一日目 夜(1)
最後の招待客を乗せた乗用車が駐車場を出て、九十九折りの下り坂を下りてゆく。暗がりの中を走ってゆくヘッドライトが、季節外れの蛍のように見えた。
伯父様と一緒に招待客を見送って、葉子お祖母様の誕生日パーティーがようやく終わった。西野園家の娘としての重責から解放され、気の緩んだ体に疲れがどっと押し寄せてくる。さしもの伯父様も、その表情には疲れの色が滲んでいた。
ホールに戻ると、瞬、黒木さん、高部さんの三人が椅子に腰掛けてぐったりと休んでいた。
「いやあ、三人とも、今日はご苦労さんだったね。おかげで無事、パーティーを執り行うことが出来た。みんな、食事はまだだろう? 一緒に残った料理を食べよう。私も真紀ちゃんも、挨拶回りで忙しくてあんまり食べていないんだよ。そうだ、西原さんたちも呼んで来よう。おふくろは……もう休んでしまったかな。山根さんにも食べてもらいたいんだが、彼女は持ち場を離れないだろうね?」
西原さんとは今日の料理を作ったシェフのことで、西原さん以外にも二人の助手がキッチンにいたはずだ。伯父様の問いに、黒木さんが答える。
「……ええ、恐らく、固辞するものと思われます……彼女、責任感が強いですから」
「うん、そうだろうね……まあ、おふくろに報告がてら、ちょいと様子を見てこようと思っていたから、私がついでに料理も持っていくことにしよう。君たちはゆっくり食べていてくれ」
伯父様は料理を皿に取り分け、ワゴンに乗せてホールを出ていった。
それから少しして、厨房からシェフが姿を現した。西原という初老の男性シェフで、麓でレストランを営んでいるらしい。この辺りではちょっと名の知れた店なんですよと、高部さんの談。西原シェフとは、黒木さんと一緒に厨房周りの手伝いをしていた際に話す機会があった。祖父の存命中からずっと、葉子お祖母様の誕生日パーティーには毎年料理を依頼されているのだそうだ。
西原シェフと二人の助手を交えて、七人で料理を頂く。メニューは割とオーソドックスな洋食のオードブルだった。祖父の存命中は料理も全てフルコースで、準備も大変だったそうなのだが、祖父が亡くなってからパーティーそのものも少しずつ簡素なものになり、使用人の減少で手が回らなくなってからは、料理も大皿のオードブルになった。これは高部さんと西原シェフが話していた内容だ。
お腹も空いていたし料理もおいしいはずなのだが、なんだか味がよくわからないし、食欲もそれほど湧かなかった。瞬の前だから遠慮しているというわけではなく、本当にあまり食べたくなかったのだ。ドレスが少し窮屈なせいもあるかもしれないが、それ以上に精神的な疲労が大きかった。高部さんと西原シェフは昔話に花を咲かせていたが、それ以外のメンバーは皆疲れているのか、会話はほとんどなかった。
しかし、伯父様が戻って来ると、場の空気は一転して賑やかになった。
「おふくろも今日は具合がよさそうだったよ。あの年になっても、やっぱり誕生日ってのは嬉しいものらしい。今夜は黒木さんにも山根さんにも、ゆっくり休んでもらえそうだね」
「伯父様、おばあさまの誕生日パーティーは、毎年行われているのですか?」
黒木さんから大まかには聞いていたのだが、会話を繋ぐために改めて水を向ける。
「そう、毎年だよ。いつ頃からだったかな……親父の事業が軌道に乗り始めたあたりからじゃないかな。親戚やグループ企業の幹部、お得意様や取引先の社長なんかを呼んでね。これでも、親父が生きていた頃は、それなりに名の通った歌手を連れてきてここで歌わせたりした事もあったから、当時に比べたらだいぶ倹約しているんだけどね。ね、西原さん、高部さん」
「はい、懐かしい話ですな……旦那様は、大変な愛妻家でいらっしゃいました」
西原シェフは、記憶を辿るように目を細めながら相槌をうった。それに応じるように、高部さんもぼそりと呟く。
「当時の事を知る者も、だんだん少なくなっていきますなあ……黒木さんも山根さんも、ここに勤め始めたのは旦那様が亡くなられてからですからね」
「まあそれでも、親父の遺言でもあるし、やめたらやめたで『榊グループも落ち目か』なんて噂を立てられるかもしれないしね。色々あるんだよ」
後片付けは明日にしよう、という伯父様の提案に満場一致の賛成が得られ、食事を終えたところでこの日は解散となった、西原シェフと助手二人は車で帰宅、私達五人は、それぞれの部屋に戻る。
