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旦那様と若奥様

おまけです。

 月曜日、一週間の始まりの日。


 この日は残業もなく、同僚から飲みに誘われることもなく、俺は愛しい妻の待つスイートホームを一目散に目指した。



「ただいまー」


 閑静な住宅街の一角にある庭付き一戸建てのドアを開けると、パタパタと軽いスリッパの音が聞こえてきた。


「お帰りなさい、高臣さん」


 かわいらしい声で駆けてくるのは妻の椿姫。


 艶のある真っ黒な長い髪を揺らし、愛らしい円らな瞳を細め、控えめな笑みを浮かべて俺を出迎えてくれた。


 灯りのついた家で椿姫の顔を見ると仕事の疲れも一気に吹き飛び、家に帰ってきたという安堵感に包まれる。結婚して1番良かったのは、この安堵感かもしれない。


「ご飯、出来ていますけど、もう食べてしまいますか? それともお風呂を先にしますか?」


 それとも? と。


 俺の頭の中で椿姫の声が勝手に再生される。


『それとも、わ、た、し?』


 もちろん、答えは。


「お前を先に食べちゃおうかなぁああ~!」


 カバンを放り出して、ワンピースから伸びている妻の足に飛びつく。生足の柔らかですべすべの感触を楽しみながら太腿をするりと撫で上げると。


「ごっふうっ!」


 俺の顎が椿姫の膝蹴りに砕かれた。


 一瞬お花畑がチラついたけれども、お花畑に飛んでいく間際に見えたピンクのパンツが現世に引き止めてくれた。


 痛い。


 死ぬほど痛かった(お花畑見えたし)。


 でもこういうところに妻の愛を感じるのだ(ピンクのパンツ含む)。


「高臣さんったら、お仕事から帰ってきたばかりなのに、お戯れが過ぎますよ」


「戯れているんじゃない。俺は真剣だ」


「真剣ですか」


「ああ。真剣にお前限定で変態だ……ほぐぁっ!」


 膝蹴りがもう一撃来て、俺はもう一度お花畑まで飛んでいった。けれどもやはりピンクの(以下略)





「それじゃあ、ご飯から頂こうかな」


 痛みでボロボロ涙を零しながらそう言うと、妻はにっこりと微笑んだ。


「分かりました。今日は珍しい食材が手に入ったので、はりきって作ったんですよ。さあ、手洗いうがいをしてきてください」


「ああ」


 多少の痛みを残しながらも、何事もなかったかのように洗面所へ向かい、手洗いうがいを済ませてからダイニングへと入った。


「今日のご飯はなんだい?」


 4人掛けのテーブルに視線をやると、なんと、巨大な豚の丸焼きがどん、と鎮座していた。


 いや、よく見れば豚ではない。


 なんだろう。豚に良く似てはいるけれど、背中に羽みたいなのがついている。


「これは?」


「ブヒブーヒという生き物だそうですよ」


「……なにそれ」


「私も初めて見ましたので調理法が良くわからなくて……とりあえず焼いてみました」


 とりあえず丸焼きって。繊細そうな外見の割りに、男らしい豪胆さを併せ持つ椿姫らしい、豪快な調理法だ。


 でも丸焼きにされたブヒブーヒは、香ばしい匂いでとてもおいしそうだ。


「卵も無料で手に入りましたので、かに玉にしてみましたよ」


 ブヒブーヒの丸焼きの隣に、更に大きな皿に大量のかに玉がどん、と置かれた。その横には普通の卵の3倍はありそうなゆで卵が乗った山盛りの野菜サラダと、生春巻きらしきものも並ぶ。


「今日は中華か。おいしそうだな」


 椅子に座ると、椿姫が白いご飯を装ってくれた。


「今日もお仕事お疲れ様でした」


 良く冷えたビールをかわいい妻に注いでもらうことに幸福感を噛み締め、互いに今日の出来事を報告しあう。


 すると、妻が摩訶不思議なことを言い出した。


「今日ゴミを出しに行きましたら、異世界に召還されたのです」


「異世界?」


 はてな? と首を傾げる。


 椿姫は時々意味不明な喩え方をするから、これもそうなのだろうと話を促す。


「そこには魔王に捕らわれた王子様がいまして、私、王子様と一緒に魔王と戦ってきたんですよ」


「魔王ってのはどんなのだ?」


「そうですねぇ……全身真っ黒でしたね」


 全身真っ黒でゴミ置き場に出現するヤツ。


 ……そうか、ゴキブリだな! ゴキブリと戦ってきたのか、妻よ!


