若奥様と主婦の使命
困った王子こと、アルヴィン王子ががなり立てるのを耳を塞いで聞き流していると、足元からカサカサと音がしました。
その音がした方へ視線を落として、私は全身から血の気が引いていくのを感じました。
「ご!」
「は? ご?」
「ご! ご、がっ!」
「何が言いたい?」
怪訝そうな顔をする王子の袖を引っ張り、地面を指差します。
王子が描いた魔法陣みたいなものの光の上を、黒くて小さなものがカサカサと歩いていきます。そのまま牢屋を抜け出して行けば良いものを、あろうことかヤツは私たちの方へと戻ってきたのです。
ざわり、と全身が粟立ちました。
「ごおおおおおおおお!!!!!!」
地の底から響くような雄たけびを上げ、私は足元の『ご』に抑えきれない殺意を向けました。
黒くて、てろてろしていて、言葉で表現するのも恐ろしい生き物。
私の最大の敵。
いつもならば高臣さんに助けを求めるのですが、彼は出勤中。ここは私が戦わなければならない場面です。
……いいでしょう。相手になりますよ。
そのまま逃げていけば手を出さないでいたものを。
向かってくるというのなら、返り討ちにするまでです!
「駆逐!!!!!!」
右手に持っていた半透明な黄色い袋を思い切り振り上げ、風切り音を鳴らしながら宿敵に向かって叩きつけました。
この世から消え失せろと、心の底から叫びました。
けれどもまさか、ゴミ袋が爆発するとは微塵も思っていませんでした。
そうなのです。私がゴミ袋を地面に叩き付けた瞬間、耳を劈く破裂音とともに、閃光が散ったのです。
体を吹き飛ばす衝撃に、腕を掲げて交差させながら耐えます。
牢屋の鉄格子がひしゃげて吹き飛び、ゴツゴツとした岩壁にも穴が空き、天井も崩れながら飛んでいきます。
「ごぶああああっ!?」
凄まじい爆風が吹き荒れる中、どこからか王子の間抜けな声がしました。助けてと聞こえた気もしますが、私はそれどころではありません。爆風によって短いワンピースが勢い良く捲れ、中が丸見えになってしまったからです。私は必死にスカートを抑えました。
近くに男性がいるのにこんな現象。
高臣さんが知ったら心配するではありませんか。
けれどもその心配も杞憂だったようです。
爆風が収まり辺りを見回すと、そこは瓦礫の山と化していました。その山の上で金髪碧眼の王子様が白目を剥いて倒れていました。どうやら意識はないようです。良かった、下着は見られずに済んだようですね。
ほっと一息ついて、自分の体に異変がないか確認してみます。
ゴミ袋を持っていた私は、体がバラバラになってもおかしくない距離にいました。けれども私には傷一つついていませんでした。服が破れたりもしていません。何故でしょう。
でも城を吹き飛ばすほどの爆発です。きっとあの黒い生き物も滅したに違いありません。ついでに王子も吹き飛ばしてしまったようですが。
……そうすると王子が倒れたのは私のせいでしょうか。
勇者とか召喚とか訳の分からないことを言っていますが、さすがに私のせいで倒れたというならば放っておけません。
「王子、王子、大丈夫ですか」
瓦礫の山をよじ登って王子の元へ行き、軽く頬を叩いてみます。
小さく呻き声を上げて、王子が薄っすらと目を開きました。それからゆっくりと視線を巡らせ、私で止めました。
「おお、勇者……」
「九条椿姫です」
「凄い爆発だった。破滅の魔法を使ったのか」
私の名前などどうでもいいように、王子は話を進めます。まあ私も王子の名前などどうでもいいのでお相子でしょうか。
「魔法など使っていませんよ。ただこのゴミ袋を投げただけです」
「……恐ろしい兵器だな。防御魔法をかけたこの服でなければ体が消し炭になっていたところだ」
顔を顰めながら王子は身を起こしました。しかし糸が切れた人形のように、すぐに瓦礫に身を沈めました。
「どこか痛みますか」
「あの爆発に巻き込まれて痛まない場所などあるか。……全身だ」
「それはすみません。……私は無傷のようなのですが」
「ふむ……。見たところ、その服にはかなり強力な防御魔法がかけてあるから、そのおかげじゃないのか」
「このなんの変哲もないワンピースとエプロンに防御魔法ですか。そんなものをかけた覚えはないのですが」
