エピローグ、そしてプロローグ
本作は、シリーズ前作「My Funny Valentine」のエピローグをプロローグとする特殊な構成となっております。本作だけでも楽しめるように書いたつもりではありますが、前作に目を通して頂ければ若干人間関係が掴みやすいと思われますし、何より筆者が喜びます(笑)
白いカーテンの隙間から差し込んでくる僅かな明かり。天井からぶら下がったリング型の蛍光灯。30型の液晶テレビと、テレビ台に納められたゲーム機。彼が集めている蝋燭。子供の頃から変わらない洋服箪笥。テーブルにはスミノフの空き瓶。
ゴミ箱の前に落ちている、結ばれたコンドーム。さっき投げ入れようとして、届かなかったものだ。
子供の頃にはなかったベッド。高校になってから買ったもので、二人で寝るには少し狭い。何種類かの体液が染み込んだシーツ。一つしかない枕。
隣に寝ている瞬。
私、京谷小雨は、瞬の部屋のベッドで目を覚ました。口の中に、彼の遺伝情報の味と臭いが、まだ微かに残っている。その日の体調や食事によって微妙に味が変わると知ったのはつい最近のことだ。今日はいつもより少し苦かった。
時刻は午前三時。昼前から降り始めた六月の細い雨が、しとしとと窓を叩いている。彼のワイシャツしか身に着けていないので、毛布を被っていても少し肌寒い。寒さと淋しさ、全く異なる二つの感覚は、どうしてこうもリンクするのだろう。
瞬は子供の頃と全く変わらない安らかな寝顔で眠っている。そんな彼を見ていると、ここ数か月に起こった事が……いや、大学に入ってから私達の周囲に起こった変化、その全てが悪い夢だったのではないかという錯覚に陥ってしまう。瞬の頭をそっと撫でながら私は、どうしてこんな事になってしまったのだろう、と考えずにはいられなかった。
初めて瞬と体を重ねた日。それはバレンタインデーの夜だった。私は、瞬の部屋に行く前から、慣れない酒を何本も飲んで、すっかり出来上がっていた。瞬とデートの約束をしたの、そう真紀から聞かされていたからだ。一体今どこで何をしているんだろう、そればかり考えてしまう頭をふやかしたかった。
瞬は夜の十時頃に帰ってきた。自分の部屋の窓からその様子を見ていた私は、チョコレートと缶チューハイを持って瞬の家に向かった。彼の部屋に来て最初に目についたのは、テーブルの上に載せられた真紀の手作りチョコレート。でも私はわざと、それに気付かないふりをした。瞬と一緒にゲームをしながら、買ってきたチョコレートを食べ、酒を飲んで……記憶はそこで途切れている。
次の日、つまり二月十五日の早朝、私はこのベッドで目覚めた。隣では瞬がすやすやと寝息を立てていた。床に乱雑に放り投げられた眼鏡とニットワンピ、私と彼の下着、彼のスウェット。テーブルの上に不規則に配置された空き缶とチョコレートの空き箱、真紀のチョコレートの包み紙はくしゃくしゃになって床に破り捨てられている。
私も瞬も、何も着ていない。
この部屋の状況を見て全てを悟った私は、急いで服を着て、瞬と彼の両親を起こさないよう細心の注意を払いながら彼の家を後にした。
一線を越えてしまったという後悔と二日酔いによる頭痛、二重の意味で頭を抱えながら、私は大学へ向かった。
昼休み、真紀に呼び出されて食堂に行くと、そこには、二人並んで座り、楽しそうに話している瞬と真紀の姿があった。私は、二人とテーブルを挟んだ向かいの席に着く。
「あ、小雨、ごめんね、わざわざ呼び出しちゃって」
「いいよ、特にする事なかったし」
「実はね、小雨に報告しなくちゃいけないことがあるの」
不吉な予感がした。ちらりと瞬の顔を見るが、彼は視線を合わせようとしない。
「なに? そんなに改まって」
真紀は少し照れくさそうに言った。
「あのね……私、瞬とお付き合いする事になったの」
それから数秒間、頭が真っ白になった。二日酔いのせいで、ただでさえ悪い頭の回転がいつにも増して鈍い。
気の遠くなるような、でも実際には数秒の空白の後、私の頭に浮かんだ言葉は『やっぱり』だった。
けれど、私の意に反して、この口が発した言葉は、「おめでとう」だった。
「よかったぁ~!」
真紀は満面の笑みを浮かべて、瞬の腕に絡み付いた。本当に天使みたいな笑顔だ。彼女の親友として、私はいつも本当にそう思っている。でも、今この瞬間だけは、その笑顔が悪魔の微笑のように見えた。
「小雨に祝ってもらえて、本当に嬉しい。ううん、小雨ならきっと祝ってくれると思ってたよ」
あれ、これってもしかして、修羅場ってやつじゃないの……? 昼ドラなんかでよく見る、口汚く罵りあって、平手打ちを食らわせて、コップの水をぶっかけたりする、そういうものなんじゃないの?