 男勝りで豪胆なところのある椿姫だけれど、彼女は虫が大嫌いだ。クモやらゴキブリを見ると「きゃー」と悲鳴を上げるんだ。そして俺に助けを求めてくるんだ。実を言うと俺も虫は大嫌いだが、かわいい妻に頼られたら情けない姿なんて見せられない。


 退治した後に「高臣さん、大好き」と言ってくれる椿姫の笑顔がかわいいから、頑張っちゃうよ、俺。


 

 そうか、大嫌いなゴキブリの名前を口にするのも嫌だから『魔王』などと。


 ふむふむ、理解したぞ。


「すると王子様はなんだろうな?」


「魔法の国の王子様だそうですよ。とても綺麗な方でしたけれど、ちょっとヘタレでしたねぇ。いざというときに魔法が使えなくて、本当に役立たずでした」


「魔法……ふむ、魔法?」


 魔法とはなんの喩えだろう。


 殺虫剤のことか?


 殺虫剤がうまく噴霧出来なくて役立たずだったのか?


「でも不思議なことに、異世界人補正とでも言うのでしょうか。私、とっても強かったんです」


「ほう?」


「なんと、持っていたゴミ袋が核爆弾のような威力を発揮したのです」


「ゴミ袋が核爆弾!?」


 そりゃゴキブリからすればゴミ袋は巨大だろうな、うん。


「おかげでうまいこと牢を脱出することが出来ました。そこから私は、爆発の影響で白目を剥いてしまった王子様を担いでスタコラサッサと逃げたのです」


「頑張ったんだな……」


「はい。でもそこに、魔王が手下を引き連れて大勢現れたのです」


「それは怖かっただろう。大丈夫だったのか?」


「はい。もうひとつのゴミ袋をえいと投げましたら、大半は吹き飛びました」


 生ゴミの圧力に屈したんだな。ふむふむ。


 頷きながら椿姫の話を神妙な面持ちで聞く。


「でも魔王はとても強くてですね。多彩な攻撃を繰り出してきたのです。特に空中からの攻撃は強力でした」


「ああ、飛ばれるとビックリするもんな。あれは心臓に悪いな」


「ええ、その通りです。ビックリするくらい速くて。私ももうこれまでかと、一瞬心の中で遺書を書きましたよ」


「そこまで追い詰められたのか!」


「ええ。でも諦めませんでした。無事に帰って高臣さんの顔を見るまでは死ねませんから」


 胸に迫る言葉だ。


 思わずテーブルの上に置かれていた椿姫の手を取り、この細くて小さな手で大嫌いな虫と戦ってきたのか……と愛しく思った。


 そこで椿姫が首を捻る。


「高臣さん。鳥のように飛ぶにはどうしたら良いのでしょう」


「は?」


 また急に話が変わったな。


「何度やってもスペースシャトルの打ち上げのようになってしまって。鳥のように自由に空を飛びたいのですが」


 今度は何の話だろう。


 よく分からんが、空の飛び方について少し考えてみる。


「そうだな、揚力が必要だと思うけど。飛行機が飛ぶときみたいに、機体の下よりも上の方の空気の流れを速くすると上向きの力が生まれると思う」


「つまり、風の流れを体の上下で変えなければならないと」


「そういうことかな。難しいことはちゃんと調べてみないと分からないけど」


「成程、そういうことでしたか。流石は高臣さんです。物知りですね」


 椿姫がキラキラした目で俺を見ている。むふふ、ちょっとだけ自尊心が満たされた。


「それで、魔王はどうなったんだ?」


 ズレた話の軌道を戻してやると、椿姫はポン、と手を叩いた。


「ええ、大丈夫です。魔王には見事打ち勝ちましたよ。そして王子の城にいた兵士たちに出迎えられました」


「兵士?」


 それはなんのことだろう?