「ふん、国一番の魔法使いであるこの俺が召喚した勇者だぞ。それくらいの装備はついているだろう」
「つまり、貴方は有能な魔法使いであると。この私をチートキャラにするほどの」
「チート? なんだかよく分からんが、そういうことだ」
「そうですか。では何故、私を召喚する前にご自分でなんとかしなかったのですか。それほど有能な魔法使いならば、ここから脱出することなど容易かったのではないですか?」
そう言うと、王子は黙ってしまいました。
暗雲の下に吹く冷たい風にしばらく吹かれていると、王子がモゴモゴと喋りだしました。
「だって、攻撃魔法使うの、怖いし……一人でいるの寂しいし……」
「つまりお名前の通りにヘタレだということですね」
「煩い! ヘタレがなんだかよく分からんが、馬鹿にしているのは分かるぞ!」
「呆れているだけですけれどね」
「もういいから早く俺を城に帰せ! でないとお前も帰れないからな!」
そう言われて、私は改めて気付きました。
ここはどう見ても日本ではありません。いわゆる『異世界』というところなのでしょう。そこの王子様を城に帰すために私は召喚されたわけです。
8時10分前くらいに、ゴミ集積所から。
「──今、何時ですか」
「は?」
「今日の私の予定では、8時15分からMHKの『カラちゃん』を観て、家の掃除と洗濯物を干してから……スーパーで特売の卵2パックを買いに行かねばならないのです。開店と同時に突撃しなければ売り切れてしまうではありませんか」
「な、なに? 卵?」
「そうですよ、1パック98円なのです。今日限りでお一人様2パックまで、無くなり次第終了です」
「この非常時に何を言っているのだ。そんなものより、俺を無事に城へ帰すことの方が重要だろう」
「そんなもの? そんなものとはなんですか」
私は王子の胸倉を掴み、ぐっと顔を寄せました。
「貴方は家計を預かる主婦を舐めているのですか。住宅ローンや保険料や光熱費に消えていく給料から貯蓄する分を捻出するために、私がどれだけ苦労して生活費を遣り繰りしていると思っているのです? 一人で家族を養ってくれている夫にひもじい思いをさせないよう、どれだけ安い食材で満足させられるか、栄養が偏らないように出来るか、考えてみたことはありますか」
「い、いや、ない、な。俺は王子だからな……」
「だから分からないのですね、98円の卵の価値が。貴方の命などよりよほど大事だというのに」
「それはちょっと言い過ぎじゃないのか、俺は一国の王子……」
「王子より卵なのです、私には。王子より高臣さんの胃袋が大事なのです。貴方は庶民の生活よりもご自分の命の方が大事だというのですか? 国を護る立場である一国の王子が聞いて呆れますね」
「なっ、そんっ……」
王子は反論しかけましたが、しかし黙りました。
何か思うところがあるのでしょうか。ぐっと口を噤み、眉間に皺を刻み、しばらく無言になります。それから、硝子玉のように綺麗な相貌で私をジッと見つめた後、静かに目を閉じました。
「……そうだな。俺は、民を護るべき王族の一人。民の生活をないがしろにしてはいけなかった」
溜息とともに漏らされた反省の言葉。
一庶民の言葉を受け入れることが出来るこの方は、ただ怒鳴るだけの愚かな王子ではないようです。
「分かっていただけたようで何よりです。では今すぐに私を元の世界へ返してください。卵を買いに行きます」
そう言うと、王子は私から視線を逸らし、申し訳なさそうに静かな声で言いました。
「いや、それは無理なのだ、召喚するときの契約に、俺を城まで帰すようにと組み込んでいるから……」
「貴方を城へ帰すまでは私も家に帰れないと?」
「そうだ」
「そこまではどのくらいかかるのですか」
「馬で大体三日ほどか?」
「三日!」
新婚の若奥様に、連絡もなしに三日も家を空けさせる気ですか、この方は。そんなことをしたら高臣さんが心配して警察に捜索願を出したり、双方の実家に連絡したり、ご近所を駆け回ったりして、それでも見つからない私を思いながら病に伏してしまうではありませんか。
そんなことを想像したら、沸々と怒りが湧き上がってきました。