しかし、純粋無垢な真紀の笑顔が、無言の圧力となって私の手足を縛り付ける。それから真紀と何を話したのか、一切記憶に残っていない。瞬は苦笑するばかりで一言も喋らなかった。何とか言えよ、この野郎。
その日は何をやっても手に付かず、バイト先のコンビニでもミスを連発してしまう。そんな私の様子を見て、店長もさすがに心配したのか、退勤時間より少し早めに上がらせてくれた。
自分の部屋に戻って、まだ二日酔いも抜けきらない頭で、私は再び酒に溺れた。これが飲まずにいられるか。何がそんなに辛いんだろう。私自身、それとも瞬、それとも……?
意識が飛ぶまでにそれほど時間はかからなかった。
朦朧とした意識の中で、どこかに向かって歩いたような記憶が微かに残っている。私は寒さで目を覚ました。
そこは瞬の家の玄関の前。冷たいコンクリートの上にへたり込んでいた。無意識のうちに、部屋着のままでここまで歩いて来てしまったらしい。真冬の深夜に部屋着で外をうろついたのだから、当然体は冷え切っていた。周囲の家々はどこも森閑と寝静まっていて、深夜の静寂が住宅街を悪趣味なオブジェに変えている。
その時、突然玄関の戸が開いて、中から瞬の顔が覗く。
「何してるの? そんなところで……」
思わず涙が零れそうになり、私は俯いて表情を悟られないようにした。
「……わかんない」
「風邪ひくぞ。ほら、入って」
導かれるまま瞬の部屋に入ると、彼は私の肩にアクリルの毛布をかけた。
「……ごめん、本当に……」
彼は謝っている。何度も何度も。いったい何に対して謝っているんだろう。昨夜のことは気の迷いだったとでも言うのか。真紀と付き合い始めたことについてか。言いたいことはたくさんあったはずなのに、言葉としては一つも実を結ばなかった。謝られるほど私はひどいことをされたのだろうか。そんなことで傷ついているわけじゃない。
彼の謝罪を受け入れてしまったら、そこで全てが終わってしまう気がした。うるさい。うるさい。私は自分の唇で彼の言葉を封じ、非言語的コミュニケーションに勤しんだ。ボディ・ランゲージって、それ自体が語弊のある言葉だな、と思った。
朝になると、猛烈な自己嫌悪が私を襲った。大学に行けば、真紀がいつものように屈託のない笑顔で話しかけてくる。彼女の彼氏と寝ておきながら、何食わぬ顔で応じる私。夜、部屋で一人きりになると罪悪感で押し潰されそうになり、アルコールの摂取量が増える。酔いが回ると寂しくてたまらなくなって、瞬の部屋へ自然と足が向く。彼は私を拒まなかった。翌朝になると、また激しい自己嫌悪に襲われて……。
すっかりこの無限ループに陥っている。最も軽蔑していた類の女に、私はなってしまったのだ。
真紀と瞬は、付き合い始めて四か月が経った今でもプラトニックな関係のままらしい。もしかしたら私は、単なる都合のいい女なのかもしれない。
「ん……」
瞬の目がうっすらと開く。
「ごめん、起こしちゃった?」
「今何時?」
「三時すぎ」
「もうそんな時間か……帰る?」
「うん、ぼちぼち」
すると、瞬は欠伸をしながら、気怠そうに体を起こした。
「あ、見送りならいいよ。疲れてるでしょ」
「……どうして? そんなに疲れた顔してるかな」
「ううん……なんとなく」
