独裁のエアディシルク 1
レター=パーケイトは細い路地を歩いていたはずだった。
嫌なことがあったので、暗くジメジメした路地を歩きたい気分だった。学校からの帰り道、ふらっと足が路地に吸い寄せられたのだ。
しかし――気が付くと、そこは知らない場所だった。
何もない真っ暗な空間の中に、ポツンと一人で立っていた。
『君に力をあげよう――』
どこからともなく、聞き覚えのない声が聞こえてくる。
レターは辺りを見回す。
「誰? ――ここは何処なんだ」
声の主は、その問いに答えない。
『――それをどう使おうと君の勝手だ。君が抱えている問題は、いとも簡単に解消され、さらなる欲望に気づくことだろう。
君は今まで我慢し続けてきた。自分を押し殺し続けてきた。しかし、そんなの間違っている。
やりたいことをやればいい。欲しいものを奪えばいい。自分に正直になるんだ、レター=パーケイト……』
「…………」
レターは一方的に喋る声をぼんやり聞いていた。
不思議と恐怖や驚きは感じなかった。むしろ、安らかですらあった。
やがて彼はこの空間から解放される。が、その頃には空間や声のことをほとんど思い出せなくなっていた。ちょっとした違和感が頭の隅に引っかかっているだけで、気にするほどのことではなかった。
レターは何事もなかったかのように再び歩き出す。
――その右手の小指には、いつのまにか青銅色の小さな指輪がはめられていた。
*
また朝が来た――そう思うと気が重かった。学校に行かなければならない。
ベッドから這い出て、学校の制服に着替える。すると、上着に腕を通したところで、何かが服に引っ掛かる。
「ああ――」
右手小指にはまっている淡い色の指輪を見て思い出す。
いつの間にかはめられていた指輪。昨日、学校から帰ってきたところで気づいた。引っ張っても抜けなかったのでそのままにしておいたのだ。
「――まあいいか」
あまり見栄えのいい品じゃないが、小さくて目立たないし、気にしないことにする。油かなんかで滑りをよくすれば抜けるだろう。後回しだ。
床に転がっていたカバンを持ち、部屋を出る。
「おはようございます。ぼっちゃま」
「――ああ」
階段の下で待ち伏せていたメイドにひらひらと手を振って、まっすぐ玄関に進む。
「あの、ぼっちゃま。旦那様からお手紙が届いています」
俺は足を止めない。
「どうせ下らない内容だろ。友達はできたか――とか、勉強はうまくいっているか――とか。捨てといてくれ」
革靴を引っ掛け、ドアを開く。
おせっかいなメイドは、俺の方に駆け寄ってくる。
「し、しかし――急用かもしれませんし……」
「捨てといてくれ」
「ですが――」
「うるさい!」
振り返らず言う。背後でメイドが体を固くする気配を感じる。
――もう、ウンザリだった。
俺の手柄を確認するために何通も手紙を送ってくる父親。その父親に「怠けないよう目を光らせろ」と言付かっているメイド。
奴は貴族として成り上がることしか考えてない。俺の事情なんてお構いなしで、金や権力にのみ執心している。
俺は道具かよ――なんのためにルドラカンドなんかに入学したんだよ……今更帰りたいとも思わないが、せめて、ほっといてくれ!
俺は白々しく怯えているメイドを睨みながら、外に出る。
そして、恨みを籠めて思いっきりドアを閉める――――すると、
――ガシャン!!――
玄関のドアが派手な音を立てて細かい木片に変わった。金属製のドア枠がひしゃげて変形し、宙ぶらりんの蝶番がキィキィと揺れている。
(な……俺がやったのか?)
