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壇香梅の逃避行 9



 メシアは森の中を彷徨い続けた。飲まず食わずで、ひたすら歩いた。しかし、彼女の置かれた状況に変化は無い。依然厳しい現実が横たわっている。

 その森はまるで変化を提供しなかった。平坦で鬱蒼とした木々、それらは決して開けることは無い。湖や川、人の住む家、丘や谷、獣――メシアはそれら全てを見かけていない。それが彼女の精神に大きなダメージを与えていた。決定的な絶望が無い代わり、一切の希望が無い。そんなどっち付かずな状態。

 彼女の精神を衰弱させ続ける要因はもう一つあった。

――夢だ。

 睡眠というより気絶に近いが、メシアは森に入ってから数度に渡って夢を見ていた。すると、例外なく小さな部屋に閉じ込められる夢を見るのだ。

 一回目は三つ目の部屋に辿り着いた瞬間気絶。目覚めると、木の根に寄りかかって座っていた。休憩している最中に見た白昼夢だった。

 二回目、彼女は最初の部屋で少し考えたが、先に進むことを選択した。もしかしたらゲームの内容が変わっているかもしれない、と考えたのだ。しかし、やはり三つ目の部屋には大量の腕が転がっていた。そこで現実に戻る。

 三回目、もう進む気にはなれなかった。レンガの破片が転がる一つ目の部屋でまんじりともせず壁を眺めていた。

 四回目、二つ目の部屋まで進み、そこで過ごすことにした。殺風景な一つ目の部屋より、人形たちに囲まれていた方が、気がまぎれるだろうと考えたのだ。しかし、それは全くの裏目に出た。複数の小さな視線は彼女を責め続けた。もちろん人形は人形であり、感情などあるはずがない。が、人間を模して造られた人形というのは、時として写し鏡の役割をもつ。私は二回人形を壊した――そんな負い目をもって鏡を見れば、そこに映るのは“お前は二回人形を壊した”と事実を告げる虚像だ。ただでさえ不安定な精神は、さらに追い打ちを食らい、ほんの数分で居た堪れなくなる。しかし、扉が閉まっているので一つ目の部屋に戻ることはできない。かといって、進むこともできない。それは、三体目の犠牲を払うということなのだから。気絶して入りこんだ夢の中でメシアは気絶――現実に戻る。

 それ以降は、ずっと一つ目の部屋で過ごした。

 二度目の夕暮れを見る頃には、彼女の体と心はズタボロになっていた。二人の同居者と共に学校に通いつつ楽しく自由に暮らしていたのが、遥か昔のことに思えて、メシアは泣いた。もう二度とそんな暮らしには戻れないかもしれない――そう思うと、それ以上一歩も進む気にはなれなかった。


――いっそ、楽になろうか。


 それは、しばらく前から考えていたことだった。未来を諦めたのなら、それ以上辛い思いをする必要はない。彼女らしい割り切られた論理的な考え方だった。現状を鑑みれば、それがベストにも思えた。永遠の安息を手に入れるための一瞬の痛み――それは甘い蜜のように彼女の思考の片隅にこびりつき、存在感を増していった。

 それが、いよいよ、現実味を帯びてきた。希望を絶望が上回りつつある。今彼女を犯している苦しみは、コイドやアーネットとの楽しい生活を凌駕しかけている。

 そんな時だった……彼女は見つけてしまう。

 太めの木から真横に伸びる一本の枝。それは中ほどから折れており、鋭く角度の付いた切り口から年輪が見える。これだけ木々が密集しているのだ、枝同士が風でせめぎ合って、折れるのも必然と言える。実際、この二日ほどでメシアは折れた枝など嫌というほど見てきた。

 が、その枝に彼女は目を止めた。反らすことができなかった。

 そうさせた理由は、折れた枝の先端が、ちょうど彼女の胸の辺りの高さだ――ということに他ならない。

 ほぼほぼ覚悟を決めていた彼女だが、さすがに尻込みする。

 吸血鬼は胸に木のくいを打たれると死ぬと言うが、生きたまま先端の丸い杭を打たれる痛みはどれほど壮絶だろうか。

 ましてや、ささくれ立った枝の先端となれば、どうだろう……それは、体に刺さると同時に幾つも先端を分け、数十、数百の針となり、彼女の心臓を射抜く。チクチクと小さな刺激が群れをなして決定的な器官を破壊する……しかも、杭を“打つ“役目も彼女自身が担わなければならない。はたして、退魔師は吸血鬼の痛みを知った上でなお杭を打ち続けることができるだろうか……。


「…………」


 全てを考慮したうえで、メシアは行動を起こした。

 尖った枝の先端を両手で優しく包む。その感触を少し弄んでから、彼女は――まだ幼い胸の中央に先端をあてがった。

 このまま前に力をかければ、私は死ぬ――痛みは安らぎをもたらす。果ての見えない停滞は不安をもたらす。

 どちらを選ぶ? きっとどちらを選んでも後悔は付いてくる。それでも変化を求めるから葛藤が生まれる。


「そっか……」


 メシアが呟きを漏らすと、枝の先端が僅かに胸を引っ掻いた。鋭い痛みに顔をしかめる。それでも、彼女は誰にも届かない空しい言葉を止められない。


「強い望みがあるからなんだ――後悔することを覚悟する――それが本当の覚悟……」


 僅か――ほんの僅か――彼女の瞳に光が戻る。


「私にとって、後悔すら厭わない望み――それは、死んで楽になること……違う――」


 一歩――後ずさるように踏み出す。鋭利な枝が胸から離れる。二歩――枝を掴んでいた手が外れ、だらんと下がる。そして、その時にはもう、メシアは枝のことなど完全に思考から追い出していた。


「もう一度……もう一度、コイドたちに会いたい!」


 その叫びは閉じた森を突き抜け高らかに響き渡った。


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