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一日目 夜(2)

 部屋に戻った俺はすぐに、タキシードを脱ぎ捨て、家から持参したパジャマに着替えた。

 そのままベッドに仰向けになり、大きく深呼吸をする。今日はとても疲れた。


 上流階級の人々が持つ独特のプレッシャーからようやく解放され、なんだか久しぶりにまともな呼吸をしたような気がする。

 パーティーの最中は、ホールに吊り下げられていた大きなシャンデリアが気になって仕方がなかった。シャンデリアが目に入ると、もしあれが落ちて来たら、その下敷きになったらと考えてしまったのだ。昔、何かのドラマか映画でそういうシーンを見たことがある。大学生になってからというもの、行く先々で妙な事件に巻き込まれがちなので、神経質になっているのかもしれない。紅繻子の椅子も、 ジャカード織のテーブルクロスも、汚してしまったら大変だという不安が勝ってしまう。

 だから、取りたてて見るべきところのない質素なこの部屋も、パンピーの俺にとっては快適で過ごしやすい空間だ。そして、ベッドサイドのテーブルに置いてあるアンティーク風の真鍮の燭台。旅行先にも自前の蝋燭を持ち込むほどの蝋燭愛好者である俺にとっては、非常に嬉しい小道具である。早速、持参したコレクションのひとつを燭台にセットして、ライターで火を灯した。

 星型の桔梗の花弁が繊細かつ滑らかなタッチで描かれた、手描きの絵蝋燭。甘く優しい香りがふんわりと広がってくる。蝋燭の炎を見つめるこのささやかなひと時が、俺にとっては最も心が安らぐ特別な時間なのだ。


 雨脚はさらに強くなり、少し風も出てきたようだ。吹き付ける風の強さに合わせて、窓を叩く雨音が微妙に変化している。灯火の揺らぎを眺めながら、改めて今日の出来事を振り返ることにした。


 最大のハプニング、いやアクシデントといえばやはり、真紀のフィアンセとして振る舞わなければならなくなったことだろう。のんびりアルバイトのつもりが、随分と重い役目を背負わされてしまったものだ。そういえば、報酬については何も聞かされていない。コンビニのバイトより安かったら泣きが入るぞ……。

 その上、話の流れで何となくついてしまった『医学部で大病院の跡取り息子』という嘘によって、更に自らの首を絞めることとなった。こればっかりは自業自得、今更嘘でしたなんて言えないし、自力でどうにかするしかない。今日のところはどうにかそつなく切り抜けたものの、明日にはまた、あの話好きな得雄氏にその話題を振られるような気がする。

 陽気で話しやすく、時にはおちゃらけて見えることさえある得雄氏だが、あの人は只者ではない、と俺の勘が告げている。そもそも、大企業のトップ、そして榊家の当主という立場でありながら、彼には尊大なところが全くない。その事自体が、彼の揺るがない自信を表しているのではないだろうか。立場と実力が釣り合っていない人は、それが態度に現れてしまうものである。柔和な笑顔の下に、全てを見抜かれてしまいそうな眼光の鋭さを隠しているように思えてならない。よりによって、そんな人の前でどうしてあんな嘘をついてしまったのか……後悔先に立たずとはこのことだ。


 そうこうしているうちに、うつらうつらと、心地よい眠気が襲ってきた。時計を確認すると、まだ時刻は九時を過ぎたばかり。寝るには少し早い時間なのだが、やはり疲れが溜まっているようだ。

 真紀はどうしているだろう。さっきの食事の間、彼女にしては随分無口だったことが気にかかる。昼間からだいぶ窮屈そうにしていたが、慣れない挨拶回りなどをして、彼女も相当疲れているに違いない。少し話をしに行こうかとも思っていたのだが、軽く一時間ぐらい仮眠を取ってからでも遅くはあるまい。

 俺は蝋燭を吹き消し、極めてわかりやすいフラグを立てた上で、ベッドに潜って仮眠を取ることにした。



 ひたっ、ひたっ……


 深い眠りの底から目覚めかけた俺の耳に、微かな物音が伝わってくる。聴覚に全神経を集中させてようやく聞こえる程度の、ごくごく小さな音。雨音にかき消されて、何の音なのかまでは判別できない。それなのに、音量の割には妙に耳障りに感じる。そもそも、何故こんな音が聞こえるのだろう。鼓膜をすり抜けて、脳内に直接響いてくるような……。


 ……確か俺は、ほんの少し仮眠をとるだけのつもりだったんじゃなかったか。


 重い瞼を擦りながら、俺は体を起こした。頭の中に鍛冶屋が住み着いてガンガン鉄を叩いているのではないか、と思うくらい頭痛が酷い。枕元に置いてあったスマホで時間を確認する……午前一時過ぎ。もう日付が変わっているじゃないか。仮眠どころか、うっかり爆睡してしまっていたようだ。この時間では真紀ももう寝ているだろうし、朝にゆっくり話すことにして、今夜はこのまま眠ってしまおう。抗い難い睡魔の誘惑に身を委ねようとした、まさにその時。


 コン、コン


 扉を叩くノックの音。こんな時間に一体誰が……? 

