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太母元型

 こんな時に、僕は何をやっているのだろう。 


 未だに止む気配のない霖雨が、爆弾のように激しい音を立てて屋根を叩く。

 僕は今日も真紀を追って、あの男の部屋の前で膝を抱えている。湿気が酷く、蝋燭に火を灯すのに少々苦労させられた。


 気分は最悪だった。今日は止そうと何度思ったか知れない。いや、確かにさっきまではそのつもりだったのだ。それなのに、彼女の足音を聞き、夢中遊行している彼女の姿を見ると、居てもたってもいられず、自然と足が動いてしまう。これでは一体どちらが夢遊病なのかわかったものではない。

 彼女への想いは、最早自分でも抑えきれないほど日増しに大きくなっていた。昼間見かけた給仕姿の彼女も魅力的ではあるが、それ以上に、真夜中の館の中を彷徨い歩く寝間着姿の彼女に、僕は魅入られている。


 湿気を帯びた夜気が肌にねっとりと絡みつき、沈鬱な心を毛羽立たせていく。気付けば、また知らぬ間に母の事を考えていた。もうやめようと決心したのに、僕の意識は容易に従ってはくれない。長雨に冷やされた山の空気はしんみりと冷めきっていて、幼い頃、母の胸の中で感じていた温もりが今更になって恋しく感じられた。


 やがて扉が開き、中から彼女が姿を現した。

 能面のような無表情、胡乱な目付きで、いつもと同じ廊下を戻ってゆく……かと思いきや、彼女はそこでひたと立ち止まった。そして、そのまま扉の前できょろきょろと辺りを見回している。どうしたことだろうと観察していると、ちょうどこちらを振り向いた彼女と不意に目が合ってしまった。僕が隠れている廊下の角は復路とは反対の方向にあり、これまで彼女と視線が合うことなどなかったのだ。僕は、慌てて首を引っ込めた。

 しかし、時既に遅し。彼女は真っ直ぐこちらへ歩いてくる。僕は、悪戯を咎められた子供のように縮こまりながら彼女の前に進み出た。

「……どうして、隠れているのです?」

「……何故でしょう」

 彼女の方から声をかけられたのは、これが初めてだ。間近で見た彼女の表情には、まるで菩薩像のような、深い慈愛が感じられた。穏やかな眼差し、たおやかな口元……そう、僕はこの時初めて、彼女はどこか母に似ている、と思った。いつもとはどこか様子が違う。彼女の薄紅色の唇から、小鳥の囀りのように清らかな声音が零れる。

「少し、話をしませんか?」


 彼女の案内で、僕は小さな物置部屋に入った。

 掃除用具やら何かの小瓶やら、なんだか用途のよくわからない雑多なものが詰め込まれている埃っぽい部屋だ。一人では絶対に入らない部屋だが、確かにここならば誰かに見つかる気遣いもあるまい。部屋の奥のほうには、二人で腰掛けるのにちょうどよさそうな古い長椅子があって、軽く埃を払ってから、僕達はそこに並んで腰掛けた。


 それから暫く、僕達の間には沈黙が流れた。

 無理もなかった。面と向かって話をするのはこれが初めてなのである。誘った彼女の方でも、慎重に言葉を選んでいる様子だ。それでも、先に口を開いたのは彼女だった。

「今日のことは……何と言ったらいいか……」

 やはりそのことか。

「やめてください。慰めの言葉なんかを聞きたいわけじゃないのです。この話は止しましょう」

「……そ、そうね。ごめんなさい」

 そう応じた彼女の声からは、少し意気消沈したような様子が窺えた。

 僕はすぐに後悔した。せっかく彼女の方から誘ってくれたのに、いきなり話の腰を折るようなことを言ってしまったからである。これでは話が続くはずもない。何か、よい話題はないか。考えた挙句に出てきたのは、こんなつまらない話題だった。

「……雨、止みませんね」

「……もう、何日になるかしら……」

 それっきり、天気の話もお終いになった。


 僕はすっかり参ってしまった。年頃の、少し年上の女性と、いったい何を話したらいいのか全くわからない。最近読んだ本の話ならいくらでもできる自信があるのだが、まさか彼女がそんな話を好むとも思えない。また暫く悶々としていると、話を切り出したのはまたしても彼女だった。