苦かったから、と言わないぐらいの羞恥心は、まだ私にもあった。彼はふっと苦笑いを浮かべる。
「人に物を教えるなんて、俺には向いてないって、つくづく思うよ」
瞬は家庭教師のアルバイトをしており、今日はちょうどその日だった。生徒の男の子がなかなか気難しい子で、と彼はよく話している。
「あたしだって、接客業向いてないなって、しょっちゅう思ってるよ」
私は近所のコンビニでアルバイトをしている。マニュアル通りの接客をしているうちは問題ないのだが、世間話を振られると、途端にしどろもどろになってしまうのだ。
「さて、と」
私はベッドから降りて、自分のジャージとトレーナーに着替えた。下着はつけてこなかった。男の部屋に来る格好じゃないなと、自分でも思う。
瞬はスウェットを履いて、まだ私の体温が残っているであろうワイシャツを羽織った。
「玄関の鍵、かけなきゃね」
「あ、そうか」
二階にある瞬の部屋から抜き足差し足で階段を降り、玄関の戸を開くと、外から湿った冷たい空気がすうっと流れ込んできて、私は思わず身震いした。瞬は空を見上げて呟く。
「止まないな、雨」
「うん」
「傘、貸そうか?」
「いいよ、すぐそこだし」
「そっか。風邪、ひかないようにな」
「大丈夫、あたしバカだから」
瞬はそこでふっと笑った。
「そんな事ないよ……じゃあ、また学校で」
「うん。またね」
玄関の引き戸が閉められ、カチャッ、と鍵の閉まる音。厚さ数センチしかない薄いガラス戸が、コンクリートのような分厚い障壁となって私と瞬を隔てている。
私は雨に打たれながら歩いた。瞬の家の前に立つ街灯の明かりが、黒い雨に反抗するかのように辺りを薄く照らしている。電球が切れたまましばらく放置されていたのだが、最近になって新しく付け替えられたものだ。
道路の真ん中でしばらく立ち尽くした。この時間なら、車が通る気遣いもない。私と同じ名前を持つ小さな水滴は、トレーナーを侵食して私の肌から体温を奪っていく。最近また伸ばし始めた髪から、涙のようにぽたぽたと雨水が滴り落ちる。
こんな関係がいつまでも続けられるとは思えない。
このまま全てを洗い流してほしい。黒い空を仰ぎながら、私はそう願った。
はい、というわけで、前作のエピローグをプロローグとしてぶち込むという暴挙に出てしまったわけですが、いかがでしたでしょうか。
横溝正史の「夜歩く」のような夢遊病の女の子を軸にした話を書いてみたいと思い、書き始めたのが本作です。タイトルそのまんまですが(笑)
いざ投稿する上で、本作のジャンルをどうするか、結構悩みました。具体的に言えば、恋愛にするか、ヒューマンドラマにするか。読後感はヒューマンドラマ寄りになるのではないか、またせっかく新しくできたジャンルだし、と思ってヒューマンドラマにしましたが、色々な要素を含んだストーリーだと思っていただければ幸いです。
また、今作はR-15でできるギリギリの性的描写をしてみようと、ストーリー後半にもエロいシーンを用意しております。前作の最終章だけ読みに来たエロクラスタの皆さんも乞うご期待(笑)
さて、シリーズヒロインの一人である小雨ちゃんの独白から始まった本作ですが、実は小雨の出番はこれでお終い。本作は、瞬と真紀、そしてもう一人の少年の物語です。