第四話 正義
2014年、8月16日。
未明から降り始めた激しい雨が、高級住宅街の静寂を叩き消していた。
好都合だ。雨音は足音を消し、地面に残る痕跡を洗い流してくれる。
午前2時00分。
俺は権田邸の裏手に広がる雑木林の中に身を潜めていた。
身につけているのは、黒のレインコートと、頭に装着した小型ヘッドライト。そして腰には、仕事道具を入れたベルトを巻いている。
今回のターゲットは、離れの客間。
7歳の少年、優太が閉じ込められている牢獄だ。
俺は敷地の外周にあるフェンスの死角――雑草が生い茂り、誰も管理していない一角――をニッパーで切断し、音もなく侵入した。
目指すのは玄関ではない。窓でもない。
俺が昼間の下見で目をつけたのは、離れの基礎部分にある「通気口」だ。
築40年の木造住宅。
その床下は、大人一人が這いずり回れるだけの高さがある。
俺は金網が錆びついた通気口をバールでこじ開け、暗闇の穴へと体を滑り込ませた。
ムッとした湿気と、カビの臭いが鼻をつく。
蜘蛛の巣を払いながら、匍匐前進で進む。
頭上の床板の向こうでは、権田一家が眠っているはずだ。
リフォーム屋にとって、床下は血管のようなものだ。
どこがどこの部屋に繋がっているか、配管と大引き(床を支える木材)を見れば手に取るようにわかる。
俺は迷うことなく、「離れ」の真下へと到達した。
ヘッドライトを赤色灯に切り替え、頭上を照らす。
ここだ。
昼間、優太に指示した「押し入れ」の真下。
俺は腰袋から「廻し挽き鋸」を取り出した。
刃渡りが細く、曲線も切れる特殊なノコギリだ。
狙うのは、床板の継ぎ目ではない。もっと大胆に、根太と根太の間にある下地合板だ。
ギィ、ギィ……。
雨音がノコギリの音を消してくれる。
俺は慎重に、しかし素早く、人間一人が通れるだけの四角い穴を開けた。
切り取った床材が落ちてこないよう、手で支えながら外す。
ぽっかりと空いた穴の向こうに、押し入れの内部が見えた。
そこに、体育座りをして震えている少年の顔があった。
「……!」
優太が息を呑むのがわかった。
床下から現れた黒ずくめの男。妖怪か何かだと思っただろう。
「迎えに来た」
俺は小声で告げ、手を差し伸べた。
「おいで。ここから落ちれば、君はもう『優太』じゃなくなる」
少年は一瞬ためらったが、すぐに小さく頷いた。
その目には、父親への恐怖よりも、ここではないどこかへの渇望があった。
彼は俺の手を掴み、音もなく床下へと滑り落ちてきた。
抱き留める。軽い。
7歳にしては軽すぎる体躯だ。食べていないのだろう。
「よし。静かに」
ここからが、プロの仕事だ。
俺は切り抜いた床材の断面に、速乾性の強力接着剤を塗りたくり、さらに裏側から補強用の木材を当てて、元の位置にはめ込んだ。
下から強く押し上げる。
ピタリ。隙間なく元通りに嵌る。
さらに、継ぎ目に「木工用パテ」を塗り込み、指で馴染ませる。
このパテは特殊な調合で、乾くと古木のような色に変色する。
一分後。
押し入れの床は、何事もなかったかのように塞がった。
上から見れば、ただの古いベニヤ板だ。顕微鏡で調べない限り、一度切り抜かれたことには気づかないだろう。
これで「密室」は完成した。
入り口も出口もない部屋から、子供だけが消滅した。
まさに神隠しだ。
「行こう」
俺は優太を背負い、泥だらけの床下を這って戻った。
通気口から外に出ると、雨はさらに激しくなっていた。
優太の体が雨に濡れ、震え出す。
俺はレインコートの前を開け、彼を包み込むようにして抱いた。
「寒くないか」
「……うん。パパは?」
「もう追ってこない。君は煙になったんだ」
俺たちは闇に紛れ、用意していた逃走車両へと消えた。
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翌朝。
台風一過の晴天。
権田邸の前には、パトカーが数台停まっていた。
「おい! どうなってるんだ! 警察は何をしてる!」
権田の怒号が響き渡っている。
その横で、一ノ瀬玲奈は冷静に現場――離れの客間を観察していた。
状況は不可解だった。
今朝、権田が朝食を持って部屋に入ると、優太がいなくなっていたという。
だが、窓には内側から鍵がかかり、鉄格子が嵌まっている。
玄関の鍵も権田が持っていた。
唯一の出入り口であるドアも閉ざされていた。
「完全な密室ね……」
玲奈は部屋の中を歩き回った。
誘拐なら、侵入経路があるはずだ。
家出なら、脱出経路があるはずだ。
だが、どこにも痕跡がない。
雨のせいで、外の足跡も完全に消えている。
「神隠し、か」
同僚の刑事が呆れたように呟く。
だが、玲奈の「刑事の勘」は、もっと現実的な、そして人為的な作為を感じ取っていた。
彼女は、優太がいつも隠れていたという押し入れを開けた。
布団もなく、ガランとしている。
壁を叩く。異常なし。
天井裏を確認する。埃が積もったままで、人が通った形跡はない。
「……?」
玲奈は鼻をひくつかせた。
押し入れの中に、微かだが、異質な臭いが残っている。
カビ臭い古民家の匂いの中に混じる、ツンとした刺激臭。
これは……シンナー?
いや、接着剤の揮発臭だ。
彼女は床に這いつくばり、懐中電灯でベニヤ板を照らした。
見た目には何の変化もない。古いシミがあるだけだ。
だが、臭いはここから漂っている。
「……昨日」
玲奈の脳裏に、昨日の昼間の光景が蘇る。
この屋敷の前ですれ違った男。
作業着姿で、眠そうな目をしたリフォーム屋。
『シロアリがいっぱいいましたよ』
『床下の修理です』
「まさか……」
玲奈の背筋が凍りついた。
もし、あの時すでに、彼がこの「脱出ルート」を構築していたとしたら?
あるいは、床下という盲点を使って、今まさに子供を連れ去ったとしたら?
彼女は立ち上がり、窓の外を見た。
庭の向こうに、修理業者の軽トラはもういない。
「……葛城くん」
彼女の口から漏れたその名前は、疑惑というよりも、信じたくないという祈りに近かった。
「いや......考えすぎかしら。
正直彼がそんなことをできるとは思えない」
証拠はない。
床板を剥がして検証すればわかるかもしれないが、令状もなしに権力者の家の床を破壊することはできない。
それに、もし彼が子供を救ったのだとしたら――それを暴くことは、あの子を地獄へ引き戻すことになる。
玲奈は拳を握りしめ、葛藤した。
刑事としての義務と、人としての正義。
その狭間で、彼女はまた一つ、決定的な「見逃し」をしてしまうのか。
「一ノ瀬さん、署に戻って報告書を」
「……ええ、わかったわ」
玲奈は最後に一度だけ押し入れを振り返り、部屋を出た。
そこには確かに、真新しい「修繕」の気配が残っていた。




