枢軸への旅 8
足元に壊れた時計が転がっている。見た目は普通の懐中時計だが、手に取るまでもなく壊れていると分かる。秒針が一つ動くのに十秒以上かかる時計なんて、どう考えても正常じゃない。
そこは、塔の頂上だった。石レンガの地面がオレと時計を中心に丸く広がっている。空は青い、雲は止まっている。
オレはすっかり諦めていたけど、でも、なんだか無視するのも薄情な気がして――よせばいいのに、右を向いた。
そこには男がいる。顔はよく覚えていないし、ブリッジするように体を大きく反らしているので、確認することも出来ない。オレが塔に来た時は、彼は壮絶な恐怖で顔を満たしていた。完全に態勢を崩して、今まさに塔から虚空に転げ落ちようとしていた。その動きは酷く緩慢だ。恐らく時計と同じように十倍のスローモーションの中を動いているのだろう。落ちたくない、しかし、落下を止める術は無い――ゆっくり、ゆっくり、死へ向かう男を、オレはそれ以上見ていられなかった。
左を向く。
そこには女がいる。やはり彼女も、今まさに塔の先端から背後に落ちている最中だ。男と同じような態勢。しかし、彼女は男よりも動きが大きい。背泳ぎをするように手を交互に回している。それは、落下する体を制御しようと自然に体が動いたのだろうけど、スローモーションで見ると酷く滑稽に映った。酒や薬で無理やりタガを外して踊り狂っている狂人のように見えた。
左右どちらを見ても死がある。そして、足元には不敵に時を進める壊れた時計。
――頭がおかしくなりそうだった。
もう一度時計に目を落とす。そして、二度と動かすまいと心に誓う――それは避難であり逃避だった。これは夢だ。早く覚めればいいのに。
*
目が覚めると体中に汗をかいていた。酷い夢だった。ウンザリした気分だ。
傍らを見ると、セナも体を起こしていた。乱れた髪を直すこともせず、自らの体を抱きしめて震えている。
セナの呼吸が整ったのを待って、話しかける。
「ひょっとして、夢を見たのか」
セナは力なく笑った。
「ええと、ゴメンナサイ」
「どうして?」
「この木のせいで“あんな夢“見たのかなって」
ああ、なるほど。と思った。同時に後悔した。木の股に丁度いい空洞を見つけたから、オレたちはその中で寝た。入口を布で塞いでしまえばすっかり暗くなり、夜の無いこの世界で闇は貴重な嗜好品なので、木に対する恐怖なんてすっかり忘れていた。それがまさか、こんな夢を見る羽目になるとは……。
木の下で過ごそうと言いだしたのはセナだ。そのことを謝って来たのだろう。
オレは首を振って「きにするな」と表し、それからなんとか笑顔を作って肩をすくめた。セナは僅かに安心したような息を漏らして、オレの肩に体を預けた。
「あの夢が木のせいだとすれば、“これ”も木がくれたんでしょうか」
「これって?」
聞き返すとセナは白い手の甲をオレの顔の前に持ってきた。その薬指には銀色のシンプルな指輪がはまっていた。
「眠る前にはこんなものしていませんでした。誰か入って来た痕跡もありませんし――冗談みたいな話ですが、そもそも、ここは常識の通用するような場所ではありませんからね」
巨木がアイテムをくれた、か。
オレも自分の指を確認してみた。でも、指輪はなかった。そんなオレを見かねたのか、セナは手を伸ばしてきた。
「これじゃないですか?」
といって、オレのシャツの襟元から黒光りする鎖を引き出した。指輪の次は首飾りか。黒い鎖に、黒い金属の絡みついた黒い宝石。趣味の悪いアクセサリだ。
「ちょっと不気味ですね」
彼女も同じことを思っていたようだ。
「しかし、本当になんだったんだろうな、あの夢は――」
思い出したくなかったけど、いやでも塔の上の光景が蘇る。