王国随一の魔法使いである王子は、一人で牢から脱出することが可能であったにも関わらず、攻撃魔法を使うのを怖がり、なおかつ一人で逃げることに不安と寂しさを感じて勇者を召喚しました。つまり自分の我侭に見ず知らずの他人、しかも異世界で平和に暮らしていた普通の主婦であるこの私を巻き込んだのです。
これは初対面だからと遠慮する必要のない事態ですよね。
「王子、貴方は魔法使いなのですから、ちょちょいとテレポートで城まで戻るとか出来ないのですか」
「そのような魔法は存在しない」
「存在しなくてもなんとかしてください」
「ぐえっ、やめろ、喉仏を押さえつけるなっ」
「ここを押すと痛苦しいのは高臣さんで実証済みです。ほらほら、早く私を帰さないと潰れてしまいますよ。貴方は高名な魔法使いなのですからやれば出来るでしょう」
「だからそれは無理だとっ……ぐ、ぐえ、お前は魔王より恐ろしい勇者だな! 高臣とやらが憐れだ!」
王子の発言にむっとしたので、喉仏をぐぐっと押し込んでやろうとしました。
けれどもそれは出来ませんでした。
背後から物凄い殺気を感じたのです。
私は振り返るより早く、王子の首根っこを掴んでその場を飛び退りました。瓦礫の山をひと蹴りしただけで10メートルくらいは跳べましたよ。ちょっとビックリです。左手にゴミ袋、右手に王子を持っているのに、ほとんど重みも感じません。あらあら、一体私の体に何が起きたのでしょう。これも王子の能力の高さ故ですか。
瓦礫の上を滑るように着地するのとほぼ同時に、今までいた場所に赤黒い禍々しい色をした光が飛んできて、瓦礫の山を粉砕してしまいました。
私の長い黒髪と短いワンピースの裾が爆風に靡きます。
危なかったです。あのままあそこにいたら、私と王子も吹き飛んでいたでしょう。
「一体、何が……」
「ま、魔王!」
王子が真っ青になって叫びました。
生まれたての小鹿のように震える王子が見据える先には、頭からすっぽりと黒いローブで身を包んでいる人がいました。更に全身が真っ黒な陽炎に覆われています。こちらに突き出された右手には、その陽炎が大量に集まっていました。あれは今飛んできた赤黒い光線の元でしょうか。そんな気がします。
なんだか胸が重苦しい。
胸の奥の方で、冷たいものがチリチリと燻っているような感じがします。
「あれが、魔王ですか」
「ああ、魔王だ。まずいぞ勇者、あれは強い」
「そのようですね」
見るからに危ないですよ、あの方。
あんな方と一戦交えるなど御免被ります。
「逃げましょう」
私は王子の首根っこを掴み、勢い良く走り出しました。ここでも勇者特典が発揮されまして、百獣の王もびっくりの速さで瓦礫の山を飛び越えながら走りました。
「いてっ、いてっ、こら勇者! お前は王子である俺をないがしろにし過ぎだ!」
首根っこを掴んで走っていたので、王子は体の前面を瓦礫にぶつけながら引き摺られていました。
「……そうですね、申し訳ありません」
私は素早く王子を背負いました。けれども如何せん、私の身長に王子の身長は有り余ってしまいます。顔は上げられないし、無駄に長い手足が邪魔で走りにくいのです。
ですから私は、王子を姫抱っこすることにしました。
幸い勇者特典で力もついていますし、問題ないですね。
「……こ、これはこれで……なんか、俺のプライドが傷つくんだが……」
「文句があるなら降りてください。置いていきますよ」
「すまん、よろしく頼む」
王子は私の首にしっかり腕を回してしがみつきました。
その後ろからは魔王ではなく、手下の狼さんたちが追ってきます。後ろからだけでなく、左右からもやってきています。相当な数です。魔王にはたくさんの部下がいるのですね。
「回り込まれるぞ!」
王子の声に、私も周囲を確認します。このまま全速力で駆け抜けても囲まれそうですね。
ならば。
私は左手に持っていたもうひとつゴミ袋を、えいやっと後方へ投げ捨てました。
びゅーんと勢い良く飛んでいったゴミ袋は、手下たちの足元に着弾、大爆発を起こしました。
「き、きのこ雲……」
私の首にしがみつく王子がぶるりと震えました。
ゴミ袋は核爆弾並みの威力だったようです。