良心の解放者 9
少女の瞳に宿る敵意は、紛れもなく自分に向けられている。エイモスはアメリアと向き合い立ったその瞬間から、そのことに気付いていた。だからアメリアが、
「私に勝てたら何でも言うこと聞くわよ」
と言った時も、やはりそうなるか――としか思わなかった。
英雄は何も答えず、構えも取らない。
そんな彼を見てアメリアは、
「英雄の余裕ってやつですか? 怪我しても知りませんよ」
吐き捨てるように言った。
そして、次の瞬間には状況が始まっている。
「ふっ――」
アメリアが地面を蹴った。低く鋭く地面を這う弾丸のように間合いを詰め、流れるような動きで籠手を装備した右拳を突き上げる。
顔面に迫る拳――英雄は体を弓なりに反らせ、それを回避した。
(甘い――)
振り抜いた拳を引きもどす力が肩甲骨を支点に滑車の要領で左腕に伝わり、左ストレートとなって打ち出される。狙うは、無防備に晒されたみぞおち。相手は防具を付けていないのに対し、こちらは金属のグローブでの攻撃だ。最強の英雄といえど、一たまりも無いだろう。
呆気なく幕が引かれるかと思われた――しかし、直後、アメリアは英雄が英雄と呼ばれる所以を知ることになる。
「いつまでたっても上達しない……」
少女の必殺の拳が空気を切り裂いたのと、背後で気の抜けた呟きが聞こえたのは全く同時だった。
素早く振り返り、逆襲に備えるアメリア。しかし、
「これでもコーブ将軍に稽古を付けてもらったのだが、自分の才能の無さが嫌になるよ。まさか、君のような若い女性にすら戦闘で後れを取るとは」
まったく、むいてないよ――などと、自分に失望しているようだ。
攻撃が避けられた――そして、避けられたことにすら気付けなかった。到底説明がつかない異常な現象が起きている――この時点で英雄が未知の力を行使している事は明白である。
もし、英雄と戦っているのが普通の戦士であれば、その事実に驚愕し、戦意を失うか、良くて負ける覚悟で向かって行くか――そういう行動に出たことだろう。
しかし、アメリアは違った。
カッと頭に血が上り、相手の異様な行動の事や、この戦いの意味、英雄コイド=コウヘイに対する憎悪――そういった全てを完璧に忘れ去っていた。
「殺すっ!」
再び突進するアメリア。
純然たる怒りの焔を孕んだ瞳は他の物を映すことを忘れてしまったかのように、英雄を睨んでいる。
その変質した怒りの出所が「君のような若い女性にすら」という何気ない言い回しに起因することを英雄は知る由も無い。だが、自分に向かってくる女戦士がさっきまでとはまるで別次元に強いことには気づいている。
あっという間にアメリアが間合いに入ってくる。
そこで英雄は髪を掻きあげるような動きをした。 ――それは、彼にしか感知できない現象を巻き起こす。
全ての物がグニャリと歪曲する――途轍もない速さで飛び込んでくるアメリアの姿も水に垂らした油のように丸く曲がり、その輪郭に沿って迂回するようにゆっくり進んでいる。
世界が歪んだ訳ではない――英雄が自身の体に巻き付いた“時間のリボン“を指で弾いて振動させたことで、彼自身の時間が歪曲し、引き延ばされたのだった。
『彼女はなぜ戦うのだろう――何か分からないか? ヘヴン』
『本人に聞けばよかろう』
『あのコイドが手こずっている相手だ。オレなんかに素直に話すとは思えない』
『だろうな――例のごとく“ワシの知ったことか”と言い捨てたいところじゃが、しかしコイツの怒りの“質”については心当たりがある』
『怒りの質?』
『コイツにとって怒りとは心の“支柱“なのだ。それが無ければ立っていられない、生きていけない――そういう切実さがありありと窺える。遥か昔、コイツと同じ目をした人間と会ったことがある。お前の前任者、先代の相克者じゃ。ソイツは戦いの中で死んでいった。ワシの授けた力があるというのに、いとも簡単に敗れて消えた。
コイツを争いに引き入れようというなら心しておけよ――脅しではなく死ぬぞ。コイツは』
意識内でのみ響く声が不吉な予測を告げたところで、視界の歪曲が徐々に戻り始めた。それと同時に英雄は動いている。
ゆっくりとした足取りで数歩横に移動した。その直後、時間の歪みが完全に解消される。
アメリアの姿が元に戻り、それに伴って、徐々に突進の勢いが戻って行く。
「なっ!?」
つんのめるようにして止まった後、アメリアはきょろきょろと辺りを見回した。怒りで我を忘れていたとしても、さすがに戸惑いを感じずにはいられないのだろう。
――殴り倒そうとしていた相手の姿が消えてしまったのだから。
英雄は突っ立っているだけだが、一つだけ小細工をしているのだ。彼にだけ見える時間のリボンは、死んだ物や人でなければ例外なく巻きついている。それは、地面や空であっても変わらない。しかし、ほんの僅か、稀ではあるが、リボンがよれて、隙間があいている場所がある。偶然ではあるが、その隙間がこの路地にもあったのだ。彼は、その隙間の中に立ち、どのリボンとも体が触れないようにしている。それは、すなわち、時間から乖離したという事であり、時間の連続性で成り立つ“認識”をされない状態にあるのだ。
『オレには時間が見える。だが、運命は見えない――危ういなら守ればいい。それだけの話だろ』
『加害者の詭弁じゃな』
『なんとでも言え。コイドという名を名乗った時から、まともでいるつもりはない』
『珍しく意思が明確じゃないか――まるで英雄のような勇敢さだ』
『よしてくれ。冗談にしても趣味が悪い』
ウンザリして頭を振る英雄。しかし、すぐに表情を検め、
「死なせはしないさ。絶対に――」
と時間の外で呟いてから、そっと手を伸ばし、アメリアの体から伸びるリボンを掴んだ。そして、慣れた手つきで結び目をこしらえる。
すると、アメリアは一切動かなくなった。体に纏わり付くリボンに結び目ができたことで、時間の流れが滞り、循環出来なくなってしまい、連続性を失ったのだ。動くにも考えるにも前後が無くては成り立たない――時間が止まるとはそういうことだ。
戦いは終わった。なんとも呆気なく、一方的で、人知を超えた――そんな終わり方であった。




