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トリックスター

 冷たい寝具に体を横たえながら、僕は彼女のことを考えていた。


 今朝顔を合わせた時、彼女は昨夜のことを何も言わなかった。それは、敢えて黙っていてくれたのかもしれないし、夢中遊行の最中の記憶であるためにすっかり忘れてしまっているのかもしれない。


 そもそも、彼女は本当に同一人物なのだろうか?

 確かに顔貌は非常によく似ている。しかし、表情も声の調子も全く違うではないか。もしかしたら、極めてよく似た他人、いや一卵性双生児という可能性もある。もっと突き詰めて考えれば、ドッペルゲンガーという可能性だって有り得なくはない。


 或いは、昨日の夜の出来事は全て僕が見た夢だった、という可能性はないだろうか。夢中遊行していたのは僕のほうで、彼女はその間、僕が見ていた幻影だったのだ。

 そんな風に考え出すと、いよいよそちらの可能性の方が高そうに思えてくるから不思議である。ただでさえ僕は神経症だと言われるような人間なのだ。田舎の不慣れな環境に突然放り込まれ、上手く適応できずに、発作的に夢中遊行のような異常行動を起こしている……客観的に見れば、 如何にもありそうな話ではないか。


 考えれば考えるほど頭が冴えてきて、頭の中をゾワゾワと毛虫が這い回っているかのように不快な感じがする。今夜も眠れないのかもしれない。ベッドの硬さが妙に気になり始めて、僕はついに寝具を剥いで起き出した。だが、闇雲に起きてみたとて、特別にすることがあるわけでもなく、座ってみたり立ってみたり、部屋の中を歩いてみたり、それこそ狂人のような行動を繰り返しながら、気が付けばまたぼんやり彼女のことを考え始めている。そんな時だった。


 ギシ、ギシ……


 扉の向こうで、廊下の床板が微かに音を立てた。

 神経を研ぎ澄まし、聴覚の全てをその物音に注力する。それは極めて小さな音ではあるが、決して聞き間違いや幻聴ではない、そう信じたかったのだろう。僕は居ても立ってもいられなくなり、廊下へ飛び出した。


 彼女はやはりそこに居た。

 昨夜と同じように、胡乱な眼つきでひたひたと歩いている。それは決して幻影などではない。揺蕩う黒髪、闇を弾く白い肌。その背中に僕は声を掛けた。


「まき……さん、まきさん!」


 これが、初めて彼女の名前を口にした瞬間だった。しかし案の定、彼女の耳には届いていないようだ。歩調が乱れることすらなかった。少々落胆したが、すぐに気を取り直し、彼女の後を追う。


 規則正しく揺れるその後姿を見つめながら、僕は彼女の名前のことを考えていた。

 『まき』とは、どういう字を書くのだろう? それは、昨日彼女の口からその名を聞かされてから、頭の片隅でずっと考え続けていたことでもあった。『巻』『薪』『牧』のような一文字の漢字は、名前としてはそぐわない。おそらくは、『ま』と『き』にそれぞれ一字ずつを充てた、二文字の名前だろうと見当をつけていた。

 『ま』の漢字で、人名に用いられるものとして思い浮かぶのは、麻、真、眞、摩、万、といったあたりであろうか。『き』は更に数が多く、樹、紀、貴、季、喜、希、姫、輝と、選択肢が増える。僕は、それらすべての『ま』と『き』の漢字を組み合わせて、どれが最も彼女に相応しい名前であるだろう、と考えた。


 そんなことは本人に訊けばよい、と思うかもしれない。だが、漢字はどう書くのですか、などと尋ねると、彼女に阿呆だと思われてしまうのではないかという懸念があった。僕のちっぽけな自尊心が、それを許さなかったのである。では、何も本人に訊かなくても、他の者に尋ねてみればよいではないか、とも思われるだろう。しかし、それはどうにも気が進まなかった。生来の僕の人見知りな性格が影響しているかもしれない。でも、実を言えば、そんなことは些末な問題であった。


 要するに、僕は彼女のことで悩みたかったのだ。


 麻樹、麻季、麻貴、麻希……それらしい漢字を片っ端から組み合わせ、彼女に似合う名前を探す。真希、真貴、真季、真姫、真樹、真紀……


 真紀。


 その組み合わせを思い浮かべた時、僕の脳髄に閃くものがあった。まるで頭に雷撃でも受けたように、脳がビリビリと痺れる感覚。これだ。僕の心は、天啓を受けた預言者のような高揚感に満ちていた。これこそ彼女の名前に違いない。

「……真紀……真紀さん……」

 改めて彼女の名を呼ぶ。当然返事はなかったが、それでも僕は満足だった。ようやく彼女の名を呼ぶことができたという喜び。彼女が、幻影でもドッペルゲンガーでもない、生身の女性であるという実感がようやく得られたような気がしたのだ。


 彼女は昨日と全く同じ経路を辿って、昨日と同じあの部屋の扉を叩く。夢中遊行とは、これほど判で押したように全く同じ行動を繰り返すものなのだろうか。扉は再び内側から開かれて、彼女の背中はその中に消えていった。


ところで、シーツの生地が擦れる感触が気になって眠れないというのは自分の不眠が酷かった時期の実体験だったりします。

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