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用務員さん

作者: 鬼灯しいな

 私は参っていた。私は安アパートの一室で、朝食時だというのに何も乗っていないテーブルを前にしながら、浅く腰かけた椅子の上で求人欄を眺めていた。

 教職に就くのが私の夢だ。子供が好きで、その成長に携わる仕事をしたかったのだ。いつ頃からこの夢が私の胸の内を占有していたかは定かではないが、高校生のときには、すでにしっかりとしたビジョンがあったように思う。私は教育関係の学部へ進み、落第することなく卒業した。だが順風満帆じゅんぷうまんぱんはここまでだった。卒業から一年。私は未だ夢追い人のままだった。

 人一倍努力はしているつもりだ。情熱もあった。何が足りない?

 学習塾の講師という手もあった。しかし、塾は学校に似ているようで性質が全然違う。あそこは教育の場というよりも、テストで点数を取り、いい学校に入るためのノウハウを教える場所だ。それも成長には違いないが、私が教職を目指す目的とは大きくかけ離れていた。

 教職に就きたい。成長を見守りたい。目的というより、もはやそれは欲望といってよかった。私はこれを満たさずにいられなかったのだ。

 もし私に子供がいたのなら、この欲望は満たされたのだろうか。それには私は若すぎたし、その候補となるパートナーもいなかった。この仮定は無意味だ。

 この一年はあっという間だった。しかし、ふいにするにはあまりに長い時間だ。現役というアドバンテージはもうない。何か蓄積があったか。いいや、ない。

 漠然とした不安が徐々に実体化しつつあった。最近ではそれらが確か何かとなって私の周りをうろちょろし始めていた。底なしに思えていた確かな情熱さえ陽炎のように揺らぎはじめていた。

 だから、私は積極的に仕事を探していたというより、何かピンとくる職業がないかなという曖昧な気持ちで、つらつらと求職用雑誌を見ていたのである。

 大抵が職場を丁寧にアピールし、中には職員が笑顔で並んでいる写真を載せているところもあった。お給料がいいですよ、勤務時間に融通が効きますよ、雰囲気のいい職場ですよ……。どれも私の心には響かない。次、次、これも次……。

 妙な求人があった。

〈用務員の引き継ぎ〉

 それはテンプレートどおりの求人がからからと並ぶ中で異様に目立った。見慣れぬ語感に興味をひかれた私は、じっくりと内容に目を通すことにした。

 要は住みこみの用務員の募集だった。今の用務員がやめることになり、その仕事を引き継いでくれる人を探しているとのことだった。なんだ、確認してみれば何の変哲もない仕事だ。おそらく、担当者が引き継ぎということを意識しすぎて、妙な見出しにしてしまったのだろう。

 だが、私の心はやけにこの求人に惹かれていた。職場が学校だったからかもしれない。あるいは、その学校が私の母校だからかもしれなかった。とにかく私は乗り気だった。

 募集人数は一人。殺到するような内容でもないだろうが、まごまごしているうちに埋まってしまうのもおもしろくない。私はさっそく電話をかけた。

 数回の呼び出し音の後、ぷつりと音がして電話越し特有のくぐもった声が聞こえてきた。

「はい、こちらK中学校です」

 優しい調子の女性の声だ。

「あのう、こちらで用務員の募集があると見たのですが……」

「はい、はい」

 私は要領の悪い対応だと思いながらも先を続けた。

「まだ、決まっていないでしょうか?」

「はい」

「その、用務員です」

「そうですね。はい、決まっていません。まだ募集しております」

「それで、どうしたら……」

「用務員の引き継ぎでしょうか?」

 そうに決まっている。私は気の短い性質ではないが、若干いらいらし始めた。受け答えの回りくどさからして、今対応している女性が求人を出したのかもしれなかった。

「そうです。その求人を見て連絡しました」

「来れますか?」

「え?」

 突然話が飛んだので、私は思わず聞きかえした。

「K小学校、用務員室までお越しください」

 ぷつり。ツーツー。一方的に電話は切れてしまった。

 お越しくださいといわれても、一体どんな格好をしていけばいいのか。説明はなかったし、求人欄にも書かれてはいない。日時にも一切触れられていなかった。なんて雑な対応だろう。首を捻りながらも、とりあえず採用枠は埋まっていないようだし、面接にこぎつけられたことで私は安堵あんどした。