「こんな話は嫌かもしれないけれど……お父様のことは、お嫌い?」

 よりによってその話か、とは思ったものの、先程話を遮った負い目もあり、僕は彼女の問いに答えることにした。


「これは、母から聞いた話なんですけど……」

 と前置きをして、両親の馴れ初めについて話し始める。両親が出会ったのは、父がまだ大学に通っていた時分のことだった。母の兄と父が大学での同期だったらしく、そのつてで二人は知り合った。

 当時の父は、勉学には真面目に励んでいたものの、女癖が大層悪い男だったそうだ。だから、父が母に一目惚れして想いを打ち明けたときは、周囲から相当反対されたらしい。しかし、それから父も心を入れ替えて、女遊びをすっぱりやめ、毎日のように母の許へ通い詰めるようになったという。母もそんな一途な父にほだされて、後に二人は結婚することになる。


 結婚してからも暫くは仲睦まじく暮らしていた二人だったが、母の妊娠を契機に、父の浮気の虫が騒ぎ始めた。母が出産のために苦しんでいる間、父は何人か愛人を拵えていたのである。父の浮気は、僕が生まれてからも数年の間は暴かれることがなかった。しかし、僕が五歳の頃、それがついに白日の下に曝されたのだ。

 当然母は激怒し、父はその場では謝ったものの、それからも隠れてこそこそと浮気を続けていた。母もそれを知っていたので、それ以降、二人の仲が元に戻る事はなかった。

 それ以降、母はそれまで以上に僕を溺愛するようになった。世間体を気にして離縁こそしなかったものの、ずっと別居状態だ。母は気丈に振る舞っていたけれど、僕が眠りについたと見るや、毎晩のように枕を濡らしていたことを僕はよく知っている。だから、あの父を許すことは到底できないのだ。

 今でもそれらの愛人とは縁が切れておらず、また最近新しく若い愛人を囲ってもいるらしいという噂である……というような、父に関する話を、かいつまんで伝えた。こうして話しているだけでも、腹の底に怒りがふつふつと沸き上がってくるような心地がする。


 彼女は神妙な面持ちで僕の話を聞いていた。

「……そう……そうなのね」

 それから少し何かを考え込んでいる様子だったが、やがて意を決したように話し始めた。

「それでも、これからは、一緒に生きて行かなければならないのでしょう? 今のままでは良くないわ。何よりも、あなたにとって」

「やめてください、その事で貴女にお説教される筋合いはないはずだ!」

 僕は思わず声を張り上げてしまった。僕にとって、父は唾棄すべき存在であり、親とも家族とも思ったことはないのだ。この体にあの男と同じ血が流れていることにさえ激しい嫌悪感を覚えるほどに。あいつとの家族ごっこだけは、いかに彼女の頼みでも御免蒙りたい。

「……ごめんなさい……ごめんなさい」

 彼女は目を伏せて、何度も謝罪の言葉を口にした。何か様子がおかしい。確かに僕は強い口調で応じてしまったが、それにしても反応が妙である。

「いえ、そんな……謝らないでください、こちらこそ、声を荒げてしまって……」

 顔を覗き込もうとすると、彼女はぷいと顔を背けた。肩が僅かに震えている。

「いつ何があるかわからない世の中だから……失ってから、後悔、するより……」

 そう言うと、彼女はそのまま両手で顔を覆ってしまった。声まで震え始めて、語尾がよく聞き取れない。

「真紀さん……どうしたんですか、いったい」


 彼女は泣いていた。

 まさか泣き出すとは思わなかった。女性を泣かせるのも、当然これが初めてである。激しく狼狽した僕は途方に暮れてしまった。だが、それでもとにかくどうにかして宥めなければなるまい、と考えて、全く無意識のうちに彼女の肩に触れていた。どさくさに紛れて、というと語弊があるかもしれないが、彼女に触れたのはこの時が初めてだった。時折嗚咽を漏らしながら震える彼女の華奢な肩は、掌に収まってしまいそうなほど小さく感じられる。


