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三日目 夜

 その日の夕食はオムライスとサラダ、そしてコンソメスープだった。作ったのはもちろん山根さんで、オムレツは洋食専門店のようにふわっと……はしていなかったが、その代わりに、リクエストしたものを何でもケチャップで描いてくれるという、まるでメイドカフェのようなサービスがついた。

 得雄氏は遠慮したが、真紀は何かのキャラクターを描いてもらっていた。コミカルにデフォルメされた犬のキャラクターで、女の子の間では結構有名なものらしい。俺はその方面はからっきしなのだが、真紀の反応を見ると相当上手に描けているようだ。

 一方、気の利いたアイディアが浮かばない俺は、色々考えた挙句、なんとラーメンをリクエストした。さすがに無茶ぶりだったかと思ったのだが、彼女のケチャップアートスキルは非常に高く、なるとの渦のような細部に至るまで見事に再現されたラーメンがオムレツの上に描き出されていた。それは、実は本当にメイドカフェでバイトしたことがあるのではないかと疑ってしまうほどの高いクオリティだった。


 夕食の後は、真紀によるチェス講座の時間となった。

 講座といっても内容はほとんどが実戦で、案の定、俺は徹底的に嬲られた。負け続けて楽しめるはずもなく、よかったことと言えば、真紀がとても楽しそうだったことと、駒を動かす指が時折触れたことぐらいだろうか。些細なことではあるが、腕を組んだり手を繋いだり、そういうありふれた接触とはまた違った趣があるものだ。


 チェスDV、もとい、チェス講座は夜の十時ごろまで続いて、俺達はそれぞれの部屋に引き上げた。


 部屋で一人になると、窓を叩く雨音が急に意識に上り始める。時々小降りになったりはするものの、止む気配は全くない。この調子だと、おそらく明日の晩もこの館で過ごすことになるだろう。これほど長い滞在になるとは思ってもいなかったので、着替えの下着が今履いているもので最後になってしまった。明日、山根さんにでも洗濯をお願いしてみようか。


 それから、思考は昨晩のことへと移っていく。


 小雨との関係を清算し、自分を抱くようにと迫ってきた、もう一人の真紀の人格。そんな彼女に対して、俺は迂闊にも『君は真紀じゃない』などと口走ってしまった。それを聞いた彼女は、怒って部屋を出て行ったのだ。

 小雨との関係を指摘された時点で、もはや俺には彼女に逆らう権利などないに等しい。だが、それでも彼女の提案はどうしても受け入れ難かった。一つには、小雨との関係を簡単に断ち切ることができないという、我ながらひどく身勝手な理由。そしてもう一つは、真紀の体が二人の人格に共有されているものであるという、この二つの理由によるものだ。前者については、倫理的にも常識的にも到底理解を得られないものであろう。この件について、俺は自分を正当化するつもりはない。それに、こんな関係がいつまでも続けられるとも思っていない。でも、確実に言えるのは、俺と小雨にはもう少し時間が必要だということだ。たとえそれが破滅的な結末へと続く道であったとしても……。


 だがどちらかといえば、俺の中では、後者の理由――俺の恋人ではない人格の状態の彼女と肉体関係を持つことに対する、心理的抵抗――のほうが大きかった。

 これまでずっと周りの流れに身を任せながら生きてきたはずなのに、真紀に関することだけはそれができない。本能に身を委ねることもできなかった。こんな自分は初めてだ。


 昨晩あれだけ怒らせてしまったのだから、さすがに今夜はもう来ないだろう。少々寂しくもあったが、お互いのために、これでよかったのだと思う。


 シャワーを浴びてしまうと最早何もすることがない。テレビをつけてみても退屈なだけで、却って気がくさくさしてくる。起きていても悶々とするだけだし、ここ数日の睡眠不足を解消する意味でも、さっさと寝るのがベストだと判断して、俺は早々にベッドに潜った。