 善は急げではないが、私はすぐに準備を始めた。髭を剃り、顔を洗ってさっぱりすると寝癖をくしとドライヤーでなでつける。よろしい。鏡の中の自分はそれほど悪い印象ではない。鏡に向かって少し微笑んで、自分でその行為を少し不気味に思いながらも、服装をどうしようかと悩んだ。スーツ……でいいのだろうか? いいや、用務員の募集に小奇麗な格好で駆けつけるのは変かもしれない。かといって学習の場にTシャツとジーンズでもあるまい。私はカジュアルになり過ぎないように、かつ清潔そうな服を選ぶと出発した。

 私は朝の通勤渋滞に後ろめたさなしで並んだ。いつもなら、もう少し早く出てくれば……などと先に立たないことを考え、いやなときにはむしゃくしゃしてしまうものだが、今日に限って私の心境は穏やかだった。面接に向かうという、はっきりした目的があったからかもしれない。ぽかぽかした朝の日差し。何でもない風景を眺めながら、私はゆとりある心持でゆっくりと車を進めていった。

 K中学の周辺は、私が学生のころから時が止まっているような場所もあれば、本当に同じ場所かと疑いたくなるほど様変わりしている場所もあった。十数年も足を運んでいないにもかかわらず、不思議と登校した順路は頭に残っていた。

 かつての通学路の様子はさておき、見えてきたK中学校には大きな変化がないように見えた。校門前にある、私には理解できない女性の石像や名前も知らないひょろりひょろりした樹木は当時そのままを思い起こさせた。

 私は敷地内をのろのろと運転しながら、久方ぶりの母校を眺めた。三階建ての校舎は、どうも記憶よりも新しくなっているようである。そういえば、私が卒業する年に改築されたのだっけ。卒業を控えた身では、校舎が新しくなろうがどうでもよかったのだな……。子供にありがちな狭い世界観だったと苦笑した。来客用のスペースに駐車する。


 玄関とは別に幅の広い階段があり、そこを上ると来客用窓口と職員室があったと記憶している。

 ぴかぴかした窓越しに雑然と事務用具が散らばっていた。人の姿はないが、奥の職員室から話し声がしていた。呼び出しベルは見当たらない。私は声を張って呼びかけた。

「すみませーん。どなたか、おりませんかァー」

 しばらく待ったが誰も来ない。

 相変わらず話し声は聞こえていた。その声が聞こえているということは、私の声も届いているのではないか。受け付けは自分の仕事ではない、などと怠慢しているのだろう。ちょっと顔を出して「お待ちください」と伝え、担当者を呼びに行く。簡単なことだ。どうしてやらない。話し声に笑いが混じった。私は自分が嘲笑されているような錯覚に陥った。こんなやつらでも教員になれたというのに、どうして私は……。

 呼び続けて文句をつけてやろうかと思ったが、話は通っているのだからこのまま入っても問題ないだろうと思いなおし、落ち着いた。私はスリッパにはきかえ、ぱたぱたと校舎を進んでいった。生徒の数はまだまばらだった。

 内部も大きく手を加えられてまるで新築のようだったが、各教室の位置までは変わっていなかった。三階建て校舎の一階には保健室と実践科目の教室、理科室、美術室、音楽室、家庭科室がある。これは機材搬入の手間を省くためらしい。二階が資料室と図書室。職員室があるのもここだ。中ほどに資料類を集中させることで、行き来や運搬の手間を少なくできるそうだ。最上階に平常の授業を行う二、三年生の教室が並んでいる。一年生だけは一階と二階の空いたスペースに教室が割り当てられていた。

