四日目 朝
眠れない夜が二晩も続いたせいか、或いは精神的なストレスからくるものか。俺は頭に釘を打ち込まれたような重い頭痛に苦しんでいた。
シーツには真紀の香水の匂いがまだ微かに残っていて、ベッドに入る気にはとてもなれなかった。仕方なくソファに横になってはみたものの、人をダメにするソファも今夜ばかりは俺を眠らせてくれない。いつでもどこでも眠れることが数少ない長所であるはずの俺が二日連続で一睡もできないなんて、例えばオスの三毛猫ぐらいレアな事象だと言っても過言ではないだろう。
気晴らしに窓から外を眺めてみても、空は相変わらずどんよりと灰色で、却って気が滅入ってしまう。館は山の中腹に建っているため、天気が良ければさぞかしいい眺めだと思うのだが、その景色を目にする機会はついに訪れないかもしれない。雨はまだ間断なく降り続けていて、一向に止む気配がなく……これ、もう何度目だろう。
時計を確認し、さて、そろそろ朝食の時間かなと思ったところで、最早聴き慣れたノックの音。
「開いてるよ」
「おはよう、瞬。今日はよく眠れた?」
入ってきたのはもちろん真紀だ。俺の彼女、明るい人格の真紀。昨夜の彼女と比べると、昼間のメイクはだいぶナチュラルであることに気付く。彼女の爽やかな笑顔から始まる一日。今朝は台詞も一字一句違わず昨日のままで、本当にループしているんじゃないかと疑いたくなる。唯一異なるのは、彼女が身に着けている白いワンピースのデザインがほんの少し違っていることぐらいだ。
昨夜のことがふと脳裏をよぎる。俺の目の前で化粧をしたもう一人の真紀。彼女の不敵な笑みと、柔らかい肌の感触。そして、彼女の言葉。化粧は単なる儀式のようなものでしかなく、それによって必ずしも人格が入れ替わるわけではない、という告白。では、今俺の目の前にいる真紀は、いったいどちらなのだろう……という疑問が首を擡げる。また、彼女はこうも言った。『あの子は私にコントロールされている』と。
「え、何? 顔に何かついてる?」
真紀がきょとんとした表情で顔をさすっている。
「いや、何も、おかしなところはないよ」
「なんか、じいっと見つめてくるから……」
「それは、その、今日もかわいいなと思って」
すると彼女は、お馴染みの歯痛ポーズを作って、僅かに首を傾いで微笑んだ。天使のようなその笑顔には一点の翳りもなく、薄暗い室内が途端に華やいだような気がした。間違いない、彼女は、俺の真紀だ。当たり前じゃないか。俺が迷ってどうする。
「そう言ってくれるの、何だか久しぶりだね♡」
彼女はとても上機嫌だ。はて、そんなに久しぶりだっただろうか……?
食堂に向かうと、やはり得雄氏が既にテーブルに着いていた。今朝も蒼太少年の姿は見えない。もしかして洋食が苦手なのだろうか。いや、そんなまさか。
「おはようございます、伯父様」
「得雄さん、おはようございます」
得雄氏は、朗らかに笑って答えた。
「やあ、お二人さん。おはよう。今日の朝食は何だろうね。もう、この館に何日もいると、食事ぐらいしか楽しみがなくなってくるよ」
これには俺も全く以て同感だ。今日一日どうやって時間を潰そうか、考え出すと朝から憂鬱になりそうだ。寝たいのはやまやまなのだが、彼女の親戚の家に居候して寝てばかりいてはさすがにまずいような気がする。
「ご期待に沿えるかはわかりませんけれど、お持ちしましたよ~」
俺達が席に着いた頃、ちょうど山根さんが料理を運んできた。今日はサンドイッチにコーンスープ、そして果物だ。サンドイッチには、ハムや卵、レタスなどがはち切れんばかりに詰め込まれていて、朝食にしてはなかなかボリュームがありそうだった。
「どうぞ、お召し上がりくださいませ。だんだん冷蔵庫が寂しくなってきて、もうあまり手の込んだものは作れなくなるかもしれません……この雨、いったいいつまで続くのかしら……」
山根さんは困り顔で外を眺めた。食堂の窓からは花壇が見渡せるのだが、雨が続いたせいか、どの花も何となく萎れ気味に見える。珍しく朝から空腹を覚えていた俺は、早速サンドイッチを頬張った。レタスが新鮮で、パリパリという歯ごたえが心地よい。
「いやいや、非常事態だから贅沢は言えないよ。あ、そうそう、山根さん、申し訳ないが、蒼太の部屋にも少し持っていってもらえないかね? きっと、私が持っていくと食べないだろうから……」
「かしこまりました。お坊ちゃま、ご自宅でもあんな……いえ、ああいった様子なんですか?」
あんな様子と言いかけて咄嗟に訂正したが、山根さんのその口調には微かに非難の色が混じっている。
「う~ん、昔は大人しい子だったんだが……妻がちょっと過保護に育ててしまったのかもしれないな。まあ、私もあまり子育てに協力してやれなかったから、彼女ばかりを責められないんだけどね」
真紀はその間、サンドイッチには手も触れず、二人の会話を神妙な面持ちで聞いていた。そんな彼女の様子に気付いた山根さんが、怪訝そうな表情で真紀に声を掛ける。
「あら、お嬢様、サンドイッチは苦手でいらっしゃいます?」
真紀は、とんでもないといった風に首を横に振った。
「いえ、なんだか、他人事とは思えなくて……」
「はは、そういえば、杏子も過保護な母親だったな。真紀ちゃんが東北の大学に進学して一人暮らしするって聞いたときは随分驚いたもんだよ。よくあの杏子が許したなぁってね」
そう言いながら、得雄氏もサンドイッチを口に運ぶ。
「私も人の事は言えないが、杏子は結婚が遅かったからね……なかなか子供ができなくて、不妊治療の末にようやく授かった一人娘だから、どうしても大事にしすぎちゃうんだな。そういえば、真紀ちゃんが不登校になり始めたのも……」
そこまで言いかけて得雄氏は、しまったという表情で口を噤んだ。……不登校? 真紀が?