「どんな意図があって巨木はあんな夢を見せたのか知らないが、最悪の気分だよ。現実にあんな場面に遭遇したらと思うと――ゾッとする」
「はい……今でも胸がドキドキしています。まさか、あんなことになるなんて」
「あんなこと?」
急にセナの体が離れた。何事かと思いそっちを見ると、彼女は驚いたような、悲しんでいるような複雑な顔でオレを見ていた。
「一応確認します。塔の上で見ず知らずの男女が同時に落ちそうになっていた――そういう夢を見たんですよね?」
「そうだよ」
「浩平くんは、どちらを助けたんですか?」
今度はオレが驚く番だった。
「セナは助けたのか?」
彼女は立ち上がった。その顔にはハッキリと怒りが浮かんでいる。
「私は女性を助けました。男性の方が、体が丈夫なので、助かる可能性が高いと思ったからです」
体が丈夫だからか――それはオレも考えた。でも、あの塔から見る空は随分近かった。体の丈夫さや運ではどうにもならないだろうと、すぐに悟った。だからオレは――
「どちらかを助ける――それはもう一方を見殺しにするのと同じ。オレは動けなかったよ。自分なりに精いっぱい考えて、どうにかしたかったけど、でも、結局動けなかった」
後ろめたい気分が募り、セナの顔を見ることができなかった。すると、
――ぱあん。
頬がひりつき、徐々に熱を持ち始めた。平手を食らったようだった。無性に腹が立った。
「何するんだよ!」
「浩平くんがそんな人間だとは思いませんでした。貴方は薄情者です。意気地無しの人非人です!」
セナは必死の形相だった。喉が破れてしまうんじゃないかと心配になるほど悲痛な金切り声を上げた。
でも、オレに彼女を労わったり、なだめたりする心の余裕はなかった。
「確かにオレは残酷なことをしたかもしれない――でも、セナだって残酷だ。助けてもらえなかった男はどんな気持ちで死んだんだ! 自分はいいからアイツだけは――とか、そんなの映画や漫画だけの話しに決まっている。実際は、誰だって死にたくない。自分と他人の命を比べたら、自分の命の方が思いに決まっている。
そう考えれば、どちらかを助けるなんて――とてもじゃないが、そんなこと出来ない。君は思いあがっている。自分が正しいと信じたいから、考えなしに人に優しくできる――そんなの偽善だ!」
オレが言い終わるか終らないかのタイミングでセナも声を荒げた。
「偽善でも何でもいい。例え、恨みを買ったとしても、助けられる命は助けるべきです! 浩平くんこそ思いあがっています。貴方は恨みを買いたくなくて、どちらも助けない道を選んだだけです――それらしい言い訳を考えておけば、誰かが肩を抱いて励ましてくれる、とか、そういう甘ったれた気持ちがあるんでしょう?」
ああ、嫌だ――ダメだ。セナは悪人を蔑むような顔でオレを見ている。そんな顔見たくない。そんな顔ができるのだと知りたくなかった。
でも、今更引き返したりできない――オレの口は半ば自動的にセナを拒絶する。
「何処かへ行ってくれ。嫌いなんだ――偽善者ってやつが」
セナは怒りに顔を歪めて、雄々しく立っている。しかし、その瞳には涙が浮かんでいる。
「私も甘ったれは嫌いです――サヨナラ」
セナは本当に出ていった。
「…………」
遣る瀬無い気分だった。自分が悪いともセナが悪いとも、オレには思えない。でも、彼女を許すことはできなかったし、彼女がオレを許すこともなかった。
セナに恋をする気分を味あわせるためにオレは前線から遠のいて、ここで生活を始めた。それがどうだ? なんなんだよ、このありさまは――。
辺りは耳障りなほど静かだった。
「くそっ!」
傍らの木の根を拳で叩くと、刺が刺さったようで、チクチクと痛んだ。