 肝心の用務員室はというと、体育館に続く通用口と対称の位置、普段は人が出入りしない裏口のすぐ横にある。ここはとにかく馴染みのない場所だ。

 用務員室の前を通るのは、掃除で出たゴミ袋を裏手にある焼却炉に集めるときだけだ。私が入学したときから、この場所はゴミ捨て場ではなく焼却炉と呼ばれていた。あるいは、昔の呼び方の名残だったのかもしれない。焼却炉そのものは、その当時から久しく火は入れられておらず、古く錆びついた鉄のかまだ。その前にロープが張ってあって、そのスペースにゴミ袋を集めておくのだ。もはや役に立たないとはいえ、その錆びに覆われた重厚な金属の物体は、子供心に魅力的で同時に何だか怖くもあった。あまり長居したい場所ではない。ゴミを捨てたら一目散、用務員室の前もぱっと素通りしてしまう。

 そんな用事でしか通らないものだから、卒業生の中でもここに用務員室があると知らない人がいるかもしれない。そのぐらい馴染みがない。

 では、なぜ私がぱっとこの場所を思い出せたかというと、取るに足らない、しかし個人的には強烈に心に焼きついたエピソードがあったからである。


 私がK中学で初めて夏を迎えた頃だっただろうか。私は掃除後のジャンケンで負け、ゴミを捨てることになった。口では不平を言いながらも、多くてゴミ箱二つ分の量である。重くもないし、かさもそれほどではない。両手にゴミ袋をさげ、さっさと終わらせてしまおうと足早に焼却炉に向かっていた。

 裏口が見えて来たとき、私の視線はふと左側に吸い寄せられた。暑さのためだろうか、すりガラスの窓が半分ほど開けられていたのだ。ゴミ袋を焼却炉へ捨てに行くのは何度も経験していたが、用務員室を意識したのはそれが初めてだった。

 用務員室の周辺だけでなく、用務員さん自体にも馴染みがなかった。用務員さんは白髪混じりの髪の毛を短く刈りこんだ、五十半ばの日に焼けたおじさんで、頑固そうな太い眉とムスッと結ばれた薄い唇がおっかない印象を周囲に与えていた。当時の私には彼が何をしている人なのかさっぱり分からなかった。焼却炉の前に立っていたり、体育倉庫で屈んでいたりする姿をたまに見かけたが、仕事らしいものといえば廊下をちょっと掃除しているぐらいのものに思えた。大げさにいうと、用務員室も用務員さんも謎の存在だったのである。

 その用務員室のサッシが隙間を開けている。私はゴミ袋を置いた。用務員さんをもっと知りたいだとか、彼の私生活を暴いてやろうだとか、そんな気は毛頭なかった。子供らしい、無邪気な好奇心のみが私を動かした。なんとなく緊張を感じながら、私はそっと窓に目を近づけた。

 部屋の中は思っていたより整頓されていた……と思う。正直なところ、部屋の詳細な印象がない。私がはっきり覚えているのは、そこにいた用務員さんと大きな冷蔵庫だけだ。

 ぶうんと低いモーター音が聞こえた。部屋に対して大きい冷蔵庫だった。大きいが扉はひとつだけだ。業務用かもしれない。それが居住空間にせり出すように、どんと置かれているのである。この六畳そこそこの部屋には不釣り合いな品で、この大きさでは生活の上で邪魔になるとさえ思われた。

 その前に陣取るようにあぐらをかいた用務員さんがいた。用務員さんの首筋に大きなほくろがあるのを初めて知った。彼は何をするでもなく、扉の開いた冷蔵庫の前に座っているのだった。最初は冷蔵庫から流れ出る冷気で涼んでいるのかと思った。だが妙だ。彼の表情である。仏頂面しかできないとばかり思っていた用務員さんの顔には、嬉しさが滴り落ちそうなほどの笑顔が、にたにたと貼りついていた。冷蔵庫の中を見て、にたついているに違いなかった。

