第三十二話 正体
2016年、8月27日。午前10時20分。
市外れの湾岸エリア。潮風に晒され、赤茶色に錆びついたトタン屋根の廃工場が、鉛色の空の下で静まり返っていた。
入り口の掠れた看板には『葛城工務店・第二資材置き場』の文字が辛うじて残っている。
12年前、俺と一ノ瀬さん、そして美咲が入り浸っていた『秘密基地』だ。
俺たちは少し離れた場所にワゴン車を停め、足音を殺して廃工場の入り口へと接近した。
南京錠は壊され、重いスライド扉がわずかに開いている。
中に誰かがいる。間違いなく、あのふざけた犯行声明文を送りつけてきた狂人だ。
「一ノ瀬さんは外で待機してくれ。逃げ出したら脚を撃て」
「……気をつけて、葛城くん」
俺は上着の下からサバイバルナイフとスタンガンを抜き出し、両手に構えた。
扉の隙間から、カビと鉄錆の匂いが漏れ出してくる。
美咲の死を嘲笑い、俺たちの技術をただの殺人の隠れ蓑にした下劣な快楽殺人鬼。そいつが、俺の帰るべきだった場所で獲物を待っている。
ドクン、ドクンと、こめかみで脈打つ血の音が異常にデカかった。
だが、俺の頭は氷のように冷え切っていた。
――殺しはしない。
二年前、俺はあの吸血鬼を前にして誓ったはずだ。死は悪人への「救済」でしかない。
俺の目的はただ一つ。警察に本名が割れる前に誰よりも早くこいつと接触し、これ以上俺たちの手口を汚す勝手な犯行を止めさせること。
そして、誰だか知らないが、俺たちの過去を弄ぶこの模倣犯の「正体」を暴き出すことだ。
俺は大きく息を吸い込み、錆びついたスライド扉を蹴り飛ばした。
ガァンッ!! という轟音と共に、扉がレールから外れて吹き飛ぶ。
舞い上がる土埃の中、薄暗い工場の奥――かつて俺たちが拾ってきたボロボロの革ソファに、人影が一つ座っていた。
「そこまでだ、クソ野郎」
俺は一直線に床を蹴り、ソファの影へと飛びかかった。
確実に無力化して押さえる。相手の肩を狙ってナイフの柄を叩きつけ、同時に逆の手でスタンガンを押し当てにいく。生け捕りのための素早い制圧だ。
だが、次の瞬間。
「ッ!?」
人影はソファから弾かれたように横へスライドし、俺の攻撃を紙一重で躱した。
それだけじゃない。相手は俺の伸びきった右腕の下に滑り込むと、手首を関節の可動域ギリギリの角度で捕らえ、俺の突進の勢いを利用して強烈な投げを打ってきたのだ。
――CQC(近接格闘術)。それも、警察の逮捕術を極限まで実戦向けに洗練させた動き。
「なっ……!」
俺は空中で体勢を捻り、なんとか受身をとってコンクリートの床に着地したが、スタンガンを遠くへ蹴り飛ばされてしまった。
「……何者だ、お前」
俺はナイフを逆手に構え直し、薄暗がりの中の影を睨みつけた。
快楽殺人鬼じゃない。素人でもない。恐ろしく重心の安定した、訓練されたプロの動きだ。
「それはこっちの台詞よ。いきなり刃物で襲いかかってくるなんて、あなた本当に『あの人』なの?」
影が立ち上がり、埃を払った。
凛とした、若く、少しだけ震えを帯びた女の声だった。
工場の天窓から差し込む鈍い光が、その顔を照らし出す。
黒いキャップを目深に被り、動きやすいウィンドブレーカーを着た若い女。年齢は二十歳そこそこだろうか。俺を睨みつけるその勝気な瞳には、どこか見覚えがあるような気がした。
「......とぼけるな。俺たちの手口を真似て女を殺し、美咲の記憶を使って俺を呼び出したのはお前だろうが」
俺が低く唸ると、女は心底訳が分からないというように眉をひそめた。
「殺した……? 女って、何の話? 私は誰も殺してない!」
「嘘をつくな。 アパートを血の海にして死体を隠し、あまつさえ『次の獲物を連れて待っている』と声明文に書いたのはお前だろうが」
「ふざけないで! 私は人殺しなんかじゃない!」
女は拳を握り、俺に向かって叫んだ。
「私はただ、父さんが私にだけ遺したもう一つの手帳……その暗号を解いて、父さんが最期に希望を託した『葛木湊』に会いたかっただけ! 私は……阿久津誠二の娘、彩花よ!!」
――ガァン、と。
後頭部をハンマーで殴られたような衝撃が、俺の全身を貫いた。
「……あ、くつ……?」
ナイフを握る俺の手から、スッと力が抜けた。
阿久津誠二。
12年前、美咲の事件のホシを挙げる目前で娘を誘拐され、500万でシステムに魂を売った刑事。
そして二年前、古びた団地の一室で『K』の組織から俺を逃がし、俺に希望のノートを託して、眉間を撃ち抜かれて死んだあの男。
あの時、阿久津が自分の人生をかなぐり捨ててでも守り抜いた「一人娘」。
「阿久津さんの、娘……? お前が、あの声明文を……」
「そうよ! ずっと父さんの遺品を調べて、やっとあなたたちに辿り着いたのに……なんだっていうのよ、人殺しって!」
俺は息を呑み、絶句した。
最悪の勘違い。致命的なすれ違い。
俺たちを呼び出した『メッセージの送り主』は、阿久津彩花だった......?
だとしたら、昨日の中央区のアパートで俺たちの手口を真似て凄惨な血の海を作り、女を消し去った『本物の模倣犯』は――。
「……葛城くん!!」
その時、入り口の外で見張っていた一ノ瀬さんが、血相を変えて工場の中に飛び込んできた。
「一ノ瀬さん、ストップだ。 こいつは敵じゃ――」
「それどころじゃないわ! 葛城くん、誰か来る!!」
一ノ瀬さんが、見ず知らずの彩花の存在など気にも留めないほどのパニックで叫んだ直後だった。
キィィィィン!! という鼓膜を劈くようなタイヤのスキール音が、廃工場のすぐ外で鳴り響いた。
乱暴にブレーキを踏み、砂利を撒き散らして停まった一台の車。
バタン、と重いドアが開く音が、静まり返った廃工場に死刑宣告のように響き渡る。
「……クソッ」
俺は奥歯を噛み締めた。
廃工場の扉の向こうで、砂利を踏む靴音が、ゆっくりと近づいてくる。
俺の隣には、阿久津の娘。
背後には、死んだはずの女刑事。
そして今、扉の前に立つのは――
「終わりだ。葛城湊」




