第七話 怪物のカルテ
2014年、8月17日 午後9時。
海からの湿った風が、アスファルトの熱気を撫でていく夜だった。
「葛城リフォーム」の事務所。
シャッターを半分だけ下ろした薄暗い店内で、コーヒーの香りが漂っている。
カウンターの向こうで、一ノ瀬玲奈はマグカップを両手で包み込んでいた。
その指先は白く、微かに震えている。
「……笑っちゃうわよね」
彼女は自嘲気味に呟いた。
「昼間は『神隠し』の捜査を止められて、夜になったら『10年前の亡霊』が出てきた。警察って組織は、幽霊と政治家には勝てないみたい」
「……亡霊?」
俺は作業の手を止め、彼女を見た。
玲奈がわざわざその言葉を使う時、意味するものは一つしかない。
「『8月の吸血鬼』よ。……あのアパートの現場から、奴のDNAが出たの」
その名が出た瞬間、店内の空気が凍りついたようだった。
10年前の夏の記憶が脳裏を駆け巡る。
俺の幼馴染、北条美咲を理不尽に奪った、顔のない怪物。
俺がこの裏稼業を始めるきっかけとなった元凶だ。
「……間違いじゃないんですか。奴は10年前に消えたはずだ」
俺は極力、感情を押し殺して尋ねた。
ここで激情を見せれば、今の俺が「ただのリフォーム屋」ではないと悟られてしまう。
「科捜研の鑑定結果よ。被害者の血でも、ストーカー男の血でもない。第三者の血として検出されたわ」
玲奈は顔を上げ、俺の目をじっと見つめた。
その瞳には、恐怖と、それ以上に強い「執念」が宿っていた。
「葛城くん。私、怖いの」
「何がですか? 奴が戻ってきたことが?」
「ううん。……このDNAが『偶然』そこにあったわけじゃない気がするからよ」
ドキリとした。
「どういう意味ですか?」
「あのアパートの現場、あまりに作為的だった。まるで誰かが演出した舞台セットみたいに。もし、あの現場を作った人間が、意図的に『過去の亡霊』を呼び寄せたのだとしたら……美咲ちゃんの事件の裏にも、もっと深い闇があるのかもしれない」
彼女の勘は、恐ろしいほど核心に近づいている。
だが、決定的なピースが逆だ。
俺は呼び寄せたかったわけじゃない。俺自身が、知らずに「奴の血」を踏んでしまったのだ。
「……一ノ瀬さん」
俺はカウンター越しに身を乗り出し、かつての「戦友」として彼女に告げた。
「もし、そいつが実在するなら、捕まえるべきです。組織が動かなくても、あなたならできる」
「私が?」
「ええ。あなたは現場の『違和感』に気づける刑事だ。政治家や幽霊が相手でも、手錠をかけられるのは生きている人間だけです。……あの夏の続きを、終わらせてください」
それは、俺自身への戒めでもあった。
俺は彼女を励ますフリをして、自分に言い聞かせている。
『8月の吸血鬼』は幽霊じゃない。血を流し、医者にかかる、生身の人間だ。なら、殺せる。
「……そうね。ありがとう、目が覚めたわ」
玲奈は残りのコーヒーを飲み干し、力強く立ち上がった。
「私、もう一度アパートの周辺を洗ってみる。組織が動かないなら、単独でやるわ」
「気をつけて。相手は怪物だ」
「ええ。……葛城くんも、戸締まりはしっかりね」
彼女は微笑み、店を出て行った。
シャッターが閉まる音が、戦いのゴングのように響いた。
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同日、午後11時。
港湾地区、第4倉庫街。
錆びついたトタン屋根が連なるこの一帯は、夜になると地図から消える。
不法滞在者のコミュニティや、盗難車の解体ヤードがひしめくグレーゾーンだ。
俺は作業着を脱ぎ捨て、全身黒の服装に着替えていた。
腰にはピッキングツールと、護身用のスタンガン。
向かう先は、須藤から聞き出した「闇診療所」だ。
潮風に混じって、腐った魚とオイルの臭いがする。
教えられた場所は、廃業した船具店の奥にあった。
看板はない。ただ、ドアの隙間から微かな光が漏れている。
俺は周囲に人の気配がないことを確認し、ドアの前に立った。
鍵は旧式のシリンダー錠。