 私がのぞく窓のある位置は冷蔵庫の側面で、しかも扉が視線を遮るように開いていたので中身はちっとも見えなかった。のぞく角度を工夫してみたが、どうやっても見えない。用務員さんは随分と長い時間、にたにたとしていたようだが、不意に私の方へ顔を向けた。目が合った。用務員さんの笑顔が、冷えていく熱線の輝きのように消えていった。私はゴミ袋を持って駆け出した。後ろで窓が閉まる音が聞こえた。

 それだけである。ものすごい何かを見たわけではなく、こっぴどく叱られたわけでもない。それでも、この出来事は私の記憶に刻み込まれてしまった。妙に大きな冷蔵庫の前で、恐ろしいような笑顔を見せる用務員さん。それがすっと消えていく様。首にあるほくろが、今でもいやにはっきり思い出せる……。


 ノックを二回。中からはすぐに返事があった。

「はいはい、ちょっと待ってね」

 ぱたんと何かを閉める音。ややして、

「もういいよ。どうぞ」

 と声がかけられた。

「失礼します」

 私はドアを開け、一礼した。顔を上げて驚いた。首から手拭いを下げた作業着姿の、あの用務員さんが目の前に立っていた。

 当時、すでに壮年の暮れであったのだから、今ごろは相応の老いが滲み出ているはずだった。だが目の前の彼はどうだ。少し白髪が増えた程度で、まだまだおじさんと呼べる容姿を保っていた。脅威的に若々しい。

「何か、私の顔についていますかね?」

 私はあわてて答えた。

「いえ、あの、私はここの卒業生なんです。あなたがその当時から用務員として働かれていたことを思い出しまして……。あの、用務員の募集を見て、ここに来るように言われたのですが」

 用務員さんはぱっと顔を明るくして、

「君がそうだったか。私も驚いてしまったよ。まさか、こんな若い人が来てくれるとはね。ここでってのもなんだ、まあ入りなさい」

「失礼します」

 用務員さんと話をしたのは初めてだったが、気さくな人柄を感じた。

 用務員室はあの頃と変わりないようだった。足を踏み入れるとひんやりと冷たい空気が私を包んだ。冷蔵庫もあの頃のまま。存在を主張するかのようにぶうんと低い唸りを上げている。

「さあさあ、座りなさい」

 用務員さんは座布団を用意してくれた。

「ありがとうございます。それで面接はここで行うんでしょうか?」

 おじさんはきょとんとした。少し笑顔になると、

「いや、もう君でほぼ決まりだ」

「え?」

「適当な人がこなくてね。そろそろ引き継いでしまわないとまずいんだ。それに私も、一刻も早く引退してゆっくりしたいからね」

「はあ」

 おじさんは後任が決まらないと身動きが取れないのだ。あの求人広告が出てから、かなり月日が経っていたのかもしれない。とっくに引退できているはずなのに、この場に縛りつけられている、おじさんの気持ちは分からなくもなかった。

 だが、ここは学校だ。たくさんの子供がいる。万が一、不審人物を採用してしまったら大事件だ。せめて身元を確認し、面接で人となりを簡単に把握しておくべきではないのか。

 そうは思うのだが、私がどう口を出すというのか。自己中心的な立場では、何も問題は起きていないのだ。むしろとんとん拍子に事が決まっている。私はその流れに身を任せてしまった。

「君、名前は?」

平坂友哉ひらさかゆうやです」

「平坂君か。あとは、業務内容を話した後に君の気持が変わらないことを祈るよ。なあに、大変だが難しい仕事じゃない。ざっくりといえば、学校の便利屋だ。頼まれてできることなら何でもする、そういう仕事だ。とはいえ、一昔前に比べて作業量はぐんと少なくなっているがね……」

