壇香梅の逃避行 12
夕日は月光に変わり、薄ぼんやりと教室を照らしていた。
「しかし、今だに信じられないね。まさか、異世界なんてものが本当にあるとは」
窓辺に寄りかかり、空を見上げた少年が言った。線が細く、顔つきも幼いが、その口ぶりは不気味なほどに落ち着き払っていた。
「私はずっと前から知ってたわよ。アンタのせいで“相克者”なんて面倒な肩書を背負わされた瞬間からね」
湯衣はエイモスと話していたのと同じ席に座ったまま言った。仕事から帰ってきて猫に話しかけるOLのような気だるげな口調だった。
「ぼくに文句を言われても困る。君を相克者“空間の魔女”に仕立て上げたのは世界だろ? 言うなら世界に言うべきだ」
と言って、したり顔で相手を見たが、湯衣は鼻で笑って無視した。少年は頭を振って話題を変えた。
「ところで、さっきの彼も相克者だったんだろ? 何の目的があって世界を超えて会いに来たってんだ?」
「彼自身に目的は無かったみたいよ。でも、どうしてこの世界にやってきたのか――私には分かった」
「というと?」
「ヘルが言うのよ“お前の対になる者が現れる。そいつを素早く排除しろ。さもなくば世界の均衡が崩れ、取り返しのつかない事態になる”ってさ」
少年は顎に手をおいてしばらく考えた。そして、ようやく合点がいったようで両の手を打ち合わせた。
「なるほど、つまり、相克者同士の対戦が目的だった訳か――しかし、彼がそのことを知らなかったとなると、マッチメイカーは誰なんだ?」
「それこそ世界なんじゃない? 分かんないけどさ」
「でも、君は戦わなかった。あの白猫の忠告を無視して大丈夫なのか?」
湯衣は少し間をおいてから答えた。
「今確認取ってみたんだけど、大丈夫みたい。でも怒られちゃった――まあ、エイモスくんが現れる少し前にヘルから色々聞いておいたのよ。世界の仕組み、相克者の存在理由、とかとか。それで、約束しておいたの。一時間――それが、ボーダーライン。一秒でも超えれば問答無用で戦うってね。結構神経使ったわ。彼にこちらの事情を悟らせないように、自然に帰るよう導く。同時進行で“出口”まで探してあげなきゃいけないんだもの」
溜息と共に肩を回す湯衣に少年は「おつかれさま」と笑いかけた。
「しかし、君は変わらないね。自分の苦労を厭わず、誰も傷つかない道を選ぶ。ぼくが世界からはみ出した時もそうだった。その気になれば簡単にとどめをさせたのに、そうしなかった。そのせいで、監視なんて面倒事を背負った。まったく理解できない偽善者っぷりだね」
「負け犬の分際で大そうな口きくじゃない。まあ、あんたには分かんないでしょうね。助けたい、救いたい、守りたい――そういう感情って、生理的欲求と同じなのよ。体が栄養を欲するからお腹が空く、それと同じプロセスで人を救ったりしたくなるの」
少年は鼻白んだように肩をすくめた。
「欺瞞だろう、それは。インチキだ。嫌いだな、そういうの――責任を本能なんかに押し付けたりして、まったく気持ちが悪い、インチキだ。
助けたい、救いたい、守りたい――それが君の本心なんだろ? 僕に虚勢を張って何になるんだよ」
声を荒げはしなかったが、その言葉に強い気持ちがこもっていた。蔑み、怒り、そして憐れみ……。
しかし、湯衣は平坦に言うのだった。
「あんたには分かんないわよ。分かんないから世界と折り合いをつけられなかったのよ」
降参――そんなゼスチャーを見せてから少年は教室の出入り口に向かった。
「まあ、いいけどね。でも、やっぱりぼくに虚勢を張るべきじゃないと思うよ」
カラカラカラ――ドアがレールを滑るわずかな音とに乗せて少年は言った。
「なんせ、この世界で君を認識できるのは僕だけなんだから――ぼくを殺さなかったせいでね」
少年の姿が消え、教室に静寂が満ちた。湯衣はまんじりともせず椅子に腰かけたまま、何の気なしに窓の外を見た。そこには月があった。太陽光を反射する小さな衛星、月が。
*
試しに後ろのドアから外に出てみたら? 無駄話が長すぎて、どういう流れからそうなったのかは分からないが、湯衣はやけに自信ありげに言った。ヘヴンは反対した。軽率な行動は避けるべき、とのことだった。
でも、俺は“従ってみよう”と瞬時に決めていた。何故だか分からないが、それが一番良いと感じたのだ。
俺がドアを開けると、背中から「さよなら」と声が掛った。驚いて思わず振り向くと、湯衣はニコニコと笑顔を浮かべていた。何故驚いたのか――今になって考えてみれば、理由は簡単だった。寂しげで、後ろ髪惹かれるような「さよなら」が湯衣から発せられるとは思わなかったのだ。その一言にはどんな意味がこもっていたのだろう。たんに俺が考えすぎなのだろうか。真実いかんを追究することは、もはやできない。
教室から廊下に出て、後ろ手でドアを閉めた瞬間――そこは既に廊下ではなかった。もちろん学校でもない。だからといって、どこかと問われれば、要領を得ない。小さな部屋であることは確かなのだが、青い匂いで満ちていて、その匂いの元であるらしい草を編んだような床が敷き詰められている。
その上に寝転がっている三人、うち一人が俺に気付いたようで寝がえりを打った。ソイツは大げさに目を剥いた。
「え、エイモスくん!?」
大声につられて残りの二人も起き上がった。両方とも少女だ。猫目の方は始めて見たが、もう一方の栗毛の少女は、たしかコイドと同居している一人だ。
正直なところ、俺はホッとしていた。どうしてこうなったのか、よく分からないが、コイドを探し当てるという当初の目的は達せられたらしかった。
「ああ……えっとさ――」
ホッとしたのも束の間、コイドがもじもじとして俺から視線を反らした。コイツらしいな――思わず口元がほころぶ。俺が怒ってるとでも思っているんだろうか?
変人の奇行に一々腹を立てていたら身が持たん、だから、こんな時俺は、呆れた風で言ってやるんだ。
「まったく――探したんだぜ」