思わず真紀の方を振り返ると、彼女は苦笑しながら頷いた。
「そう、私も蒼太くんと同じぐらいの年から、高校卒業まで、あんまり学校に通っていなかったの」
「へえ……そうなのか。初耳……真紀は成績もいいし、全然そんなタイプには見えないし……」
「おや、もしかして瀬名君にはまだ話していなかったのかい? ……これはとんだ失言だったな……」
得雄氏は顔を顰めながらボリボリと頭を掻いた。
「いいんです伯父様、別に隠すつもりはありませんでしたし、きっといつか自分で話していたことだと思います……話す手間が省けましたわ」
真紀はにこやかな笑顔で得雄氏を宥める。それを受けて、得雄氏も安堵の表情を見せた。
「いやあ、本当に、申し訳ない……でも、この際だからと言っては何だが……その時、真紀ちゃんはどういう心境だったのか、聞いてもいいかな? 私は見ての通り能天気な人間だから、何というか、その……心を病んだ人の気持ちがよくわからないんだよ。もし、あまり思い出したくないのなら、そう言ってくれて構わないんだけど」
すると、真紀は少し天井を仰ぎ見るような仕草を見せた。昔のことを思い出しているのだろうか。或いは、どう答えるべきか整理しているのかもしれない。
「う~ん、どうでしょう……私の話をしても、あまり参考にはならないかもしれませんが……私の場合は、子供の頃から自由がなかったから、とにかく無気力でしたね。束縛されて、制限されて、お人形みたいに何もできなくて、そのうちに何もする気が起きなくなって……引きこもることだけが、唯一残された自由であり、反抗だったのかもしれない。でも、そんな中で、本を読んでいる間だけは、いくらでも自由に想像の翼を羽ばたかせられる。作者の世界に飛んでいける。新しい世界を作ることができる。だから、とにかくひたすら本を読んでいた記憶があります。それと、アンジュ……その時飼っていた犬の名前なんですけれど、アンジュに触れている間だけは、現実世界に戻ってきたような、世界と繋がっているような……大袈裟な表現をすれば、生きている、という感覚を確かめることができたんです。それに、アンジュの世話をしている間は、自分にもできることがあるんだって……自己効力感というか、そういうものを感じることができた」
窓の外を眺めながら、どこかもっと遠くを見つめているような真紀の横顔。そして、その口から始めて語られる昔の彼女の物語。犬を飼っていたという話は何度か聞かされているし、写真も見せてもらったことがあるのだが、よくよく思い出してみれば、真紀とアンジュが一緒に写った写真は一枚もなかったような気がする。それどころか、そもそも俺は昔の彼女の写真を一枚も見たことがないのではないか……?
「蒼太くんの場合は、お母さまには心を開いていらっしゃるようなので、私とは事情が異なるとは思いますが……それでもきっと、時々、孤独感とか、無力感とか、そういうものに苛まれることがあると思うんです。そんな時のために、何かペットを飼ってみるというのはどうでしょうか。小鳥でも、小動物でも……」
すると得雄氏は、顎に手を当てて、考え込むような仕草を見せた。
「なるほど、ペットか……私自身あまり興味がないから、考えた事もなかったな……しかし、真紀ちゃんの話を聞いてみると、確かに効果がありそうな気がしてきた。真紀ちゃん、話してくれてありがとう。今度、妻と相談してみるよ」
ぱっと明るくなった得雄氏の表情を見て、真紀は満足そうに頷いている。そんな彼女を見つめながら俺は、まだまだ真紀のことを何も知らないのだと痛感していた。




