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タキオンの孤独 11

 塀の上なんかで呑気にしているのをよく見るもんだから忘れがちだが、猫ってやつは素早い生き物だ。石レンガの上を疾走する猫の後ろ姿を追いながらそんなことを思い出していた。


「お、おい。もう少しゆっくり走ってくれ」


 息も絶え絶え言うと、猫は振り向きもせず、


「バカ者、敵と遭遇する前に弱音を吐くやつがあるか」


 言われても……。疲れているのは事実だが、


「いや、お前な――こんな真っ暗な道をそんなに早く走られたら逸れちまうって――」


 自分が黒猫だということを自覚してもらいたい。ふらふら揺れる尻尾を追うのがやっとだ。汗で目を細めたらそれこそ見失ってしまう。

 猫は自分の迷彩能力に気づいたらしく、歩調を緩めた。


「まったく、人間というのは不自由な生き物だ」

「お前が自由すぎるんだ」

「ところで、現場に駆け付けたところでお前はどうするつもりなんだ。ロクに走ることもできない軟弱者が特殊収集機関を扱うような手合いとどう渡り合う」

「そんなもん知るか――」

「知るかだと? だというのに走るのか」

「そうだ」

 

猫はしばらく黙って走った。住宅街に続く街燈が見え始めたところでポツリと言った。


「欲しくば求めよ――我はいつでも隣に居る」


 何をとは言わなかった。あえて聞き返すことはしなかった。

 


 *



「――兎の影絵(シルエット・バニー)


 低く響いたその声が始まりのようだった。

 天井の一部から黒い水のようなものが滴り始めた。その雫は音もなく床に落ち、シミを作る。

 レターはその異常さに気付いていない。明かりの消えた部屋で光を跳ね返さない液体が落ちる場面が見えているという不条理――そして、床にできた濃淡が闇に隠れていないという不思議。

 そう、その黒い水は闇より濃い黒色なのだ。

 床に広がったシミは、レターが茫然と見つめる先で、やはり音もなく蠢きだす。視覚的には何の変化もないはずなのだが、レターは確かに“動いている”と感じていた。

 そして、その感覚は間違っていなかった。


「…………!」


 縦長の耳に丸い体。二次元的に見えているのにその柔らかさが伝わってくるようだ。シミの中から這い出てきた“それ“は、まさしく兎の姿をとっていた。短く丸っこい四肢が音もなく床を蹴る。後から後からどんどんと、兎は黒の中から際限無く湧いてくる。

 なにせ、それぞれを区切る境目が曖昧である。正確な数を把握することはできない。しかし僅か数秒で影の兎は、部屋の隅にへたり込むレターを隙間なく囲ってしまうほど増殖していた。


「…………」


 レターは兎たちを見つめることしかできなかった。影でできているとはいえ相手は兎である。払いのけて逃げるだとか、大きな音を立てて追い払うだとか、何かしらのアクションを起こしてもいいようなものだが、彼は指一本動かせない。

 彼の危険を察知する能力がそれをさせないのだ。

 小さな影兎、その全てが老夫婦宅で見つけたぬいぐるみに匹敵する危険を秘めている。彼にはそれが分かってしまう。下手を打てばたちまち闇に呑まれる。そう思うと、息が苦しくなり、意識が遠ざかる……。

 そこで、追いつめるかのような天井の声が降ってくる。


「いけないね、気が狂い始めているようだ。いけない、いけない――目を覚ましてあげよう。さて、方法はどうする? 骨を一本折ってしまおうか、爪を剥いであげようか、耳を切り取る、眼球を潰す、髪を全て引き抜く――――さあ、どれがいい?」


 レターを囲う兎の円がじりじりと縮まる。モノトーンの兎のあるはずの無い赤い瞳が自分を見つめているような気がしてならない。

(くそ――くそ――……)

 目尻にたまった涙を瞼が押しつぶす。音も匂いもない敵を相手にして、視界まで塞いでしまった。それは即ち、敗北。

 それを待っていたかのように一匹の兎が円から抜け出し、レターの方に向かってゆく――その時だった。

――バタン。

 乱暴にドアが開き、廊下からの僅かな光が部屋に差し込む。なだれ込むように駆け込んできたのは一人と一匹の奇妙な組み合わせだった。


「邪魔するぞ。レター、居るか――――なっ」


 部屋の床を埋める不気味な影を見てエイモスが仰け反る。

 その隙に、一羽の兎が床を駆け助走をつけ、弾丸のような勢いでエイモスの胸のあたりに飛び込んだ。エイモスはそれを視界に捉えていたが、とっさのことで体が動かない。徐々に大きくなる闇より黒い影を目で追うことしかできない。


「――バカ者」


 兎がぶつかる寸前、エイモスの体が後ろに傾く。機転を利かせた猫が彼の膝裏に渾身のタックルをかまし、膝かっくんの要領でエイモスの体勢を崩したのだ。夜目のきく猫ならではの素早い反応だった。

 仰向けに倒れるエイモスの顔の上を兎が飛び越え、勢い余って部屋を飛び出し、廊下の向こうの壁に衝突する。すると、


――パウンッ――


 空気の抜けるような音と共に木でできた壁に大きな穴が穿たれる。猫と縺れ合うように倒れたエイモスの上に細かい木片が降りかかった。


「っつ! ――なんなんだ」


 木片を払いのけるエイモス。機敏な動きで立ち上がり、影たちの前に躍り出た猫が早口で捲し立てる。


「影を固めて作った動物――召喚術の一種だ。それも、全ての個体が相当な力を持っている――気をつけろ。触れられたら最後だ」

「んなこと見れば分かる――」


今や全ての兎がエイモスたちの方を見ている。

(どうする――どうしたら切り抜けられる)

 部屋の隅に居るレターを助けるには兎をどうにかしなければならない。しかし、エイモスには戦う術がない。

(召喚術といったか――なら術者はどこに居る――いや、見つけたところで俺には――そもそも何故召喚術なんて回りくどいことを――――)

 危機的状況。シ――と、普通の猫のように兎を威嚇していた猫が声を荒げる。


「なにを黙っておるのだ。悠長にしている暇はないぞ」


 その声ではっと我に返るエイモス。次の瞬間、彼は意外な行動に出た。


「大人しくしてろよ――」

「なっ――お前――――」


 猫の脇の下から手を差し入れ、クンっと抱き上げる。バタバタと暴れる猫を小脇に抱え、あろうことか来た道を引き返す。それも、猛ダッシュだ。

 エメラルドグリーンの瞳がギロっと上を向く。エイモスを睨んでいる。


「どういうつもりじゃバカ者」


 エイモスは走るのに夢中だ。目を落とさず答える。


「どうもこうもあるか――逃げるんだよ」


 彼はあまりにも必死すぎた。なので、見逃してしまった――世にも珍しいあんぐりと口を開ける猫の顔を。


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