五日目 朝
鏡台の抽斗に収められていた、色褪せたノート。
その全てを読み終えた私は、ところどころインクが薄くなった表紙を見つめていた。
そこに記されていたのは、戦時中をこの館で過ごしたある少年と、私と同じ『真紀』という名前の少女の物語。空き時間に少しずつ読み進めていた物語の最終章を、ついさっき読み終えたばかりだ。その驚愕の結末に、私は言葉を失っていた。
それは、私の祖父、榊朋光こと榊宗太郎が遺した手記だった。そこには、祖父と葉子お祖母様の出会いから結婚、そして現在に至るまでの経緯と、その中で行われた殺人についての告白が綴られていた。
葉子お祖母様が、曾祖父の愛人だった。
それだけでも充分に衝撃的なのに、曾祖父の死が実は二人の手による殺人だった……。唐突にそんな事実を明かされて、冷静に受け止められる人がいるだろうか?
少なくとも、私には無理だ。
いつも優しかったお祖父様と、温厚な葉子お祖母様。幸せそうに微笑み合っていた二人の笑顔が、頭の中に繰り返しフラッシュバックする。
いったい祖父は、どんな気持ちでこの手記を書き上げたのだろう。
祖父の死因は癌だった。発見した時には既に全身に転移しており、手の施しようがなかったと聞く。
医師に余命を宣告されてからの数か月を、祖父はこの館で過ごした。この手記はおそらくその時期に書かれたものに違いない。万年筆で手書きされた文章は随分筆が乱れていて、それはまさに蚯蚓ののたくったような、という表現が相応しいほどの有様だった。量の割に読了までの時間がかかってしまったのは、ひとえにその判読に苦労したせいだ。
普段の私なら、こんなに読みづらいものは途中で投げ出しているに違いない。最終章に至るまで、これが祖父の手によるものだとは知らなかったのだから。それなのに、何故か、途中で投げ出そうとは一度も思わなかった。死の間際に、震える手を抑えながら必死に筆を執った執念のようなものが、この崩れた文字から伝わってきたからだろうか。
そして私は、改めてこの無機質な部屋を見回した。
記述によると、この手記はかつて使用人時代の祖母が暮らしていた部屋のあたりに隠されたらしい。それ以来、誰かの手によって移動させられた可能性がないとは言えない。しかし、もし祖父が隠したのがこのテーブルの抽斗だったとすると、昔はこのあたりに葉子お祖母様の部屋があったということになる。
もちろん、客室として改修された現在のこの部屋に、当時の面影は残っていないだろう。それなのに、なんだか突然、この部屋から当時の祖母の息遣いや苦悩が感じられるような気がし始めた。それに加えて、本来は母の部屋に泊まる予定だった私が、急遽予定を変更してこの部屋に泊まることになったという偶然。これは本当に偶然なのだろうか? 私には、神の……いや、祖父の見えざる手が働いたとしか思えない。でも、何故私にこれを……?