 おじさんは汗を手拭でぬぐった。室温は肌寒いぐらいなのに、彼の額には玉のように汗が浮かんで光っている。

 私はよほど妙な顔をしていたらしい。おじさんが弁明するように言った。

「いやはや、すごい汗でしょう。寒いところの生まれなんだ。少し暑いとすぐに、シャツがびしょびしょになってしまう。気になるかい? 参ったねえ」

「いえ……」

 体質的なものだろう。それを意識させてしまったことで、私は恐縮した。おじさんは気にしたそぶりを見せずに話を続けた。

「そうだ、重要なことを伝え忘れていた。用務員となるとここに住みこみで働いてもらうことになるが、問題ないかね?」

「ええ、なんとかなります」

 今の安アパートは教職に就くまでの仮住まいのつもりだったので、大したものは持ちこんでいない。手荷物程度ですぐに移って来られるだろう。

「そうか。それはよかった。ここに住んでもらわないと何にもならないからね」

 おじさんの顔には安堵が浮かんでいた。

「それじゃあ改めて、仕事の話をしようか」

「はい、お願いします」

「まずはあれだな、ゴミ置き場のチェックだな」

「焼却炉ですか?」

「ああ、ここの出身ならそう呼んだ方がいいか。学校で出るゴミの量はもの凄いんだ。毎日、山のように出る。中には危険なものがないとは言えないし、外に持ち出されては困る書類なんかもある。まあ、ほとんどが紙くずで危なくはないし、重要なものはシュレッダーにかけてあるんだが、言わば保険だね。焼却炉の周囲で遊ぶ子供がいないか、不審な人物がゴミを漁っていないか、ゴミに荒らされた形跡がないか……そんなところをチェックする」

「なるほど」

「ゴミ収集車が来るまで見張っているのが一番なんだが、まあそうもいかないわな。ときどき見回ってますよって思わせておくのが肝心なんだ」

 用務員さんはまた汗をぬぐった。

「もう一つは放課後、部活動や委員会活動が終わった後の見回り、そして戸締りだな。生徒が残っていないか、鍵が開いたり壊れている個所はないか。昨日が大丈夫だからといって、今日も大丈夫とは限らない。毎日、入念に確認する。焼却炉のチェックと見回り戸締りが日課になるってことだ。他の仕事はというと、臨機応変にやるしかない。掃除や用具整備、備品の整理……諸々の雑用だな。できる範囲でこなしていく。先生方から頼まれることもある。けど、理想は言われる前にさっと済ませちまうんだ。表立って活躍する仕事じゃないが、幅広い知識と技術、そして細やかな気配りが必要なんだ。どうだい、できそうかね?」

 私は用務員の仕事に感心しながらも、少し不安になった。

「あまり器用な方ではないのですが、大丈夫でしょうか」

「心配ない、心配ない。あんまり専門的なのは業者を呼ぶからね。ほんと、できる範囲のことでいいんだ」

 なかなかやりがいのある仕事だと私は思った。それは用務員さんが、一つのことを成し遂げた男の顔をしていたからかもしれなかった。

「分かりました。やってみます」

 おじさんは嬉しそうに笑った。額にぷくっと玉の汗が浮かび、つっと流れ落ちた。

「決まりだね。よかった、よかった。これで肩の荷が下りたよ」

 気持ちのいいぐらい滑らかに話がまとまっていった。

 用務員として学校に関わりながら教員を目指すのも、正道ではないが悪くない。用務員としての立場からしか見えてこない現場の状況もたくさんあるはずだ。それはきっと糧になる。来年もまた受からなかったと、うじうじ求人誌を眺めているよりは何倍もいい。私は無理やりではなく、素直にそう考えはじめていた。

