枢軸への旅 9
その場所に逃げ込んだのに理由はなかった。気付いた時には、寂れて仄暗い路地に足を進めていた。二週間ほど前“願いを叶える種”を買った店は無くなっていた。
壁に背を預け、膝を抱えると少し気持ちが落ち着いた。ようやく冷静になれそうだった。
彼女は後悔した。
よく考えて見れば、さっきまで沸々と湧きでていた怒りの正体は――実にくだらないものだったではないか。倫理観を振りかざして、相手の人格を否定してしまったけど、そんなことするべきじゃなかった。
私は間違えた。
冷静が教えてくれた――それが全てだ。
「はあぁ……」
盛大な溜息が石畳に落ちる。
帰りたい、謝りたい。しかし、まだもう少し素直になりきれない気がするのだ。
路地の隅に膝を抱える少女――時が止まったように、しばらく沈黙が続いた。
そして――
「それは――」
突然、すぐ近くで声が聞こえた。
膝に額を預けていた少女が弾かれたように顔を上げる。
いつの間にか男が立っていた。
明らかに町で暮らしている風ではないが、ダンジョン攻略者にしては装備があっさりしている。風のようにつかみどころがなく、表情というものが一つも感じられない。唯一、宝石のように硬質な輝きを放つ深い緑色の相貌だけが、薄暗い路地に居て存在を主張しているようだった。
男はその緑色の瞳で少女を凝視している。が、軟派目的でない事は明確だ。その視線は、少女の指にのみ注がれている。
「何処で手に入れたのだ」
低く太い声は、何処か相手を責めるような響きがあった。
少女はおずおずと立ち上がり、少し男から離れようと後ずさった。しかし、男の視線は執拗に追跡してくる。
「答えろ、女。さもなければ――」
男は迷いなく剣を抜いた。相変わらず表情は変わらない。どんな意図が彼を動かしているのか察することは難しい。しかし、冗談を言っているようには見えない。
少女はついに逃げ出した。
男から背を向け、暗い路地を駆けた。
*
何となく分かっていた。自分が逃げ出した側だったとしたら、きっとあそこへ行くだろう。
浩平は買い物籠と財布を持って家を出た。全て納得して、自分の非を認める――そこまで大人になりきることはできそうになかったが、しかしこのままじゃ嫌だと思った。とりあえず仲直りして、話し合うならそれからでいいんじゃないかという所で、自らと折り合いを付けたのだ。
そのために買い物籠が必要だった。きっと、あの路地に居るはずのセナを見つけたら、買い物して帰ろうよ――と告げるのだ。これといって順序だった理由があるわけではないが、なんとなくそれが一番自然で、一番大切な気がしていた。
――浩平の手から転げ落ちた買い物籠が軽い音を立て地面に転がった。
予想通り、セナは種を買った路地に居た。ただし、変わり果てた姿になっていた。
「おい、セナ……おい!」
浩平が黒い水たまりの中に倒れ伏す少女の体を抱き起こす。
「浩平……くん――」
意識はあるようだ。しかし、それも長くは保てないように思われた。胸の中心にぱっくりと裂けた傷が穿たれており、そこから次々と温かい液体が滴り出ている。
「――お前がやったんだな」
浩平は少し離れて立つ戦士風の男の緑色の瞳を睨みつけた。頭の中では、最も素早くソイツを殺せる立ち回りをシミュレーションしていた。
男はしばらく浩平の視線を受け止めていた。が、なにも言わず、表情もそのままに、踵を返した。
「待ちやがれ! っくそ」
追いかけたかった。しかし、出来なかった。セナが口から血を吐いた。もはや、そのことに気付くことすらできないようで、曇った眼は天の一点を覗いている。
「ダメだセナ、頑張れ――大丈夫、助かるから、な?」
冷静になれと思えば思うほど、そうはなれない。どうしたら、なにをしたら――考えは、まとまらず、混乱が増すばかり。
そんな浩平を見かねたのか、セナの紫色の唇が動いた。何か言おうとしている。
浩平は揺れる。
そんな労力使ってはいけない――いや、もうきっと最後なんだ……いや、そんなことは……。
結局、判断を下すというより、そうすることしかできないといった風情で、浩平は少女の口元に耳を近づけた。
セナの口からはか弱く息が漏れるだけだった。しかし、どうにか、言葉の形を捉える事が出来た。
『実は、助けようとして――私も塔から落ちました――死んだのは三人――だから、浩平くんは間違ってない――間違えたのは、きっと、私の方――』
途切れ途切れにそう言うと、急に息を感じられなくなった。
浩平は一瞬その意味を理解できなかった。
セナは笑っていた。人を癒す効果のある優しい笑顔。男所帯の攻略団で誰もが欲しがった素朴でいじらしい笑顔――でも、今は少し悲しそうに見えた。
――後悔。
それを清算するためにこの世界に来たというのに、彼女はまた……。
「ゴメンな――ゴメン――」
さっきまで言えなかった言葉が、自然と口から出た。もう遅いのに、全部終わってしまったのに。
「ゴメン、セナ――ゴメン……」