部屋についてすぐ、私は窮屈なドレスとハイヒールを脱ぎ捨て、ベッドに倒れ込んだ。ふぅぅぅ、と大きく息を吐いて、目を瞑る。
大学で多少ちやほやされて場慣れしていたつもりだった。でも、先輩といってもせいぜい四、五歳しか違わない学生と、自分よりはるかに目上の人に囲まれるのとでは、緊張の度合いが全く違う。ただでさえ不慣れなパーティーの場で、好奇の視線に晒され、社交辞令と口説き文句に耐えながら微笑み続けなければならないということの苦痛。もし瞬がいなかったら、心細くてあの場で卒倒していたかもしれない。
そう、てっきり彼は否定するだろうと思っていたのに、もう"フィアンセ"が既成事実になりつつある。悪戯にしてもさすがにまずかっただろうか。でも、私はとても嬉しい。嘘から出た真という諺の通りになればいいな……。医学部だなんて見栄を張ったのが少し余計だと思うけれど、ある意味それも彼らしいし、ちょっぴりスリルがあって楽しくもある。でも、この夢のような時間も、明日でもう終わってしまうんだ。
瞼を開け、部屋が真っ暗なままであることにようやく気付いた。ベッド脇のライトを点けて、部屋の中を観察する。昼間は忙しくてそんな余裕がなかったのだ。
ごく一般的なビジネスホテルの一室のように無機質な内装。入ってすぐの扉はトイレ付きのユニットバスで、その先のリビングの中央にシングルベッド。ベッドの脇に備え付けられた白い抽斗付きの鏡台。その上に載っているアンティークらしい真鍮の燭台が、ややアンバランスな趣を放っている。床に敷き詰められたグレーのカーペットが、白で統一された内装を引き締めていた。ベッドの正面には書き物机とテレビ台、窓際にはソファとテーブルが置かれている。かつては使用人の居住スペースとして使われていたものを改修した部屋だ、と聞いた。館全体のフレンチスタイルの意匠とはかけ離れているこの部屋が、やけに味気なく、退屈に感じられた。
でも今夜は、壁一枚隔てた向こう側に瞬がいる。
その事実だけで、私にとっては素敵に特別な部屋となるのだ。瞬がすぐ傍にいるという安心感と、ほんの少しの不安。そして、ごく僅かな期待。
もし今夜、瞬が私の部屋を訪ねて来たら……。
どうしよう?
心拍数がちょっぴり上がる。ああ、いけない、こんな事を考えていたら眠れなくなってしまう。そう思いつつも、気付けばちゃっかり鏡台の前に座っていた。
メイクは崩れていない。でも、もうちょっと艶っぽいメイクにしておく?
いやいや、それじゃあまるで誘っているみたいじゃないか。それに……そう、いずれにしても、彼が一番したいであろうことを、私はさせてあげられないのだ。この体は、彼女のものなのだから。
我に返った私を、重い虚無感が襲う。考えてみれば、フィアンセなんて言い出したのも、彼女にとっては迷惑だったかもしれない。もしかして、怒っているだろうか……。
バラバラと強い雨音が、狭い室内の空気を震わせる。さっきまでの楽しい気分はどこかへ消え失せて、急に淋しさが募ってきた。さっさとシャワーを浴びて寝よう。
と、その時突然、この鏡台の抽斗の中が気になり始めた。一体この違和感の正体が何なのか、自分でも全くわからない。でも、そこからただならぬ気配を感じることは確かだった。私は自分自身に戸惑いを覚えながら、その鏡台の抽斗を開けた。
そこにあったのは、色褪せた普通のノートだった。B5サイズの、どこにでも売っているようなモノトーンのありふれたデザイン。うっすらと積もった埃が年月を感じさせる。表紙には何も記されていない。
一見何の変哲もない、ただのノートだ。メモ帳代わりに備えられているもの――普通に考えれば、それ以外の意味はない。
なのに、どうしたことだろう。このノートから発せられる、強烈なオーラ、念のようなものが、皮膚にぴったりと貼り付き、毛穴から染み込んでくる。
これはただのノートではない。触れてはいけない、という確信めいた予感。しかしその一方で、私はこれを読まなければならないという使命感……いや、宿命のようなものさえ感じる。気付くと、私の意思に反して右手がひとりでにノートを拾い上げていた。
一体私の身に何が起こっているのか……混乱した私の意識をよそに、制御を離れた左手が、小刻みに震えながらノートの表紙をめくる……。
実際こんな感じのパーティーがあるのかどうかは知りません。




