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壇香梅の逃避行 4

 


 歩きながら会話したところ、彼女は“エレ”という名前だということが分かった。それ以外何も教えてくれなかった。

 エレは本当に魔女の森まで付いてくるつもりらしかった。彼女に言わせれば行き先を任せた犬の散歩らしいが、俺の心情としては上下関係なんてチャンチャラおかしい。俺は好意で金貨を渡したのだから。

 しかし、事実、財布を握っているのは彼女であり、食事するのも宿をとるのも彼女に許可を取る必要がある。養われている――と言えなくもない。


「おなか空いた」


 同じようなタイミングで食事をとるので、彼女がそう言ったとき、俺も空腹を感じていた。が、俺は眉をひそめる他なかった。コイツは何を言い出すんだ。


「こんな処に飯屋がある訳無いだろ」


 俺だって少しは考えている。喫茶店で盗み聞きした会話からロカとアーネットは俺を追いかけてきたことが分かった。後追いの二人は馬車で移動しているに違いない。そうなると、取れるルートは限られる。例えば、こんな傾斜のきつい山道なんかは馬車では越えられない。

 山肌は巨大な岩でデコボコと波打っている。その隙間を縫うように生える針葉樹は皆白く肌荒れを起こしており、ほとんど葉を維持できていない。栄養が行き届かないのだろう。山に入って半日ほど、直に山頂が見えてこようかという所まで登ってきたが、ここまで一度として自然を感じることは無かった。岩と木の白、それは灰のようで、それらが閑散と立ち並ぶ景色は、どちらかといえば火事で燃え尽きた町のようなのだ。こんな場所、山小屋どころか人とすれ違うことすらない。


「でも、ほら」


 ほら? 振り返ると、エレは立ち止まり斜め上の方を指さしていた。

 それを見た瞬間、背中にうすら寒いものを感じる。俺は斜面を見つめて、俯きがちに歩いていた。だから、視界が極端に狭かった。そもそも、こんな山で遠くを見る必要すらないと思っていた。そんなとき、指を指して“ほら”ときた……。


「――マジかよ」


 エレの指さす方。視線を向けて俺はようやく気付く。空と山の地平線――尾根はすぐそこまで迫っていた。そのことはいい。山を越えることが目的なのだから喜ばしいことだ。

 その線上に建物がある。それが不気味なのだ。



 *



 この山の稜線は舗装されたように平らで歩きやすかった。幅もある。そうだろうとは思っていた。なにせ、建物が建てられるのだから。

 見て触れるものしか信じない。そういう考え方は慎重で好感が持てる。しかし、見て触ってもまだ信じられない。という状況もあり得る。それが今だ。

 炭焼き小屋みたいなちょっとした物であれば、まだ分かる。しかし、切り石の屋根に漆喰壁と来れば話は別だ。スキー場なんかに行けば、山の上に洋風の大きく立派な建物が建っていたりする。ある意味よくある光景ともいえる。

 だとして、今回の場合どうだろう。こんなデコボコで木が乱立する山がスキー場になりえるだろうか。そもそもこの世界にスキーという遊びがあるのだろうか。心に隙間風が吹くような風景が観光に向いているだろうか。

 俺が考えるに全てノーだ。

 やはり不可思議。なにかロクでもないことが待っているに違いない。見なかったことにして通り過ぎるのが吉だ。


「何変な顔してんの? 早く入ろうよ」

「え、入るの」

「だからお腹空いたって」

「もう少し我慢して山を下りてからでも――」

「わたしは今食べたいの」

「でも、人がいるとは限らないだろ」

「バカね。よく見てよ」


 といって指を指すので目で追うと、なるほど――煙突から灰色の煙が出ている。火災にしては行儀がよすぎるので、それは人のいる証に他ならない。

 ふと疑問がよぎる。なぜ言われるまで気づかなかったのだろう。俺はこの建物を不気味に思っていた。そういう場合、警戒心で注意深く観察するものだ。事実、そうした。煙突の煙なんて真っ先に目が行きそうなものだが――そもそも、近づくまで建物に気付かなかったのも変だ。山肌を見つめていたとはいえ、こんなスカスカな視界の良い山道なのだから、もっと早い時点で見つけていてもおかしくない。