 コン、コン


 まさか。

 昨日と同じノックの音で、俺は目を覚ました。時刻は零時、ちょうど日付が変わったところだ。何かの聞き間違いではないかと扉を凝視していると、もう一度、


 コン、コン


空耳ではなかった。蝋燭に火を灯し、ベッドから体を起こす。昨夜のことが思い起こされて、俄かに気が重くなってきた。


 扉を開けると、そこに立っていたのはやはり真紀だった。素顔の、もう一人の真紀だ。今夜の彼女は人形のように無表情で、昨晩あれだけ感情をむき出しにした彼女とはまるで別人のようだった。

「今日は開けてくれないのかと思ったわ」

「こちらこそ、今日はもう来ないだろうと思ってたよ」

 彼女はそれに答えず、そのままずかずかと部屋に上がり込んだ。昨日、一昨日と同じ白いスリップ、そして相変わらず裸足のまま。昨晩と異なる点は、その手に小さなポーチが握られていることだ。昨日までは部屋に入るなりベッドに直行していた彼女だが、今日は真っ直ぐベッド脇の化粧台の方へと歩いていき、その前に設えられている椅子に腰掛けた。持ってきたポーチをテーブルに置き、その中からいくつかの道具を取り出してテーブルの上に並べていく。小さなコンパクトのようなものや、数本の小瓶、ペンのような形状のもの。あれは……もしかして、化粧品?


 一通りの道具を出し終えると、彼女は俺の目の前で、俺の視線など全く意に介さない様子で化粧を始めた。

 下地を塗り、ファンデーションをまぶし、アイラインを引いていく。全ての動作が手際よくしなやかで、その手捌きはさながら熟練の画家のようだった。自分の顔をキャンパスに作品を描いていく……それはまるで、全く別の人間を作り上げる作業のように。


 いつもより少し暗めのアイシャドウと、やや切れ長のアイライン。元々長い彼女の睫毛が、マスカラによってさらに強調されていく。深い紅色の口紅の上に、うっすらと重ねられるグロス。蝋燭の灯りが、艶やかな彼女の唇を一際浮かび上がらせる。最後にチークを施して、彼女は手を止めた。


 子供の頃、母親がしているのを見たことを除けば、女性が化粧をしている姿をこんなに間近で、そしてまじまじと見るのは初めてだった。

 古代の日本において、化粧とは儀式的なものであったという。それは魔除けであったり、神に捧げるものであったり。いずれにしても、赤い顔料のみを用いたシンプルなものだった。それが美容のために用いられ始めたのは、飛鳥・奈良時代に入り、大陸から白粉などの様々な化粧品が輸入されるようになってからのことだそうだ。それ以来、化粧は容貌を美しく見せるために発展を続けてきた。千年以上の時を経て、大部分の現代人は最早、悪魔を怖れず、神に祈らない。現代の化粧は、純粋な装飾品なのだ。

 しかし、彼女を見ていると、どこか霊的な儀式の意味合いを残しているような気がするのは何故だろう? 

 それは、夜の闇が見せる幻なのか。今の彼女は、数分前の素顔の彼女とは明らかに何かが違っている。彼女を覆うオーラが妖しく変質して、全く別の生き物になったような、見た目の変化以上に形容しがたい恐ろしさがあった。


 彼女はゆっくりとこちらを振り返る。

 黒く大きな瞳に捉えられ、俺は金縛りにあったように身動きが取れない。

 やがて彼女は、両手を頬に添え、僅かに首を傾けて、蠱惑的に微笑んだ。真紀の必殺の歯痛ポーズだ。

 俺の彼女。俺の真紀。

 彼女の白い頬に手を伸ばす。石膏のように白い肌に、至近距離で見なければ気付かないほどに薄く、ほんのりと乗せられた赤いチーク。瞳の下、頬骨に沿って入れられたチークをなぞるように、親指で優しく撫でる。