「そうだ、私から餞別せんべつをあげよう」

 おじさんからの突然の申し出だった。

「いえ、お気づかいは……」

「そう言わず。実はその冷蔵庫、使えないんだ」

「こんなに立派なのに、だめですか」

「困るだろう?」

 自炊をする方ではないが、冷蔵庫はあった方が便利だ。

「だから新しいのをプレゼントしようと思ってね」

 私は餞別と聞いたとき、ちょっとしたお菓子か、あるいは用務員の仕事道具なんかを想像していたので、この贈り物には驚いた。

「そんな高価なものを受け取るわけにはいきませんよ」

「いやいや、受け取ってくれ。君のような元気で若い人が引き継いでくれるだなんて、思ってもみなかったからね。とにかく受け取ってくれ」

 何度かやり取りを繰り返したが、おじさんの強引さもあり、私は心ならずも承諾した。おじさんは腰を上げた。

「それじゃあ、行ってくるよ」

「今買うんですか?」

「そりゃあね。早い方がいい。すぐに戻るから、この部屋でくつろいでいてくれ。もう、君の部屋だ。好みに模様替えしてもらってもかまわんよ。ああ、冷蔵庫は開けないようにな」

「はあ……分かりました」

 おじさんは汗をふきふき行ってしまった。


 しばらく待ったが、用務員さんは帰ってこない。

 部屋には娯楽のたぐいがなく、私は携帯電話をいじっていたのだが、いずれ飽きてしまった。

 寝転がって天井を見る。改築にあたってこの部屋も一新されたらしく、天井は綺麗だった。私が通っていた頃は天井は古い灰色の板で、妙な染みがあちこちに浮かんでいた。それが夜空から星座を探すような楽しみを与えてくれたものだった。だが、この新しい天井は一様に白く冷たく、眺めていると余計に時間が引き伸ばされていくようだった。冷蔵庫の静かな唸りが途切れることなく続いていた。

 私は身を起こした。ふと疑問が浮かんだのだ。冷蔵庫の前に座る用務員さん。そしてその笑顔。彼は何を見ていたのか。

 私は冷蔵庫の周囲を点検した。冷蔵庫からは微かな振動とともに音がしている。裏をのぞくとコンセントもしっかりと刺さっていた。壊れているようには思えない。

 顔を上げた私は何かの気配を感じた。近くに私以外の何かがいる、そんな感覚を肌が受け止めていた。周囲を見回す。部屋におかしなところは一つもない。冷蔵庫の音だけが静かに響き続けていた。気のせいだろうか。そうは思えないが……。

 この部屋で気になるものといえば、やはりこの大きな冷蔵庫だ。おじさんは開けるなと言っていた。だが、妙ではないか。冷蔵庫が故障していたとして、さしあたりなんの危険もない。使えないよと念を押すならともかく、開けるなと釘を刺していくのはおかしい。そもそも、引き継ぎが決まったからといって冷蔵庫を贈るものだろうか。万全の状態で用務員室を引き渡したい気持ちは理解できる。それを踏まえても、いささか大げさすぎはしないか。私一人を部屋に置いて、すぐに買いに行ってしまったのもに落ちない。

 用務員さんの笑顔の記憶を発端に、私の想像力はたくましくなっていった。スムーズに決まったと喜んでいたが、思い返してみるとどこかざらざらした違和感のようなものが、常につきまとってはいないか。私が身震いしたのは、部屋の温度が低いためだけではない……。

 私は冷蔵庫をじっと見た。冷蔵庫の中は空っぽで、ちっとも冷えていないに違いない。それを確認したら落ち着ける。おじさんに私が冷蔵庫をいじったかどうかなんて、後から判断できるはずはないのだ。――開けてしまおうか。その気持ちはだんだんと強くなり、もう抑えられるものではない。冷蔵庫に手が伸びていく。

 取っ手に触れたとき、唐突に一つの考えが現れ、私はそれにはっとした。思いつきにすぎなかったが、その考えが違和感全てをきれいに結びつけ、一斉に取りはらってくれるように感じた。そうだ、考えてみればみるほど単純なことだった。神経質になり過ぎだったと、思わず笑みがこぼれそうになる。それはこんな具合だった。

 冷蔵庫は壊れていない。そして、おじさんが新しい冷蔵庫を買いに行くと言ったのも嘘なのだ。

 おじさんが開けないように念を押していたのは、実は逆の意図で、私に冷蔵庫を開けさせようとしていたのだ。人間、だめだと言われるとどうしても気になる。開けるなと言われれば開けたくなる。誰も見ていなければなおさらだ。おじさんが利用したのは、この当たり前の心理だ。

 なぜそんな回りくどいことをする必要があるのか?

