってる!」
っていうか。
葵の言うとおり、ファーストキスだったんだよね。
私なりに、ファーストキスに対する憧れというか、夢のようなものを持っていた。
ロマンチックな場所で、素敵な演出を背景に、愛し合う二人がそっと唇を重ねる……
そんな夢を思い描いていたけど……現実はぜんぜん違う。
とてもロマンチックとは思えない街中で、ほのかちゃんを諦めさせるためだけに、突然キスされた。それが現実だ。
でも……なんでだろう。
不思議と、イヤと思えない。これはこれでいい思い出になる……そんな風に思っている私がいる。
もしかして……橘さん、だから? 相手が橘さんだから、そんな風に思えるのかな?
だとしたら、私は……
「葵、ちょっといいか」
思考の渦に飲み込まれそうになったところで声をかけられて、我に返った。
「な、なに?」
「そろそろ戻ったほうがいいぞ。あまりトイレに行っている時間が長いと、大きい方だと思われてしまう」
「こんな時にデリカシーのない発言は控えてほしいんだけど!」
「桜にそんなことを求めないでくれ。わかるだろう?」
「なんともいえない説得力がある!?」
「桜はデリカシーがなくて当たり前。それが桜のポリシーだ」
「どうしようもないことを誇らないで!?」
「少しは落ち着いたか?」
「あ……」
いつものようなやりとりを交わしているうちに、真っ白になっていた頭はいつも通りに戻っていた。
桜なりに気を使ってくれたのかな……?
まあ、いつも通り、私をからかっただけという可能性もあるけど……
とりあえず、今は感謝しておこう。
「それじゃあ、私は戻るね。桜はどうする?」
「今日はもう私の役割は必要なさそうだから、先に帰ることにする」
「わかった。それじゃあ、また後でね」
桜と別れて元来た道を歩き出した。
基本的に、毎日更新していきます。
気に入っていただけましたら、ブクマや評価などをどうぞよろしくお願いします!