 真紀の冷たい手のひらが俺の手の甲に重ねられ、その黒い瞳が、まるでブラックホールのように俺の視線を吸い寄せる。

 俺は彼女を抱き寄せ、我を忘れてその唇を貪った。血のように深い紅色のルージュ。実は彼女がヴァンパイアで、突然牙を剥いて首に噛みつかれたとしても、俺はきっと驚かないだろう。

 そのまま彼女を抱き上げ、ベッドに押し倒す。白いスリップが腰のあたりまでめくれ上がって、華奢な太ももから臀部にかけてのなだらかな曲線、そして白いレースのショーツが露わになった。獣のような接吻で乱れた口紅が妙に生々しく、そして淫らに俺を誘う。少し息遣いの荒くなった彼女は、うずうずと腰をくねらせながら、恍惚の表情を浮かべている。その艶美な姿に誘われて、俺は再び唇を重ねた。彼女の両腕が首に回り、足が絡み合う。俺は、女郎蜘蛛に捕らえられた哀れな青年の姿を自らと重ね合わせた。この連想は何を示唆するものだろう。その疑問だけがぽっかりと宙に浮き上がったが、それは思考として全く形を成していない。俺はこの時、自分の自我が崩壊していく音を聞いたような気がする。


 唇を離し、もう一度彼女の瞳を見る。底なし沼のような、或いは蟻地獄のような、彼女の黒い瞳。すっかり理性を失った俺を見て、彼女は不敵な笑みを浮かべる。


 この瞬間、俺の意識は突如として、消えかかっていた超自我を取り戻した。

 彼女の表情に、強い違和感を覚えたからである。


「……お前は誰だ」

 すると、彼女は妖しく微笑みながら、耳元で囁くように答えた。

「私は真紀……あなたの恋人の」

「違う……君は真紀じゃない……危うく騙されるところだった」

 俺はそう吐き捨てて、すぐにベッドから離れた。真紀は乱れた呼吸を整えながら、仰向けのまま虚空を睨んでいる。つい先程までの官能的な表情とはうってかわって、険しい顔付きになっていた。

「もう少し騙されていれば、私を貴方のものにできたのに」

 貴方を私のものに、じゃないのか。まるで言葉遊びだ。

「君はそんなタマじゃないだろう? ……そんなことより、化粧で人格が変わるんじゃなかったのか」

 最大の疑問を口にする。真紀からも小雨からもそう聞かされていたので、化粧の有無で人格が切り替わるものだとすっかり思い込んでいた。しかし現に、俺の目の前で化粧を施した真紀の人格は切り替わっていないのだ。

「あなたたちは結果として切り替わった状態を見てそう推測している。確かにあの子が現れるのは私がメイクをした後だけど、メイクそのものは単なる儀式に過ぎない。彼女を起こすかどうか、その決定権は私にある。彼女は私にコントロールされているのよ」

「コントロール……?」

 コントロール。操作? 制御?

「真紀は……俺の彼女は、君の操り人形だと言うのか?」

 彼女は上体を起こしながら、狼狽する俺を嘲笑うかのように笑みを浮かべた。

「そうだ、と言ったら?」

 俺の頭の中は激しく動揺していた。二人の真紀の像が重なり、激しく入れ替わりながら迫ってくる。

「……悪いけど、出て行ってくれ」


 俺は、混乱する頭を抱えたまま扉の方を指差した。一度も彼女の方を振り返らなかった。

 真紀はそれから暫く鏡台の前で化粧品などを片付けていたが、ずっと無言のまま、静かに部屋を出て行った。

 もしも、俺が知っている真紀の全てが、あいつの指示によるものだとしたら……。

筆者は男なので化粧の描写にはあまり自信がありません。でもまあここはちゃんと書かなきゃいけないところだろうなと思い、自分なりに頑張ってみたつもりですが、いかがでしょうか。

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