演劇系男子と本気系男……子?
帰宅した俺は自室にて。
部屋着に着替えてからすぐにメイクセットの整理から始める。昨日使った後にちゃんと整頓もしたが、それでも習慣になってしまっているらしい。意味が無くともやってしまう。
黒いハードボックス。上半分が縦に割れるようにして開く仕組みで、蓋となっていた部分と連携して階段のような収納スペースが飛び出してくる。三十色のファンデーションケースを開けて中身を確認。肌色の消費が最も激しいのは当然だが、他にも黒や白、赤や青も結構減っている。演劇では結構使うのだ。
当然、このメイクセットは演劇用のものである。俺が趣味で使っているわけではない。
しかし演劇では女役ばかりやるのだから、女としてのメイクもやっている。むしろ男メイクをする事なんて殆ど無く、男用メイクのほうが趣味と言える。元来の性別から考えるとおかしな話である。
ふと、ハンガーに吊るしてある制服のポケットから音楽が鳴り出した。どうやら携帯を入れたままにしていたらしい。
メイクセットの整理を切り上げて立ち上がり、携帯を取り出す。通話の相手は安達先輩だ。
「もしもし」
そういえば彼女に聞かなければならない事があった。
『もっしもーし。今度こそプレゼントは受け取ったかにゃー?』
陽気なテンションの安達先輩。ああ最悪のプレゼントでしたよあんなハプニングを生み出してしまうぐらいですから。とは言わないでおいた。
「受け取りましたよ。しっかり」
『ちゃんと着たかにゃー?』
コスプレ衣装なのだから着るのが自然なのかもしれないが、あんなハプニングの後ですぐに着ようとは思えない。勿論だが着ていない。
「今は俺のベッドの上です」
『あらら? え、コスプレ衣装とベッドイン? ちょ、流石に無機質相手に欲情するのはどうかと思うよ……』
「俺はあんたの思考回路がどうかと思うよ……」
無機質相手に欲情云々より、ベッドの上と言っただけでベッドインという単語が出てくるなんて……。
『和訳上、ベッドインっていう単語だけで下ネタだと思う君もなかなかに危ない思考回路だと思うけどねー』
確かに、と一瞬思ったものの、そのツッコミはあまりにも理不尽だとすぐに気付いた。
「要らん誘導しないで下さい」
『ぬははー、優秀な指導者とは下々に真意を悟らせずして改政を行なう事も出来なくてはならんのだよ』
「政治の話は今はしてないです」
安達先輩があまりにも自由過ぎて溜息が出た。
「そんなことより、なんなんです、あれ」
どうしてプレゼントでコスプレ衣装? どう考えたって不自然だ。
しかし安達先輩はその質問の意図を汲み取ってくれなかったらしい。
『なにって……マジカルミリタリー略してマジミリで主人公が着てる制服だけど?』
「まじみ、え、なんですかそれ?」
『月曜の深夜二時に絶賛放送中のアニメだけど、知らないのかい?』
「知りませんが……ああ、なるほど」
その深夜アニメのコスプレ衣装だと言いたいわけですねこの先輩は。
「それで、なんでそんなアニメのコスを俺に?」
『いんやー、その主人公がかっこいいのなんのって、そりゃもう学校に潜入してきたスパイだの敵だのを、学生でありながらチート的な強さでばったばったとなぎ倒していくわけだけど』
いや、え、なんの話? 会話が通じてなくないか?
