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二日目 夜

 コン、コン

 まるでカスタネットのような小気味よい音が響く。浅い微睡みの中にいた俺の意識は、ノックの音で現実に引き戻された。


 今夜も来たのか。気だるさを振り払いながらベッドから降り、蝋燭を灯した。家庭教師のバイトを始めてから買ったジッポライター。これを人に見られると喫煙者だと思われがちなのだが、俺は煙草を吸わない。蝋燭のためだけに買ったライターだ。

 誰何は不要だろう。俺は無言で鍵を開けた。


 そこに立っていたのは、やはり真紀だった。白いスリップを身に纏った、素顔の真紀。まるで昨日のリプレイを見ているようだ。


「寒い」


 昨日と一語一句同じ台詞だったが、音にして三文字の言葉では間違えようもない。それにしても、もう少しバリエーションはあると思うのだが。真紀は俺の返事も聞かずにずかずかと部屋に上がり込み、ベッドに入った。寒いならもう少し着ればいいのに、と思ったが、口には出さない。その代わりに、肩を竦めながら言ってやった。

「今日も添い寝をすればよいのですか、お姫様」

 軽い皮肉のつもりだったのだが、自分でも、思ったより口調がきつくなってしまったと感じる。

「いいから早く来なさい」

 へいへい、と心の中で呟いて、昨日と同じように背中合わせでベッドに入る。彼女は右向き、俺は左向きに。

 そういえば、最近はソフレなるものが話題になっているらしいが、率直に言って、俺はソフレなんて欺瞞だと考えている。逆チョコと同じぐらい違和感を覚えるフレーズである。

 しかし、それを否定してしまうと、俺と彼女の関係は何になるのだろう……?

 もしかして、彼女はソフレが欲しかったのだろうか。しかし、ろくに話もしないのに、こんな事をしてどこが楽しいのだろう。俺には理解できないし、男には生理現象というものがあるのだ。

 そのまま数分が過ぎた頃、真紀が突然口を開いた。


「ねえ、起きてる?」

 どの口でそれを言うんだろう。誰かさんのせいでついさっき起こされたばかりだというのに。

「ああ、起きてるよ」

 数秒間の沈黙の後、彼女はこう言った。


「どうして何もしないの?」


 その言葉を聞いた瞬間、頭が真っ白になって、彼女の質問の意味がすぐには理解できなかった。そもそも、文章として曖昧すぎる。主語は一体何なのか、何を指した質問なのか、そしてそれは今この状況についてのことなのか? ……いや、そんなことは、わかりすぎるほどわかっているのだ。でも、それが彼女の口から発せられたということが信じ難かった。

「何もしないって……どういう意味?」

「それぐらいわかるでしょ? 子供じゃないんだから。私に言わせるつもり?」

 彼女の声が耳のすぐ近くから聞こえる。寝返りを打って、体勢をこちら向きに変えたようだ。

「ああ……失礼。それは……誘っていると受け取ってもいいのかな?」

「誘っているっていうか、つまりその……同じベッドで夜を過ごすってことは、そういうことなんじゃないの?」


 確かに、彼女の言っている事は間違ってはいない。俺はソフレなんてものを信じていないのだから尚更である。とはいえ、俺と彼女は、普通の男女とは事情が異なる。どう説明したらいいだろうか。

「まあ、そうだけど……いや、そもそも、どういう風の吹きまわしなんだ? この状況はいったい……」

「話をするならこっちを向いて」

 率直に言って、俺は怖かった。今振り向いたら、理性を保ち続けられる自信がない。だが、彼女がこちらを向いているのに俺は背を向けたままというのは、たしかに酷い。俺は渋々寝返りを打った。


 真紀の射貫くような瞳がすぐ目の前にある。シャンプーの香りだろうか、彼女の髪からふわりと薔薇の匂いが漂ってきた。

「ちゃんと私の目を見て話しなさい」

「怖いな……そんなこと言われたの、中学校の先生以来だぞ」

 軽くおどけてみたつもりだったのだが、彼女にその手は一切通じない。

「小雨、最近凄く大人っぽく、綺麗になったと思わない?」


 突然小雨の話を持ち出され、驚いた俺は、思わず彼女から目を逸らしてしまった。しかしすぐに、それが極めて重大なミスであったことに気付く。それでも、どうにか表情だけは取り繕って答えた。

「まあ、小雨は昔から、どちらかというと大人びた女の子だったよ」

「そういうことを聞いているんじゃないわ」

「……他に解釈があるかい?」

 どうにかはぐらかそうとしてみるものの、彼女に対しては全く無駄なあがきだった。

「最近小雨、また髪を伸ばし始めたでしょう。どうしてだと思う?」

「……さあ。気分じゃないかな? それを言うなら、真紀が髪型や髪色をしょっちゅう変えることにはいちいち理由があるのかい? それに、君が知っている小雨はどうだったか知らないが、小雨は元々、もっと髪の長い女の子だったし」


 真紀の眼光が一層険しくなる。どうやら、彼女が求めていた答えとは違ったらしい。とてつもなく嫌な予感がした。

「どうあっても口を割らないつもりのようね」

「君の質問の意図がわからないな。そういう場合、大抵は質問者のほうに問題があるんじゃないか?」


 こういう場合、とにかくシラを切りとおすしかない。そうして時間を稼ぎながら、何かうまい返答がないか考えるのである。すると彼女は、一転して声のトーンを少し弱めた。

「あの子……貴方の彼女ね、私に遠慮してるのよ……この体は、私の物だから」

「遠慮……?」

 文脈から判断するに、『あの子』とは昼間の真紀の人格のことを指しているに違いない。

「そう。だから、その、性的交渉をしたくないとか、興味がないわけじゃなくて、私の体を使ってしまうことに抵抗を感じているようなの」


 体を……なるほど、そういうことか。しかし、それについて俺は真紀に不満を持ったことはない。もちろん願望はあるが、何しろ真紀は俺にとって初めての彼女なのだ。どうやって関係を深めて行けばいいのかまだまだ手探りの状態で、また、それが楽しくもある。しかし、それがこの話題とどう繋がってくるのだろう?