まったくもって信じられない光景だった。
たしかに力を込めてドアを閉めた――あるいは、木製のドアが破損する可能性は低くないかもしれない。しかし、俺の力で金属製のフレームまで変形するだろうか。
「俺の力――――?」
違和感があった。気づいた時には、そう口にしていた。
(なんだ? 変な感じだ。なにか忘れているような……それも、かなり重要なことだったような――)
俺が記憶をたどっていると、ひきつったような声が聞こえた。
「ぼ、ぼっちゃま……これは――?!」
あまりのショックに悲鳴も上げられなかったらしいメイドが、口に手を当てて俺を見ている。
(面倒だな――)
何か聞かれても答えられそうにない。
「いってきます」
俺は逃げるように屋敷を後にした。
*
授業が始まるまでの時間、俺は教室の後ろの方で机に突っ伏していた。
話しかける相手はいないし、俺に話しかける奴もほぼ居ない。気楽でいい。俺みたいな目標のない人間は、本来学校に通うべきじゃないんだ。時間の無駄でしかない。
「おはよう、レター」
こんな無駄な時間が三年も続くと思うと、ウンザリを通り越して呆れるしかない。
いっそ全教科で落第点を取ってみようか。さすがに退学させてくれるだろう。
「レターってば!」
「――痛って!」
肩をがくがくとやられて、額を机にぶつける。瞼の裏に星が散った。
早くもコブになり始めた額をさする。
「なにすんだよ、ったく……」
「ゴメンゴメン。わざとじゃないの――」
まったく鬱陶しい。
あわあわと焦った様子で俺の額を見つめているのは、同級生のノーム=ラッカーだ。見てくれは大人しくて大人っぽいが、すっとぼけで融通の利かない奴である。
「なんか用かよ」
「ううん。挨拶したかっただけ」
ニヘラと笑う。
能天気ってこういうことを言うんだな。と、納得する――と同時に、今の俺にとってこいつは害でしかないと判断する。このまま能天気な顔を見てたら、きっと目が潰れちまう。
「それじゃ用は済んだな。おやすみ――」
「ああ、待って! ちょっと手見せて」
「手?」
一瞬分からなかったが、
「これか――欲しいならやるぞ」
右手を机の上に乗せる。ノームは指輪を見せろと言ったんだろう。
「それも気になるけど……違うよ、反対の手を見せて」
反対の手?
何もないぞ――と思いつつ左手を見てみると、手の甲に赤い模様ができていた。
「なんだこれ――血?」
「やっぱり……」
血が垂れた形跡はないから、そんなに大きなケガじゃない。
ああ、たぶん今朝ぶっ壊したドアの破片が当たったんだな……今の今まで気づかなかった。痛くないし。
「ねえレター……」
「あ?」
突然ノームの表情が曇る。眉が八の字になり、目が泳いでいる。
「そのケガ、ひょっとしてあいつらに――」
「やめろ!」
つい大きな声を出してしまう。
それは、俺にとって触れられたくない部分だった。とくに、ノームにだけは触れてほしくなかった。
だから、我を忘れてしまったのだ。
彼女は俯いて、力なく呟く。
「ごめん――なさい……」
「いや――」
俺は頭を振って席を立つ。空気が重かった。逃げ出したかった。
しかし、ノームが俺の手を掴む。
「まって、手当だけはさせて。もう余計なこと言わないから……」
怒鳴られて怯えてるくせに、優しくしてくれるんだな……。
ノームの良心を感じれば感じるほど、俺の体温は下がっていく。
やけっぱちな気分になる。
もう全てが嫌になる。
何もかも無くなればいい――皆死んでしまえばいい。
『――自分に正直になるんだ――』
俺は頭の中で反響する声に相槌を打つ。その言葉を言ったのが誰で、どこで聞いたかも覚えていない。しかし、俺は確かに望んでいる――得体のしれないものに身を任せ、一体化することを……。
「え――ねえ……ねえってば!」
「――――!?」
ハッ、と我に返る。
俺は今なにを――?
「どうしたの? 変な顔してるよ」
ノームが不思議そうに俺の顔を覗き込んでくる。
俺はキツネにつままれたような気分で頭を振る。
「大丈夫だ。なんでもない」
「そう? ――それより、これ見てよ」
「ん?」
彼女が見せてきたのは俺の左手だった。カサカサになった血がついている。
「何が言いたいんだよ。自分の傷口なんか見ても――」
「無いんだよ、傷口」
「は? そんなわけ――」
改めて左手を見て、俺は絶句する。
ケガしたことを証明する血――しかし、顔を近づけて、いろんな角度から見ても、どこにも傷がない。
ノームの言うとおりだった。血が出た形跡はあるのに、傷がないのだ。
――この血は、どうやって付着したというのか……。