『その主人公も実は他の国からのスパイでさー。不本意ながらも仲良くなってしまったクラスメート達を裏切るのか、っていう葛藤を抱くところなんてもう生まれたての小鹿のように震えたわけだけど!』
うん、通じてないね。会話が成り立ってないね。まあ、いつもの事なんだけどな、安達先輩に限っては。
『そんな葛藤を乗り越えた時の主人公はチートを越えたチートでもって祖国のほうを裏切って――』
「うん、ミニマニの話はもういいですから」『ミニマニじゃないけど! なにその一昔前のアイドルグループみたいな名前!』「で、なんでコスプレの衣装を俺にくれるんですか?」
問い直す。また話が逸れるようなら何回だって言い直してやる。
『だからさ、言ってるでしょ。その主人公がかっこいいんだって。男らしくて』
「…………はい?」
『男らしくなりたいんでしょ? ならなっちゃいなよ。まずは格好からでも』
その発想は斜め下過ぎる気がしたものの、俺はこれでも演劇を愛している人間の端くれだ。彼女の言い分がわからないわけでもなかった。
『変わりたい。でも変わるきっかけが無い。なら、きっかけを作っちゃえばいいのさ』
演説でもするかのような口調で言う安達先輩。自分では名言を言ったつもりなのかもしれないが、そのきっかけがコスプレというのはいささか病的ではないかと思った。
『男らしいアニメキャラになりきって、男というものを学ぶのさ!』
きっと彼女は、今、運命の瞬間に立ち会っているかのような気分でいることだろう。何かが変わる瞬間に遭遇した。そんな奇跡を感じているのかもしれない。そう思える程に興奮した口調だった。
だから俺は答えるのだ。
相手に表情は伝わらない事を知りつつ、それでもあふれ出る笑みを言葉に乗せて。
「――いやです」
通話を切った。いやね、だって、アニメを参考にしたらリアルに破綻しそうじゃないですか。
さて、では、メイクセットの整理を再開するとしますか。
翌日になってようやく気付いたのだが、一昨日帰宅中にぶつかり、昨日の放課後にコスプレ事件を引き起こした女子は、俺の隣の席だった。なんなのこれ運命なの? などという冗談じみた苦笑が思わず漏れ出て、放課後になるまでその苦味は口内を跋扈していた。
何度か目が合って、睨まれ、俺が溜息を吐くと、そいつは赤面して顔を逸らす。延々とその繰り返しで息が詰まった。これからずっとこんな生活が続くのなら学校を休もうかとさえ思える。
それでも学校が永久に続くわけでも無し。物事には終わりがあるのが自然の摂理である以上、放課後は訪れる。俺はすぐさま立ち上がり、帰路に着いた。
その帰路の途中。乗り込んだバスでの話だ。再びあの女子と遭遇した。
はたと目が合い、また睨まれる。呆れて嘆息。赤面。今日だけで何度目か解らない、視線だけのやり取り。しかし言葉は交わされない。
バスが動き出すと、そいつはすぐに、こくりこくりと船をこぎ始めた。下手糞な厚化粧をした女子高生がバスの中で眠っている、となるとなかなかにシュールな絵面だが、気になるのは彼女を起こす者が居ないということだ。
一昨日、彼女が降りたバス停に着いても彼女は起きなかった。起こしてやろうか、という考えが生まれなかったわけではないが、昨日あんなやりとりがあったのだから、気安く声を掛ける事は出来ない。
彼女を乗せたまま進むバス。そしてついに終点まで起きなかったそいつに、運転手が声を掛けた。「お客さん、終点だよ」なんともありきたりな台詞である。
運転手に声を掛けられてようやく目を擦ったそいつを、横目に確認しながらバスを降りる。これでもう、完全に俺とは無関係になった。
今日は稽古がある日だ。気合を入れつつ稽古場へ入ると、既に数人が中で待機していた。安達先輩もその中に居る。いつも思うのだが、あの人は俺と同じ高校に通っていて、同じ時間に学校が終わっているはずなのに、どうしていつも俺より早くここに来ているのだろうか。
入り口にて誰にでもなく挨拶すると、当たりのように全員から挨拶が帰ってくる。
俺は隅っこに移動して、いつも通り着替えを始める。その時だった。
「ねえ恵」
ワイシャツのボタンを外していたら声をかけられた。二十代前半にしか見えない、見た目は大学生くらいの女性だ。
「なんですか?」
沢野夢子。名前からして若そうであるが実年齢は二十代後半で、この劇団でよくヒロインを任されている人だ。
「恵そろそろ、更衣室使ったほうが良いんじゃない?」
言われて首を傾げてしまう。
この稽古場には確かに更衣室がふたつある。女性は必ず更衣室を使うのだが、男性はめんどくさがってその場で着替えることが多い。むしろそれが習慣とまでなっている。
「あー、そりゃ確かに」
同調してきたのは劇団のエース梶山さんだ。
さらに困惑する俺を他所に、沢野さんと梶山さんは顔を見合わせる。
「最近たまに、恵が男なんだって忘れそうになるもの」
「俺も俺も。隅っこで恵が着替えてる時思わず見ようとしちまうし」
「あんた、それは危ないわよ。ポルノ法ポルノ法」
「本当は男なんだからセーフだろ」
そういう事か、と溜息が漏れた。ぱっと見は女にしか見えないから、公衆の面前で着替えるな、と。
だが、納得しようと認めてはいけない意見である事は理解出来た。
男たるもの、体育の授業の時然り、人前でも平気で着替えられなければなるまい。男らしくありたいと願う俺からすれば、公衆の面前で着替えることもまた男らしさの顕れであり、やめるわけにはいかない事のひとつだ。
そうですねはいその通りですね、と適当な相槌を打ちながら着替えを進め、ジャージを着ようとしたその時。
「待つのだ、少、年!」
勢いよく発せられた言葉と共に、紙袋が飛んできた。不本意ながら顔面キャッチすると、投げつけてきた犯人であろう安達先輩が楽しげに言う。
「今日はジャージではなく、それを着て練習すべきだとは思わないか、少、年」
そして奪われる俺のジャージ(下)。
痛む鼻先を押さえながら紙袋を見ると、中身は昨日の軍服だった。
「……なんで持ってるんですか?」
とりあえず恥ずかしいため紙袋で隠せる限り下半身を隠す。まぁ、男だから問題は無い。問題は別にある。
この紙袋、俺の部屋に置いてあったはずですよ?