 はて、どうしたらよいものか。

 必死に頭を巡らせているうちに、僕がまだ幼かった頃、ぐずる僕を宥めてくれた母の思い出が脳裏に浮かんできた。僕の名を呼んで、よしよし、と背中をさすってくれたのを思い出したのだ。子供をあやすのとはわけが違うかもしれないが、とにかくやってみようと僕は考えた。

 それからしばらく、声を掛けたり、おそるおそる背中をさすったりしているうち、嗚咽や震えは次第に収まってきた。僕は安堵でほっと胸を撫で下ろす。


 顔を覆っていた両手がゆっくりと下ろされると、彼女の潤んだ目や鼻の頭はほんのりと赤みがかっていた。頬に流れた一筋の涙のあとも、まだ完全に乾ききっていない。

 僕は改めて、彼女の美しさに陶然とした。揺らめく瞳から、今にも零れ落ちそうな涙のしずく、その清らかさはどうだ。純潔を象徴する可憐な白い肌。今までどこか幻のように手の届かない存在であった彼女が、物理的な距離の接近以上に身近に感じられたのだ。

 それから僕は、先程彼女が言った言葉を想起した。『いつ何があるかわからない世の中だから……』まったくその通りだ。その事を、僕は思い知ったばかりではないか。


「真紀さん」

「……はい」

 彼女はこちらに向き直る。潤んだ瞳が、蝋燭の炎を映して揺れていた。女の涙がもつ抗いがたい魔力に囚われて、僕は一時も彼女から目を反らすことができなかった。それはまるで、鏡を挟んで向かい合う実体と虚像のように。

 実のところ、この時僕は正気を失っていたのかもしれない。なにしろ、唐突にこんな告白が口を衝いて出てしまったのだから。

「僕は、真紀さんのことが好きです」


 その言葉の持つ意味を理解するために、彼女は数秒の時間を要したようだった。だが、その束の間の沈黙ののち、彼女は瞠目し、次に、ゆるゆると首を振った。

「だめ……いけません、それは」

「何故です? 僕のことが嫌いですか?」

 彼女は僕から目を反らし、消え入るような声で呟いた。

「そんなこと……世間が許しません」

「世間が何だというんです? 法で禁じられているわけじゃない。僕と真紀さんは結婚だってできる。僕は……」

「いけません、そうた……」

 僕を呼びかけた彼女の口を封じるように、僕は無理矢理唇を重ねた。両手で必死に押し返そうとする彼女を押さえ付け、いきおい長椅子の上に押し倒す。

 彼女の細い腕はそれでも抵抗を続けていたが、その力は弱々しく、まさに赤子の手を捻るようなものだった。完全に組み敷いてからもしばらくは形だけの抵抗が続いたが、次第にそれも失せていく。

 僕は、初めてにしては些か乱暴すぎる接吻を味わっていた。彼女の唇の柔らかさ、若い女の体が発する香しい匂い、次第に恍惚と蕩けてゆく表情、その全てが艶めかしく、欲をかきたてる。


 しかし、その時不意に、彼女の喉の奥から微かな煙の臭いを感じて、僕はさっと身を引いた。これは、この臭いは、あの男の……?


 当惑する僕に、今度は彼女のほうから唇が押し付けられる。僕はそのまま、さっきとは真逆の格好で、長椅子の上に押し倒された。

 僕の未熟で荒っぽい口づけとは対照的に、唇が溶けてしまいそうなほど優しく丁寧で、それでいて濃厚なベーゼ。彼女の長い黒髪が顔の横に垂れて、帳のように僕達の口づけを覆い隠している。僕は目を閉じて、唇に全神経を集中させた。


 ふと、顔に何か生温かいものがぽたりと落ちる。

 瞼を開けると、彼女の大きな瞳から再び涙が零れていた。

 何故泣いているんだろう。

 僕は彼女を求めた。彼女も僕を求めた。こんなにも愛し合っているのに。僕には彼女の心理が不思議でならなかった。

 彼女は静かに唇を離した。それでも涙は止まらない。僕の頬に落ちた涙の雫が、そのまま頬を伝って下へと流れ落ちていった。

「ああ……もう……どうしたらいいの」

 彼女は上ずった声でそう漏らす。そして、僕の目をきっと見据えて言った。


「もう、こんな風に会うのはやめましょう」

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