第五話 コーヒーブレイク
2014年、8月17日。
お盆休みが明け、県警本部の捜査会議室は重苦しい空気に包まれていた。
二つの事件が、捜査一課を混乱させている。
一つは「アパート偽装殺人(疑惑)」。もう一つは「権田家長男神隠し事件」だ。
「――報告します。権田邸周辺の防犯カメラの解析結果です」
モニターに、荒い粒子の映像が映し出された。
激しい雨の中、屋敷の裏口付近を歩く人影。
黒いレインコートを着た男だ。顔はフードとマスクで判別不能。
その男は、肩に「大きな筒状のもの」を担いでいた。
「この男……重要参考人と見て間違いないな」
捜査本部長が唸る。
映像の中の男は、長さ1メートルほどの、ブルーシートでぐるぐる巻きにされた物体を、軽々と担いで去っていく。
「中身は何だ? 盗まれた絵画か? 掛け軸か?」
「いえ、権田氏の話では、金品の被害は一切ないとのことです。なくなったのは長男の優太くんだけ……」
「馬鹿な。じゃあ、この筒が子供だと言うのか? こんな扱いをしたら窒息してしまうぞ」
会議室がざわつく。
誰もが、その「荷物」が人間だとは直感できない。
まるで建築現場の廃材か、古いカーペットを捨てに行く業者のように見えたからだ。
一ノ瀬玲奈は、眉間に皺を寄せてその映像を見つめていた。
(廃材……?)
彼女の脳裏に、ふと昨日の光景がフラッシュバックする。
屋敷の前ですれ違った、軽トラに乗った男。
葛城湊。
彼はリフォーム業者だ。廃材の搬出なんて手慣れたものだろう。
(まさか……ね)
玲奈は首を振った。
映像の男と葛城の体格は、確かに似ている気がする。
けれど、あの温厚で、いつも眠そうな目をした彼が、こんな大胆な誘拐劇を行うだろうか?
それに、筒の中身が子供だという証拠もない。
「一ノ瀬、お前はどう思う?」
突然話を振られ、玲奈はビクリと肩を震わせた。
「は、はい。……犯人は、現場の地理に明るい人物かと。ですが、映像だけでは断定できません。単なる不法投棄の可能性もありますし……」
彼女は言葉を濁した。
まだ、彼だと決まったわけじゃない。
ただ、胸の中に広がる「違和感」が拭えないだけだ。
もし、仮に彼だとしたら。
彼はあの子を「虐待」から救い出したことになる。
(……不確かな推測で、市民を容疑者扱いするわけにはいかないわ)
玲奈は自分にそう言い聞かせ、口をつぐんだ。
それは刑事としての慎重さか、それとも彼を信じたいという私情か。
自分でも判別がつかなかった。
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その日の夕方。
葛城リフォームの事務所。
俺は、優太を無事に隣県の山奥へ送り届け、戻ってきたところだった。
行き先は、とあるNPO団体が運営する「非公開シェルター(駆け込み寺)」だ。
本来はDV被害に遭った女性を一時保護する施設だが、代表の老婆は「行政の手続き」よりも「目の前の命」を優先する古武士のような人だ。
事情を話せば、身元のない子供でも黙って育ててくれる。
もちろん、それ相応の「寄付金」は置いてきたが。
疲労困憊で店を開けると、すでに先客がいた。
カウンター席に座る、一ノ瀬玲奈だ。
俺の心臓が早鐘を打つ。
逮捕状を持ってきたのか?
いや、彼女の表情に敵意はない。あるのは、深い疲れと、どこか迷いを含んだ瞳だ。
「……いらっしゃいませ。早いですね、今日は」
「サボりよ。やってられないわ、あんな会議」
彼女はため息をついた。
「コーヒー、淹れましょうか」
「ええ。……今日はブラックでいいわ」
俺は黙って豆を挽いた。
彼女がここにいる理由。それは、俺を疑っているからか、それとも単に癒やしを求めているだけか。
俺は背中で気配を探る。
「ねえ、葛城くん」
「はい?」
「……子供って、重いと思う?」
ドキリとした。
俺の手が一瞬止まりそうになるのを、理性で抑え込む。
「さあ……独り身なもので。何歳くらいの子ですか?」
「7歳。男の子よ」
「小学校低学年か。20キロくらいですかね。米袋2つ分だ。ずっと抱っこするのは骨が折れるでしょうね」
俺は平然と答えた。
彼女はジッと俺の背中を見ている気がする。
「そうよね。……それを『荷物』みたいに軽々と担げるかしら」
「力持ちならできるでしょうけど。……それが事件と何か?」
俺は振り返り、コーヒーを差し出した。
視線を合わせる。
彼女の目は、俺を探っていた。だが、そこにあるのは確信ではない。「あなたじゃないと言ってほしい」という揺らぎだ。
「ううん、なんでもないわ。……変なこと聞いてごめんなさい」
彼女は視線を外し、カップに口をつけた。
シロだ。
彼女の中で、俺への疑いはまだ「妄想」の域を出ていない。
俺の演じている「善良なリフォーム屋」の仮面は、まだ剥がれていない。
「……葛城くんのコーヒーは、落ち着くわね」
「それはどうも」
彼女が少しだけ表情を緩めた、その時だった。
プルルルル……!
彼女の懐で、社用携帯がけたたましく鳴った。
安息の終わりを告げるベルだ。
「……はい、一ノ瀬です」
彼女は電話に出た瞬間、表情を一変させた。
迷いのない、鋭い刑事の顔に戻る。
そして、俺の方を――いや、俺を通り越して、虚空を睨みつけた。
その顔は驚愕に染まっていた。
「え……? 科捜研から速報が出たんですか?」
俺の背筋が凍りついた。
来たか。
あのアパート事件の血痕の鑑定結果だ。
俺が混ぜた「廃棄血液」の細工がバレたか? それとも成分の異常が見つかったか?
「わかりました。すぐ戻ります」
玲奈は電話を切ると、ガバリと立ち上がった。
「ごめんなさい、行くわ。……緊急事態よ」
「何かありましたか?」
俺は努めて冷静に聞いた。
彼女は、震える声で言った。
「例のアパートの血痕よ。DNAの簡易鑑定の結果……『該当者なし』どころか、『三人の異なるDNA』が検出されたわ」
「……は?」
俺は思わず素っ頓狂な声を出した。
三人?
馬鹿な。俺が入れたのは「依頼人の血」と「廃棄血液(A型)」の二種類だけだ。
なぜ三人目が出る?
「しかも、そのうちの一つが……10年前の未解決事件の現場に残された犯人のDNAと一致したの」
時間が止まった。
10年前。
俺の幼馴染が殺された、あの日。
「この事件、ただの偽装工作やストーカー殺人じゃないわ。……過去の亡霊が関わってる」
玲奈は俺を見て、決意に満ちた目で言った。
「私、この犯人を絶対に捕まえる。過去の因縁ごと、すべて暴いてやるわ」
彼女は店を飛び出していった。
俺はカウンターに取り残された。
三人目のDNA。
俺が横流しさせた廃棄血液の中に、まさか「真犯人」の血が混ざっていたというのか?
そんな偶然があるか?
いや、もしそれが偶然でないとしたら――?
俺の手が震え始めた。
俺が書いたシナリオに、誰かが勝手に書き込みをしている。
見えない「本当の怪物」が、この街に潜んでいる。




