シャドウ
こんなところで、僕はいったい何をしているんだろう。何を待っているんだろう。何が見たいのだろう。無数の疑問符が僕の脳髄の中を乱舞している。
あの部屋の扉が見える場所、その廊下の片隅で、僕は膝を抱えてうずくまり、身を潜めながら様子を窺っていた。疚しいことをしているわけでもないのに、何故隠れているのだろう。自分自身のことなのに、まるで理由がわからない。こんなことは初めてだ。一時間以上もこうして待ち続けているのだが、彼女があの部屋から出てきた様子はない。もう体はすっかり冷え切っている。それでも、何故かこの場を離れようとは思わなかった。
もう一度彼女の姿を見れば、そこで何かがわかるかもしれない――そんな、願望にも似た予感があったからだ。或いは、期待、と言い換えてもいいかもしれない。
彼女の何が、僕をこれほどまでに惹きつけるのか。
たしかに、彼女はとても美しい。あんなに美しい女性は、これまでの人生において見たことがない。たとえば、モナ・リザやボッティチェリの描いたヴィーナスが肉体を持って額縁から這い出してきたとしても、あれほど整った容貌を持ってはいまい。足の爪先から髪の一本一本に至るまで、芸術品にも勝る繊細な造形美。にもかかわらず、その表情からはあまり生気が感じられない。人形より人形に似た人間――そう形容したくなる、この世のものとは思えない美しさだ。しかし、果たしてそれだけだろうか。
あの虚ろな眼差し。一見心許ないように見えて、実はしっかりとした足取り。
あれは、夢遊病の症状ではないか?
以前、何かの本で読んだことがある。それは父の蔵書だったかもしれないし、怪奇小説の類だったかもしれない。夜中に突然起き上がって辺りを徘徊した後、何事もなかったかのように再び眠りに就く。にもかかわらず、その間の記憶が全くない。
中には、徘徊の最中に食事や入浴などを行う症例もあり、遊行中に殺人を犯した例も報告されている。
果たして彼女が夢遊病であるのか否か、先程の様子だけで断定することはできまい。また、少々本で読みかじった程度の知識では判じかねる部分もあろう。知的好奇心――今、こうして震えながら待ち続けている甚だ奇妙な心理に、強いて理由をつけようとするならば、おそらくその言葉が最も近いはずだ。
それからさらに数十分の時間が過ぎた。まだ彼女は現れない。
冷え込みはますます厳しくなり、手足の感覚が弱まり始めた。これ以上監視を続けたら、間違いなく風邪をひいてしまうだろう。元々僕は体が丈夫なほうではなく、風邪をひくと高熱を発し寝込んでしまうことが多い。こんな田舎の山奥で藪医者に診せられたのではたまったものではない。張り込みの中止を真剣に考えだした、その時。
ガチャリ、と内側から扉が開かれ、彼女が姿を現した。
先程と同じ白い寝間着姿。やや俯き加減の感情を押し殺したような表情。裾から覗くなめらかな脹脛。小ぶりで形の良い足は、裸足のままだった。若干髪が乱れているかもしれない。僕の視線に気付くことなく、彼女はそのまま来た道をひたひたと戻り始めた。
彼女の後姿を追いかける。今は長い髪を前に垂らしているため、その細い項を見ることができた。男のフェティシズムを刺激してやまない、なだらかな首筋。心持ち前傾姿勢で歩いているせいか、ただでさえ華奢なその背中はいっそう小さく見えた。
蝋燭は灯していなかったのだが、窓から差し込む僅かな明かりを反射して、彼女の白い肌、白い寝間着は、闇の中でぼうっと浮かび上がって見える。その背中から何か神秘的な、そして霊的なものを感じ、僕は思わず身震いした。女夜叉に取り憑かれた哀れな男のように、彼女から目を離すことが出来なかった。
そのまま暫く歩き続けて、彼女と僕は、使用人棟にある彼女の部屋の前まで辿り着いた。扉の前で、彼女はぴたりと立ち止まり、そのままぼんやりと立ち尽くしている。そして僕は、この時初めて彼女の声を聞いた。
「女のあとをつけ回すなんて、あまり良い趣味ではありませんね」
あまりに突然のことだったため、僕は体をびくりと震わせ、思わず数歩後ずさった。これも夢中遊行の一部なのだろうか? ……いや、今の言葉は明らかに僕に向けられたものだ。
彼女は僅かにこちらを振り返った。暗闇の中に浮かび上がるその美しい横顔が、ルビンの壺を連想させた。相変わらずニヒリスティックな瞳で、横目にこちらを見ている。
「笑って許してもらえる年のうちに、お止しになったほうがよろしいですよ」
どうやら、夢中遊行からはとっくに醒めているようだ。いつから僕の存在に気付いていたのだろう。彼女の背中ばかりを追って、表情は全く確認していなかったため、全く見当がつかない。僕は悪戯を咎められた子供のようにその場に立ち尽くしていた。いったい、あの部屋で何があったのか、そして、どこで正気に返ったのか。堪えようのない羞恥心と絡み合って、様々な思考が頭の中で渦を巻いている。
「ごめんなさい、そういうつもりではなかったのです」
僕が彼女に対して発した最初の言葉は、あまりにも情けないものだった。
「偶然に、本当に偶然に貴女の姿を見かけて……こんな夜中に何をしているのかと、思ったのです。それだけなんです。決して疚しいことは」
へどもどしている僕を見て、彼女はきっと呆れているに違いない。暗くて表情までは窺えなかった。
「無理もないことですわ。申し訳ございません……今夜はとても冷え込んでおります。お体に障りますよ。お部屋までお送りしましょうか」
「い、いえ、結構……自分で帰れます」
この上、さらに子供扱いされたのでは、僕の面目は丸つぶれである。少々勿体なくも思えたが、僕は彼女の申し出を固辞した。すると、彼女は軽く目礼して、
「では、おやすみなさい……」
そう呟いて、扉の取っ手に手をかけた。
「あ、あの……!」
そのまま部屋に戻りかけた彼女を、僕は慌てて呼び止めた。半開きになった扉がぴたりと止まり、彼女は改めてこちらを振り向いた。
「あの……あなたの名前を、教えてもらえませんか」
その刹那、夜気さえも払われた、完全な静寂が訪れた。まるでそこだけこの世界から切り離されたような、時間も生命も拒絶する、真空の闇。現実世界に偶然生じた裂け目。その錯覚の中に僕たちは佇んでいる。彼女の声と、伝播する空気の振動、その音の波が、この空間に命を吹き込み、僕の意識を現実に引き戻す。
「まき……と申します」
か細い声でそう言い残して、彼女は扉の向こうへと消えていった。
まき、まき、まき、まき……
僕は彼女の名を何度も反芻し、忘れることのないよう、脳の皺に叩き込んだ。
僕にとってかけがえのない、初恋の人の名前として。