 ゴキブリを退治すると言えば……害虫駆除の業者か!


「それは頼もしい仲間がいたものだな」


「ええ。私もほっとしましたよ。王子も目を覚まして復活しましたしね」


 おお、殺虫剤復活したのか。良かったな!


「そういうわけで、王子様を救出した御礼に、この食料や宝石をいただいてきたのです」


「そうだったのか……よく頑張ったな」


 妻の苦労話に涙を零しそうになりながら、テーブルの上のご馳走、そして椿姫が立ち上がって持ってきた小物入れにゴロゴロ入った宝石たちを眺めた。


 やけに珍しい食材ばかりだけど、班長の香川さんの奥さんあたりに頂いたものだろうか。ゴミ集積所の掃除を取り仕切っているのは班長だからな。その手伝いをして、これを頂いてきたのか。


 旦那さん、この間ブラジル支社に出張に行ってたらしいし、きっとそっちで採れる食材なんだろう。


 宝石はレプリカだとは思うけど、香川さん、太っ腹だな。さすがは紫のガウンで外を歩ける度量の持ち主だ。


「それで、高臣さん。少し相談があるのです」


「なんだい?」


「私、パートに出ようと思うのです」


「魔王の話から何故にその話へ!?」


「ええ……その魔王がですね、まだ魔法の国を狙っているらしいのです」


「ああ、そりゃ……生命力の強いヤツラだからなぁ……簡単には倒れないよな」


「良くご存知ですね、さすが高臣さん。そういうわけで、私、王子様と一緒に魔王退治をしようと思いまして」


 ゴキブリ退治を!? なんでまたそんな嫌いな生き物と戦うことにしたんだ!


 驚いて目を丸くしていると、妻はいつもの静かな口調で説明を始めた。


「とても時給がいいのです」


 ……な、なるほど。確かに、害虫駆除なんて大変そうだもんな。その分給料もいいのかもしれないが……。


「……どれくらい働きたいんだ?」


「高臣さんがお仕事に行った後から出勤しまして、遅くても3時までには帰らせていただこうと思っています」


「椿姫はそこで働きたいのか?」


「そうですね……今後のことを考えますと、収入は多いほうが良いかと思っています。これから新しい家族が増えたりしますと、食費なんかも増えますし。もしかしたら引越しも考えないといけないかもしれませんしね。それに、高臣さん、車を欲しがっていましたよね。私が働けば、少しは足しになるでしょうから」


「なんと……俺のことも考えて……」


 じーん、と胸が熱くなる。


 そうだな……。


 2人だけだったら俺の給料だけでやっていけるけど、これから家族が増えるわけだし。貯蓄額を増やすのはいいことだよな。


 それに、椿姫も家の中ばかりにいたのでは息が詰まるだろうし。車があれば出かける範囲も広がりそうだしな。うん、ちょっとワクワクしてきた。


「分かった。椿姫がそうしたいのなら反対はしないよ」


「ありがとうございます」


「でも相手は魔王なんだろう? 無理しないで、駄目だと思ったら他の人に任せるんだよ?」


「ええ、分かりました。高臣さん、ありがとうございます。私、ちゃんと元気にこの家に帰ってきますからね……」


 にっこりと愛らしく微笑む妻に、俺は胸きゅん。


 ちゃんと未来のことを見据え、そして俺のことも考えてくれる優しい妻への愛が膨れ上がる!


「じゃあさっそく、新しい家族を増やすかあああー!」


 と、テーブルを乗り越えて妻に飛びかかろうとしたら。


 中高一本拳が頬を鋭く抉り、俺の体は真後ろに吹っ飛んだ。


「あらあら、いけませんよ。まだ食事中ですからね」


 相変わらずキレのあるいいパンチを浴びせた妻は、床に転がる俺に「冷めないうちに食べてくださいね」と優しく声をかけてくれた。


 俺は一日に何度拳やら蹴りやらを受け止めればいいのだろうか。


 でもいいんだ。だってこれも椿姫の愛情なんだから。


 床に転がりながら彼女を見上げると、椿姫はパッと俺から視線を外した。その横顔を見て思わず笑みが漏れる。


 黒髪をかけた耳が、愛らしく桃色に染まっていた。




 



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