「言ったはずだけど、少年」
安達先輩は得意気な表情でもって親指を立てる。
「マジミスの主人公は、スパイだったと」
俺の部屋に潜入したってことでいいですかね。警察呼んでいいですかね。というかジャージを返してくれませんかね。
「不法侵入ですよ、安達先輩」
「大丈夫だ問題ない」
「問題しか見当たらないんですが……」
「もっと男らしくありたいとは思わないのか、少、年!」
「うぜぇよあんた、その口調結構うざい」
思わず本音が漏れてしまった。もういいよね、こんなうざうざモードな安達先輩に敬語とか要らないよな。ジャージも返してくれないし。
「お? これって、旧日本帝国軍のやつじゃね?」
紙袋の中を勝手に見ていた梶山さんが言った。
「違いますぜカジさん」興奮気味な安達先輩「それはマジカルミリタリー略してマジミリの主人公が着ている制服でっす」
「まじみ……、え、なんだって?」
おお、梶山さんも俺と同じ反応をした。
「主人公の難聴スキルキターーーーー!」
「沢野、こいつどうしたらいいと思う? 精神病院とか紹介したほうがいいか?」
「いいえ、今のやり取りを見た限りだと遊沙ちゃんは日本語を使いこなせていないみたいだから、とりあえず障害者の待遇がちゃんとしている小学校を紹介しましょう」
結構えぐい事を言い合っている梶山さんと沢野さん。
「まぁ遊沙の性癖なんてどうでもいいからよ」性癖?「男らしくなりたいのか? 恵は」
梶山さんに聞かれ、俺は言葉を失った。そういえばさっき安達先輩が暴走していた時に口走っていたな、と思い出す。あざとく聞かれてしまったようだ。
ふと、なんとも言いがたい空気が流れた。沢野さんも、その沈黙の原因を作った梶山さんも難しそうな顔をしている。
「そうなんですよー」喉が詰まっている俺の変わりに答えたのは安達先輩だった「男らしくなって、男役もやってみたいらしいです」
余計な事を、と思った。知られてまずいというわけではない。むしろこの劇団の人間は大抵、なんとなく察していただろう。俺が男役に憧れている事を。
しかし、それに対する返答だって、俺は察している。
「それは難しいんじゃないかしら?」
最初に答えたのは沢野さんで、梶山さんが続く。
「少年役なら可能性はあるとは思うが……」
解ってる。体系的にも声的にも、俺が男役を張れる要素などひとつも無い。なによりも父さんがそれを認めないだろう。幼い頃は子役として俺を育て、発育が悪い事を知ると女役へと方向転換。低身長を活かせるように、高い声を有効活用出来るように。そうやっておためごかしを用いて俺を女役として育ててきた父さん。
体系ばかりはどうしようも無い。ご飯を食べまくっても運動するからすぐに消化してしまうし、筋肉を付けすぎると身長が伸びにくくなるというからマッチョを目差すわけにもいかない。
体系を活かそうとする父さんを恨むのは筋が違う。
だから誰も恨めない。
やり場の無い感情。願いになりきれないささやかな祈り。その程度の悩みでしかない。
「始めるぞ」
稽古場に入ってきた父さんが言った瞬間、空気が変わる。緩やかだった雰囲気が一気に緊張して、これから戦闘でも始まるのではなかろうかという意思がそこら中に撒き散らされる。
「今日は、日曜にある本番用の通しだ。気合入れろよ」
はい、と威勢よく返事をして散開していく劇団員達。
俺は安達先輩のほうを見つめながら、硬直していた。
その手に持っているジャージは、いつになったら返してくれるのですか?