 何故こうも重要な情報を見落とすのか。逆にいえば、エレは何故こうも敏感に見つけることができるのか。


「はあ――行くよ」

「ちょ、ちょっと」


 エレが屋敷のドアを開けてしまったので、思考が中断される。嫌だ、入りたくない。しかし、彼女の後を追うしかない。なにせ、俺はエレに養われている身なのだから。



 *



 玄関をくぐると、すぐに階段があった。といって、一階に玄関が集まっている二階建てマンションのような作りではなく、ホテルのエントランスのように広々としている。階段を中心にキャットウォークの両翼がぐるっとホールを囲むように設えられており、扉が幾つも並んでいるのが見える。中心の扉が飛びぬけて大きいので、そこからさらに廊下が広がっているのだろう。外観以上に広いようだ。

 俺の借りている学生寮なんか比べ物にならない。ローブアインにあるロカの実家に匹敵する豪華さだ。

 しかし、エレは建物の豪勢さに驚いている様子は無かった。


「普通厨房って一階よね」


 そう独り言ちると、さっさと歩きだした。厨房より先に、家主を探せよ――思うだけに留めた。

 二階の構造から考えて、そうだろうとは思っていたが、階段の裏からまっすぐに廊下が続いていた。

 そこに辿り着くまでの数秒、数歩の移動で、俺の不安はさらに増していた。窓が無く、壁沿いの蝋燭のみが光源となる仄暗い空間。風の流れは一切感じられない。博物館のような乾いた臭いがする。腐臭なんかが漂っていれば怖いが、普通さは不気味さを助長する。さっきまで山道を歩いていたから感覚がマヒしかかっているが、どうやらフロア前面に張られている絨毯も相当上等なようで、二人分の足音は一切響かない。静寂特有の耳鳴りを感じるほど静かだ。

 階段奥の廊下は、少し進むと観音開きの扉に突き当たる。

 エレは一切の躊躇なく扉を押しあけた。俺なんかは、その度胸でお腹がいっぱいだ。もう出ようぜ。


「ビンゴ」


 俺の心中など知らず、ハミングのように呟くエレ。

 確かに、ビンゴ。扉の向こうは食堂だった。玄関フロアより一段階証明が強い。見れば天井付近で氷を散りばめた様な装飾照明が輝いている。

 その下には白いクロスを被せられた長机が敷かれている。思わず両端の五メートル地点に赤いラインを引きたくなるほど長い。どうでもいいけど、水泳は得意中の得意だ。

 長机に分断された向こうの壁際には絵皿や銀食器などが飾られた棚があり、暖炉らしきものも二つ設えられている。映画館のドアのような背もたれの椅子は、数える気すら起きない。

 やはり誰か住んでいる。テーブルや棚はもちろん、シャンデリアに埃が乗っている気配すらない。綺麗好きが一人で住んでいる部屋より、ずっと綺麗だろう。雑務処理を生業とした人間の影すら感じられる。

 ここで新たな疑問。明らかに使用人がいるだろうに、なぜ誰も出て来ないのか――ドアノッカーや呼び鈴に類する物が無かったあたり、玄関を開けたところで誰か待っていても不思議じゃない。しかし、現実はこうだ。不審な少女とそれに振り回される誠実な少年の侵入を許してしまっている。本当に使用人が居るのなら首切りものだ。


「ねえ、分かる?」

「腹減ってるんだろ」

「私の話じゃないっての。匂いよ、匂い」


 言われて気づく。そういえば、さっきから甘くて香ばしい匂いを鼻孔が捉えている。これは、


「ビーフシチューね。大好物よ」


 ぐっと拳を握られても、そんなこと知らん。でも、確かにこれはビーフシチューの匂いだ。茶色くゴロゴロとしたスープが易々と脳裏に浮かぶ。


「多分あそこだ――行こっ」


 エレは目ざとく食堂の隅っこにある扉を見つけて、そっちへ歩き出した。なるほど、食堂とつながっているドアの先にあるのは厨房と決まっている。そして、食べ物があるのは厨房と決まっている。

 俺はといえば、警戒心が強まっていてこれ以上足を進めるのは嫌だった。が、一人で取り残されるのも嫌なので、両天秤の末エレについて行くことに決めたのだった。

――このとき、俺の精神は結構参っていたらしい。まったく違和感に気付けなかったのだ。

 シチューの匂い――厨房へ続く扉――エレに言われるまで俺は気づかなかった。屋敷や煙突の煙を認識した時と同じように……。


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