ピッキングツールを差し込み、テンションをかける。
カチャリ。5秒で開いた。
中に入ると、強烈な消毒液の臭いが鼻をついた。
待合室らしきスペースには、薄汚れたソファが一つ。
奥の診察室から、男の話し声が聞こえる。
「……だから、金は来月だと言ってるだろう!」
俺は音もなく近づき、カーテンを開けた。
そこには、白衣を黄ばませた中年男が、電話に向かって怒鳴っていた。
ヤブ医者だ。無精髭に、充血した目。
俺は背後から忍び寄り、男の首筋にスタンガンを押し当てた。
「なっ……!?」
「騒ぐな。通電するぞ」
バチバチ、と青白い火花を見せると、医者は両手を上げて硬直した。
「誰だお前! サツか!?」
「いいや。ただの患者の家族だ。……お前に聞きたいことがあって来た」
俺は電話を切らせ、男を回転椅子に座らせた。
「ここ一週間以内に、怪我人を治療したな? その際に出た廃棄血液を、業者に流したはずだ」
「し、知らねえよ! 患者なんて毎日来るんだ!」
「嘘をつけ。A型の血液だ。……そいつはどんな怪我をしていた?」
俺はスタンガンを男の喉元に突きつけた。
医者は震え上がり、脂汗を流した。
「……あ、あいつか。三日前の夜だ」
「どんな奴だ」
「フードを被ってて顔は見えなかった。……だが、傷が変だった」
医者は顔をしかめた。
「古い手術痕が開いてたんだ。腹のあたりだ。ナイフで刺されたとかじゃない。10年くらい前の古傷が、何かの拍子に裂けたような……」
「10年前……」
符合する。
奴は10年前、最後の犯行の後に姿を消した。その時、何らかの怪我を負っていた可能性がある。
「名前は? カルテはあるのか」
「名前なんか聞くかよ! ここはそういう場所だ。……ただ」
医者は引き出しを指差した。
「治療費の代わりに、あいつが置いていった物がある」
「なんだ?」
「金が足りなくてな。『質草』だと言って、これを置いていきやがった」
医者が取り出したのは、古びた銀色のロケットペンダントだった。
俺はそれを手袋越しに受け取った。
表面には、摩耗して読みづらいが、イニシャルが刻まれている。
『M.S』
俺の呼吸が止まった。
心臓が早鐘を打ち、全身の血が逆流するような感覚に襲われる。
見間違えるはずがない。
これは、俺の幼馴染――北条美咲が、いつも身につけていたものだ。
犯行現場から持ち去られ、行方不明になっていた遺品。
「……あいつだ」
『8月の吸血鬼』は、生きていた。
そして三日前、この部屋にいた。
美咲の命と同じくらい大切だったこのペンダントを、薄汚れた治療費の代価にするような無神経さで。
俺はペンダントを強く握りしめた。掌に金属のエッジが食い込み、痛みで頭が冴え渡る。
殺したい。
今すぐ見つけ出して、その息の根を止めたやりたい。
その衝動は、俺が10年かけて積み上げてきた「ゴーストとしての美学」を根底から揺さぶった。
リフォーム屋の仕事は「解体」であって「破壊」ではない。
だが、“修復不可能な欠陥住宅”を前にして、俺はまだドライバーを握っていられるか?
俺はポケットの中のスタンガンに触れた。
(……これじゃ足りないかもしれない)
俺の無意識が、もっと決定的な「凶器」を求めていることに、俺は気づかないフリをした。
「そいつは、また来るか?」
俺は低く唸るように聞いた。
「く、来るはずだ! 傷はまだ塞がってない。抜糸もしてねえんだ!」
「そうか」
俺はペンダントをポケットにしまい、医者の胸ポケットに札束をねじ込んだ。
「口外無用だ。もし誰かに喋ったら、次は電気じゃ済まない」
「わかった! 誰にも言わねえ!」
俺は診療所を出た。
外の空気は生ぬるいのに、俺の体は芯まで冷え切っていた。
10年越しの復讐劇の幕が上がった。
だが、同時に恐怖も感じる。
奴は近くにいる。
そして、俺が「偽装工作」をした現場から自分のDNAが出たことを知れば――奴もまた、俺を探し始めるだろう。
狩るか、狩られるか。
俺は闇に沈む港を見つめ、震える手でタバコに火をつけた。