「疲れたああああ!」
練習が終わり、その場に倒れこむ梶山さん。その隣に座り込む俺。安達先輩は俺の正面で立ったままスポーツ飲料をがぶ飲みしていて、沢野さんは塗れたタオルを顔に貼り付けて仰向けになっている。
「前から思ってたんだけど、この台本、メインに負担が集中し過ぎじゃないかしら」
愚痴とは違うが、ぐったりとした口調で沢野さんが言うと、梶山さんは首がもげるのではと思うほど強く頷いた。しかし喋る体力が無いからか、何も言わない。変わりに俺が沢野さんのほうを見た。
「終盤に入ると、メインは走りっぱなしですからね」
登場人物は皆走るものの、メインメンバーは走るという表現では済まされない。狭いステージを縦横無尽に走り回りながら台詞を放つのだが、それが結構長いこと続く。
「あたしはラクなんすけどねー」
暢気な口調で安達先輩が言うと、
「そんな事を言ってるから、村人Aにされちゃうのよ」
沢野さんから嫌味を返されていた。確かに、負担が少ないことをラクだ、と言ってしまうのはどうかと俺も思った。
今回の演目。オリジナルの台本で、俺達の劇団の新作なのだが、俺はこの内容を結構気に入っている。
主な登場人物は四人。とある父親とその娘。父親に縁談を持ち込んできた金持ちと、父親に惚れている金持ちの娘。
父親は二十後半の年齢で、廃れた村で畑を耕す普通の男という設定。梶山さんが演じている。その父親に惚れた金持ちを沢野さんが演じており、金持ちのところの父親を俺の父さんが演じる。
そして村人の娘が俺だ。
娘の設定は十二歳くらいということになっており、低身長でなければ勤まらない。しかしこの劇団に少女役をこなせる体系の女性が居ない。殆ど皆グラマラスで背も高く、一番若い女性たる安達さんも、普通に見たら二十歳以上にしか見えない。
だからといって俺が少女だと? という不満が無いわけではない。
しかもこの少女、かなり少女少女しているのだ。
台詞回しもキャラもなにもかも、かなり幼く、純粋だ。なりきるのにかなり苦労する。
「何を言ってるんすか沢野さん。村人Aだからこそ、恵のロリを客観的に眺める事が出来るのですよ!」
とんでもないことをほざく安達先輩。あんたもうほんとになんなの……。
「はっ、何を言ってんだ遊沙!」いきなり復活して体を起こす梶山さん「んなもんな、本番の録画データを家でじっくり見たほうが良いに決まってんだろ!」
この人も何言ってんの……。いや、本番の反省をするために家で見るんですよね? それくらいなら皆やってるからね。
「でも確かに」ふと、沢野さんも身体を起こし、考える「恵のロリは可愛い」
「あ、俺もう帰りますね」
「まーゆっくりしていきなさいよ」
立ち上がったら沢野さんに止められた。
「やめて離して! 俺は人間だ俺を解放しろ!」
「悪くないパロディーだね!」楽しそうに親指を立てる安達さん。
「彼女は人間だ彼女を解放しろ、じゃなかったか?」冷静に言う梶山さん。
「もの○け姫ってないで、落ち着きなさいな。あと、恵がやるならア○タカじゃなくてサ○であるべきよ」と沢野さん。どうしてそんな盛り上がるんだ!?
……アシ○カが良かったな。あの人、超かっこいいし……。○ンもかっこいいですけどね?
「演劇好きがジ○リネタをやりたくなるってのはよくあることだが」納得するように言う梶山さん。いや、そんな頻繁には無いと思う……「名作を逃げの手段に使うのはよくねぇなぁ」
楽しそうだなこの人。なんでこんな笑ってんの?
ふと、ヘアピンをしたままであることに気付いた俺は、急いでそれを外した。汗に濡れた髪が顔にかかって不快ではあるものの、演技中でもない時の顔を見られたくないのだ。
俺の行動を不審に思ったのか、梶山さんは首を傾げる。そして数秒後に察したらしく、苦笑を浮かべた。
「シャイだねぇ、恵は」
「っつ……」
嫌味ではないのだと知りつつも、悔しさが込み上げてきた。
シャイであるつもりは無い。シャイであったら演劇なんて出来ない。
ただ、自分が好きじゃないだけだ。
誰だってひとつくらいはあるものだろう。いわゆるコンプレックスというもの。人並みの悩み、人並みの自己嫌悪。その程度のものでしかない。
「ま、いっか」
俺のせいで途切れてしまった会話を、改めて切りなおす梶山さん。
「じゃ、今日は帰るか」
その提案のおかげで、俺をいじろうとしていたのであろう三人は解散していった。
ようやく一息つくと、俺も、自分の部屋へと戻って行った。