「……話が見えないな」

「鈍い奴ね……つまり、貴方が今、私を抱けば、全てが解決すると言っているの」


 なるほど、確かに。……いや、待て。いくら何でも無茶苦茶だ。一瞬納得しかけた自分が馬鹿馬鹿しい。いったいそれで何の解決になるというのか。

「……一応、君が言いたいことはわかったつもりだ。けど、俺はプラトニックな関係であることを気にしてないし、真紀が遠慮しているのなら、俺もそうするべきだと思っている」

「じゃあ貴方、小雨のことはどう思ってるの? 私にとっては小雨も大切な友達なの。最近の小雨の様子がおかしいことも、それがおそらく貴方に関する事情であるってことも、貴方たちを見ていれば何となくわかるわ」

「小雨のことは関係ない」

「貴方がそう思っていても、私達にとってはそうではない。自分の立場を理解してる? 貴方は二股をかけている、そしてそれを詰られているのよ。私は今ここで、もう一人の私の代わりに貴方と縁を切ることだってできる。でもね、彼女は貴方と小雨の関係に気付いていないし、何よりも、今は貴方に首ったけなの。だからこうして提案している。もし体のことで不満があって……その、性欲のはけ口として小雨を利用しているのなら、今ここでそれを発散させて、小雨との歪な関係を解消してほしい。これ以上彼女達を傷付ける前に……」


 いつの間にか、小雨との関係について断定する口調に変わっている。彼女の中で疑惑は確信へと変わったらしく、しかも、それが事実であることが何より厄介なのだ。もう中途半端に誤魔化すことは諦めた方がいいだろう。真紀の言っていることは間違っていないし、俺は反論できる立場でもない。だが少なくとも、彼女は大きな勘違いをしている。


「……ちょっと待ってくれ。俺と小雨の関係に変化があったことは認めよう。だが少なくとも、体だけの関係ではない。俺のことは何とでも言っていいけど、小雨のことをそんな女だとは思わないでほしい。俺だってこのままじゃいけないとは思っているし、どうすれば彼女を一番傷つけずに済むのか、ずっと考えている。でも、これは俺達の問題であって、君を抱いたからといって解決できるものじゃない。それに、俺と真紀の関係だって、君を抱いてどうにかなるものでもない。俺にとって君は真紀じゃないし、俺は君とは別の人格の真紀の意思の方を尊重したいと思っている」


 我ながら、なんと見苦しく自分勝手な言い分だろうと思う。どこまでが本音で、どこまでが嘘なのか、自分でもよくわからなかった。しかし少なくとも小雨に対しては、どうすれば彼女を傷つけずに済むのか、なんて言えるような立場ではない。甘えているのは俺のほうなのだ。ずっと昔から。それに、体だけの関係じゃないならどういう関係かと問われると、途端に返答に窮してしまう。


 弁解にならない弁解を一息に言い終えると、真紀の表情はさらに険しさを増していた。眉間に皺を寄せ、表情筋が強張り、その大きな瞳にはめらめらと憤怒の炎が宿っているようにさえ見えた。たとえば、これまで世界中で起こった不可解な人体発火現象の原因が実は彼女の視線であったとしても、俺は納得してしまうかもしれない。常に冷徹でニヒルな彼女の、初めて見る著しい感情の発露だった。

 無理もない。こんな支離滅裂な話を聞かされて、納得しろというほうがおかしいのだ。しかし、彼女の導火線に火を点けたのは、意外にも、そこではなかった。


「私が真紀じゃないですって……私は真紀よ! 私が正真正銘の西野園真紀。この世に生を受けてから二十年間、ずっと私は真紀だったわ。誰が何と言おうとね」

 彼女は声を荒げ、早口でそう言い放った。その激しい剣幕と怒気に押されて、俺は何も言い返せない。メデューサの視線を浴びた石像のように、体が硬直していた。


 そう、彼女も確かに真紀なのだ……俺の恋人の裏側にいる、もう一人の真紀。どうも、最後の一言が彼女を刺激してしまったらしい。俺は、自分の軽率な発言を悔やんだ。

「すまない、そういうつもりで言ったわけじゃなかった……言葉の綾だよ。君は紛れもなく真紀だ」

「皆そうやって……あの子ばっかり……いいわ、もう」


 真紀は吐き捨てるようにそう言い、するりとベッドから降りた。彼女が足を下ろした瞬間、床のカーペットからトスンと軽い振動が伝わってくる。そのままこちらを一度も振り返ることなく、扉を思い切り強くバタンと閉めて足早に部屋を出ていった。


 瞼の裏には彼女の白いスリップの残像が浮かび、ほんの少し皺がついたシーツには、まだ微かに彼女の体温が残っていた。しかしそれもすぐに消え失せて、後に残されたのは、ほのかな薔薇の香りと、沈鬱な静寂、そしてそれを静かに飾る雨音……。

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