 眠っていたことにしてやり過ごそうかとも思ったが、さっきの物音の事も少し気になった。一応、出てみるか……。

 ベッド脇のスタンドライトを点けながら気怠い体をどうにか起こし、扉の前に立つ。

「はい……どちらさまでしょうか」

 扉の向こうに問うてみたが、返事はない。もしかして、空耳だったのか……首を捻りながら鍵を開けると、意外にも、扉は外側から開かれた。


 そこに立っていたのは、すっぴんの真紀だった。

 しかも、身に着けているのは白いスリップ一枚だけ、スリッパさえ履いておらず、つまりは裸足だった。アイメイクなしでもぱっちりとした黒く大きな瞳が、こちらをまっすぐに見据えてくる。俺は思わずたじろいで、二、三歩後ずさった。


「……寒い」

 彼女は無表情のままそう呟いて、ずかずかと部屋に上がり込んでくる。そんな格好では寒くて当たり前ではないか。


 真紀には一つ、特殊な性質がある。

 彼女は、メイクを落とすと人格が変わるのだ。


 それは例えば、気分が変わるとか態度が変わるといったレベルのものではなく、完全にもう一つの人格に切り替わる。俺は今、メイクを落とすと人格が変わると述べたが、それはつまり素顔の状態の彼女が本来の真紀であるということだから、『メイクをすれば人格が変わる』と表現するべきではないか、と思われるかもしれない。しかし、俺がよく知っているのはメイクアップ後の真紀のほうであるし、俺の恋人はメイク後の真紀であると認識している。素顔の状態の真紀と会うのは、今回がまだ三度目でしかないのだ。


 明るく愛嬌があり、表情が猫の目のようにくるくる変わる普段の真紀とは違って、すっぴんの真紀は度を越した寡黙で、表情にもほとんど変化がない。冷徹で頭脳明晰なところは特筆に値するが、傍若無人な一面もあり、あまり接しやすいタイプとは言えなかった。


 真紀は相変わらず人形のように無表情で、ベッドの前にぼんやりと立ち尽くしている。ファンデーションもチークもない彼女の顔は、血色が悪く見えてしまうほどに色が白い。


「お、おい、どうしたんだこんな時間に」

 すると、彼女はゆらりとこちらを振り返り、

「寒い」

 それだけ呟いて、俺のベッドに潜り込んだ。


 さて、ここで俺が取り得る選択肢は、大まかに言って二つしかない。一緒に寝るか、一緒に寝ないか、その二択である。

 そもそも、彼女の意図が全く読めない。もしこれがメイク後の彼女であったなら、大胆だなとは思いつつも、いよいよ来るべき時が来たのだと腹を括るであろう。


 しかし、彼女は別人格の真紀なのだ。

 これまで彼女と会ったのは二度、そのいずれも、極めて特殊な状況下だった。だから当然、彼女といい雰囲気になったこともなく、好意を持たれていると感じたこともない。それどころか、お互いの内面が窺えるような話をしたことすらないので、彼女の思考パターンは全く読めない。

 とはいえ、彼女は成人女性である。深夜に男の部屋を訪れて、同じベッドで夜を過ごすということが何を意味するのか、知らないはずはない。ということは、つまり、これは据え膳食わぬは男の恥、という状況なのだろうか?


 ……いや、何を考えているんだ俺は。彼女は、俺の恋人と体を共有しているのだ。恋人と一線を越える前に別人格のほうと関係を持ってしまうなんて以ての外じゃないか。危ない危ない。

 そういえば、彼女は冷え性だと言っていたような気がする。もしかしたら本当に暖を取りに来ただけなのかもしれない。かなり無理のある推論ではあるが。


 では仮に一緒に寝たとして、俺は理性を保てるだろうか? ――それについては、甚だ不安であると言わざるを得ない。かといって、彼女を部屋から追い出す勇気もなく。俺は仕方なく、床で寝ることにした。


 床はカーペット敷で底冷えこそしないものの、かける毛布が真紀に使われてしまっているため、寝るには寒すぎる。


「何してるの?」

 この部屋に来てから、真紀が初めて『寒い』以外の言葉を口にした。

「ベッドを使われてるから、床に寝てるんだよ」

「寒いって言ってるでしょ。暖めて」

 暖める。一緒に寝ろという意味だろうか。

「いや、でも……」

「いいから来なさい」

 真紀は毛布をめくりあげて、俺に一緒に寝るよう促している。


 大きく深呼吸し、心を落ち着かせてから、俺はベッドに戻った。


 真紀はこちらに背中を向けて寝ている。彼女の姿を見続けていたらそれこそ気がおかしくなりそうだったので、俺も彼女に背を向け、背中合わせの姿勢になった。

 落ち着け、落ち着くんだ。明鏡止水の心。

 時折触れる彼女の足は、ひんやりと冷たかった。冷え性というのは本当らしい。


 会話はなく、ただただ沈黙が流れる。絶え間なく降りしきる雨はまだ弱まる気配がなかった。

 何か話しかけるべきか? ……いや、でも、何を話したらいいのかわからない。よくよく考えてみれば、彼女と二人きりになるのもこれが初めてだ。彼女のパーソナリティについて、俺が持っている情報は極めて少ない。寡黙で、冷徹で、頭が切れて、ミステリをよく読む……それぐらいだ。俺は普段あまりミステリを読まないので、それを話題にすることもできなかった。

 そもそも彼女は、そういった無駄な会話をあまり好まないタイプのように思える。だとすれば、下手に話を切り出さないほうがいいのかもしれない。随分都合のいい結論ではあるが、俺はそうやってこの沈黙を正当化した。


 眠れる気は全くしなかったのだが、やはり疲れていたようだ。再び睡魔がやってくるまでに、それほど時間はかからなかった。

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