これが何を意味するのか。私にはまるでわからない。昨日から今日にかけて、私にとっては衝撃的な出来事が多すぎて、今は冷静に考えられるだけの心の余裕がないのだ。
ごめんなさい、お祖父様。でも、私はここに書かれていたことを誰にも話さないと誓います。きっと、もう一人の私――あなたが心残りだと言っていた女の子――も、同じ意見でしょう。
私は心の中で念じながら、その色褪せたノートを、そっと元の抽斗に戻しておいた。
それから私は、鏡台の前に移動した。そこに映っているのは、鏡に映った自分。昨日と何も変わらない自分。昨日までとは違うはずの自分。
白いスリップを脱ぎ捨て、下着も外して、自分の体を確認する。
傷一つ、そして痣一つ、どこにも残されていない。
血の流れた痕すらない。
破瓜の痛みも、私の中に入った瞬の感触も、何一つ残っていなかった。
昨日の夜、彼女――もう一人の私――による支配がふっと弱くなって、私は目覚めた。とはいっても、体は依然として彼女の支配下にあり、意識だけが目覚めた状態だ。
彼女が出ている時でも、彼女に起こされた場合だけ、私の意識は目覚めることができる。しかし昨夜の場合に限っては、彼女に起こされたわけではない。彼女の意識が急激に弱くなり、相対的に強まった私の意識が目覚める余地ができた、という表現が、感覚的には最も近い。そんなことは過去に一度もなかった。
いったい何事だろう。彼女に何かあったのだろうか。
私は急いで視覚野のピントを合わせた。目覚めたばかりの私の目――正確には、彼女の目を通した視点、スクリーンのようなもの――に飛び込んできたのは、私の下で仰向けに寝ている瞬の姿だった。裸になった私の、いや彼女の体は、瞬の上に跨って体を震わせている。
何が起こっているのか、すぐには理解できなかった。意識が目覚めたとは言っても、この時の私には視覚と聴覚以外の感覚がシャットアウトされているため、触覚については麻酔をされているように何も感じない。いや、本当は受け入れたくなかったのかもしれない。でも、瞬が体勢を入れ替えた時、私もそれを認めざるを得なくなった。
最初は低く呻いているようだった私の声は、次第に自分でも聞いた事のないような高いトーンの嬌声へと変わっていく。
これが、私の喘ぎ声……。
なんだか、泣いているみたい。
私は他人事のように冷静にそう思った。もしかしたら彼女は本当に泣いていたのかもしれない。私も泣いていたのかもしれない。けれど、その時の私には涙腺がなく、泣くことすらできなかった。あったのは、諦めと深い悲しみだけ。
どうして彼女は瞬と体を重ねているんだろう。彼女は瞬のことを何とも思っていないはずだ。初めての経験は、この体の本来の持ち主である彼女のために……そう思って、今までずっと、あの時も、あの時も、我慢してきたのに、どうして彼女は私の彼氏とまぐわっているのだろう。どうせこうなるなら、私が……。瞬の部屋の天井を見ながら、そんなことを何度も何度も繰り返し考えた。
しかし、全てはもう手遅れだった。私の声は誰にも届かない。私には指一つ動かすことができない。
こんなに深く繋がっているのに、私の中にいる瞬を感じることすらできない。緊張も、ドキドキも、痛みすらも、何もない。それを得られる機会は、もう永遠に失われてしまったのだ。彼女が感じる喪失感と、私が感じている喪失感とでは、果たしてどちらが大きいだろう。
真剣なのに無表情な瞬の眼差しが、少し怖かった。私が知らない瞬がそこにいた。
私は考えることも感じることも放棄して、自ら眠りに就いた。
そして今朝。
私はいつもと同じように、鏡台の前で目覚めた。
まだ私がこの体を使ってもいいのか。私に存在価値があるのだろうか。彼女にとって利用価値があるということか。
いっそあのまま消えてしまいたかったのに、私には消滅する自由すらないらしい。彼女の体を使って自殺する気には到底なれない。もう、このままずっと沈黙してしまおうかとも考えたけれど、結局それもできなかった。それはやはり、まだこの世に、そして瞬に未練があるからかもしれない。
窓の外に目を向けると、昨日までの雨が嘘のように見渡す限りの青空が広がっていた。細かい雨粒を纏った小さな花々が日の光を浴びながらきらきらと輝いて、数日ぶりの日差しに快哉を叫んでいるように見える。窓を開けると、朝の爽やかなそよ風が頬を撫で、新鮮な山の空気を運んできた。
眼下に広がる緑の山々、清々しい小鳥の囀り。とても気持ちいい朝。
もっと晴れやかな心でこんな朝を迎えたかった。
その心地よさが、今では全て嫌味に思えてしまう。色彩を取り戻した世界の中で、私だけが灰色のままだった。




