若奥様とご近所さん
私は閑静な住宅街をてくてく歩きます。
この辺りは新興住宅地で、似たような感じの家が並んでいます。我が家は2LDKの一番コンパクトなタイプですが、お宅によっては間取りも広さも違うのでしょうね。でもうちはこの広さで十分です。
将来は子どもを二人作る家族計画を立てているので、建売でこの家を購入しました。
四人家族に2LDKでは手狭ではないのか、とお思いになるかもしれませんが、そこは大丈夫です。私たちが今寝室として使っている部屋の、階段を挟んで隣の部屋は大部屋で、真ん中に間仕切りをつけられるようになっていますからね。
小さいうちは同じ部屋の方が寂しくないでしょうけれど、大きくなればプライベートな空間も欲しくなるだろうと配慮しての選択です。早く元気な子どもたちがあの部屋で遊ぶ姿を見てみたいものですねぇ。
もし二人以上出来たら?
うーん、その可能性を考えると、私も専業主婦としてのんびりはしていられないでしょうか。
貴臣さんが、家に帰ったら嫁がご飯を作って待っていて、笑顔で出迎えてくれるのが理想だと言っていたので仕事を辞めた私ですが。将来を考えると早計だったかもしれませんねぇ。これは計画の練り直しでしょうか。今日貴臣さんが帰ってきたら相談してみましょう。
それにしても良い天気です。あちこちで桜が満開に咲き誇り、街中が桃色に霞んで見えます。爽やかに吹き渡る風も、心なしかほんのりと甘い香りがするような。
「はっくしゅん!」
香りを嗅ごうと勢い良く空気を吸い込んだら、鼻がむずむずしてきました。
あら、いけません。風は花の香りだけでなく、余計なものまで運んできたようです。これでは涙と鼻水が出てしまいます。だってヒノキ花粉症だもの。
膨れ上がる涙を指先で拭おうとしましたが、私は今、両手がゴミ袋で塞がっているのでした。頭をぶん、ぶん、と振って、風に涙を攫ってもらうことにします。
「はあっくしゅん!」
あっ、いけません。風に涙は攫ってもらえましたが、代わりに花粉を目と鼻に大量に取り込んでしまいました。早く家に帰ってうがい手洗い目洗いをしなければ。
私は少し急ぎ足で、住宅街の細い道をてくてく歩きます。
もうすぐゴミ置き場というところで、ちょうど集積所から引き返してきた二軒隣の香川さんの奥様に出会いました。
「あーら奥さん、おはようございますぅ」
おほほ、と香川さんの奥様はにこやかに挨拶をしてくださいました。
奥様はカーラーを巻いた髪にネットを被り、紫色のシルクガウンを羽織った素敵な出で立ちでした。
「おはようございます、奥様。良い天気ですね」
私もうふふ、と微笑みながら挨拶をしました。鼻がむず痒くて、少しヒクヒクさせてしまいました。
「本当に。洗濯物が良く乾きそうねぇ。そうそう、さっきお宅のご主人とすれ違ったわよぅ」
「そうでしたか」
「いつ見ても爽やかで素敵よねぇ。あんなイケメンと毎日いられて幸せでしょお?」
「いえいえ、奥様の旦那様だって素敵ナイスガイじゃありませんか」
「やぁーねぇ。うちも昔はイケメンの類だったかもしれないけど、今じゃポンポコリンのツルッパゲよお~っほほほほほ!」
「パートナーの重ねる歳月を間近でずっと見守れるなんて、そんな幸せなことはありませんよ。私も奥様を見習って、出来るだけ長い間主人を見守れるよう、頑張りますね」
「おほほほ、長い間一緒にいたって、喧嘩ばかりじゃあねぇ。お宅はいつも仲が良くて羨ましいわぁ。うちも新婚時代はラブラブだったんだけどねぇ」
「今も仲良しじゃありませんか。先日、お庭で一緒にゲートボールをなさっていましたよね」
「あらやだ、見てたのぉ? 私下手で恥ずかしいわぁ!」
「いえいえ。ナイスホームランでしたよ」
「おほほほ、思わず力が入ってしまってぇ」
香川さんの奥様は、右手をカクカクさせながら笑いました。
そのまま少し香川さんの奥様と立ち話をした後、それじゃまた、と頭を下げて、更にてくてく歩きます。
そうして住宅街の真ん中にある公園前に設置された、ゴミ集積所に到着しました。
ここのゴミ置き場はスチール製で扉つきの大きな形状なので、烏に狙われることもなく、お掃除も楽なので助かっています。
その扉を開けて、ゴミ袋二つを投げ込めばゴミ出し完了。
……の、はずだったのですが。
集積所の扉を開けた途端、なにやら爽やかな風が吹き抜けていきました。春の優しいお日様に照らされた、綺麗なお花畑の中にいるような甘い香りの風です。
目の前の公園をぐるりと囲むように桜の木がありますから、甘くて爽やかな風が吹くこと事態は別段おかしなことではありません。
ですが、その風が吹き抜けたところから、何やら景色が歪んで見えるようになったのです。スチール製のゴミ置き場が、ぐにゃぐにゃと波打って見えます。
おかしいですね。また目に涙が溜まってしまったのでしょうか。擦ろうにも私の両手は塞がっていますから、何度も瞬きをしてみました。それでも歪みは治りません。それどころか、だんだんと景色が暗転していくのです。あら、どうしたのでしょう、私。
更に体が前方に引っ張られるような感覚がしたので、ぐっと足を踏ん張りました。立ちくらみか貧血かもしれません。私はしばらく目を閉じたままじっとしていたのですが……足元の感覚がふっと無くなり、体が前のめりに倒れていきました。
ゴミ袋を両手に持っている私は、このままだとスチール製のゴミ集積所に顔から突っ込むことになります。鼻血程度で済めばいいのですが、貴臣さんが私だと分からないくらいに顔が歪んでしまったらどうしましょう。
そんな恐ろしい危機感を覚えた瞬間、ぽふっと柔らかな感触が顔や体に伝わってきました。どうやら誰かに支えてもらえたようです。
私は助けてくださった方にお礼をしようと、目を開けて顔を上げました。
私を助けてくださったのは、サラサラ金髪碧眼の王子様風美少年でした。
……おや?
私の目はまたおかしなことになっているのでしょうか。何度か瞬きを繰り返し、目を万全の状態にします。そして、もう一度顔を上げて助けてくださった方の顔を確認しました。
私を助けてくださったのは、サラサラ金髪碧眼の王子様風美少年でした。
……間違いありません。私を助けてくださったのは、サラサラ金髪碧眼の王子様風美少年です。それはもう文句のつけようのない、硝子玉のように綺麗な瞳とご尊顔の持ち主でした。