 それは冷蔵庫にあるものが原因だ。おそらく酒だろう。ビールかチューハイ、もしかするとウォツカかもしれないが、それがずらりと並んでいるに違いない。だが、ここは学校。大量の酒類を部屋に置いているとは、いくら教員でなくても言いだしにくい。だから、おじさん自ら言い出さずとも私の方から発見してもらえる方法を取ったわけだ。つまり贈り物とは、新しい冷蔵庫なんかではなく、この冷蔵庫に入っている酒のことなのだ。

 こうなると他の違和感にも次々と説明がつく。

 おじさんは酒が好きで、一日の終わりにひっそりと晩酌をするのが格別の楽しみだったのだろう。記憶の中のおじさんが、冷蔵庫を開けてにやにやしていたのもうなずける話だ。

 そして先ほどの気配はおじさんのものだ。中を見回しても正体がつかめないのは当たり前だ。冷蔵庫を買いに行くと理由をつけて、部屋のすぐ外で私が冷蔵庫を開けるのを今か今かと待っているのだろう。

 何も不思議なことはなかった。

 そうと分かれば、ためらう必要はない。私もアルコールはいける方だ。一体どんな酒が並んでいるのかと期待しながら、一気にドアを引き開けた。ばこっと鈍い音がして冷気が流れ出た。

 中に入っていたものは、私が思っていたものと違った。冷蔵庫の段は取り払われ、全体が一つの空間になっていた。そこにごわごわの薄汚れた布で包まれた、大きな物体が放り込んであった。厚みのある布から所々はみ出ているものは、何やら複雑な形をしていて、白い膜で覆われた枯れ木のように見えた。筒のようになった布から五本の枝が、突っ張ったようにそりかえって伸びている。それは川底に沈んだ石のようなぬめりを帯びていた。

 私はそれが何であるのか気づき、その瞬間、扉を勢いよく閉めた。手が震えるのをはっきりと感じた。

 死体だ。胎児姿勢を取った人間の死体だ。しかも私は見てしまった。冷蔵庫の扉を閉める直前、その首筋に大きなほくろがあるのを……。

 おじさんは、確かに部屋を出ていった。会話もした。では、この中にあるものは、一体なんだ? もう一度確かめる勇気などありはしない。

 冷たい汗が止まらない。私は浅い呼吸をしながら、今見た物が現実ではないと自分に言い聞かせた。だが、扉一枚を隔てて存在している死体は、あまりにも確かな、覆しようのない現実だった。

 気が狂いそうになりながらも、私の頭はどこか冷静に働いていた。その様子を一段高い所から、さらに冷めた視線で見ている頭の中の自分がいた。その自分は、たがが外れたように笑い出した。笑い転げた。現実の私はうつろな目で冷蔵庫を見ていた。

 〈用務員の引き継ぎ〉……あの求人の見出しは実に正確だった。引き継ぐのは用務員の仕事ではなかった。用務員の死体だったのだ。

 冷蔵庫のぶーんという低い音。それが無数のハエのように私の精神に取りつき、卵を産みつけた。孵った無数のウジは、デリケートな精神表層をもそもそと這いまわり、私の神経を侵した。そこから新たなウジが、ハエがうじゃうじゃ生まれていく。ぶうん、ぶうーん。ぶんぶぶん。羽音はもはや耳をろうするばかりだ。頭が割れそうだ。

 何重もの膜を張ったような感覚の中、ドアを叩く音がかろうじて聞こえた。T電気です、冷蔵庫をお持ちしました……。ああ、それは私用の冷蔵庫だよ。

 視界の隅を何かが素早く横切った。それは私の背後で嬉しさをこらえきれないように息づいた。私の脳裏には用務員のおじさんの、あの恐ろしい笑顔が浮かんでいた。

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