第三十話 猿芝居
2016年、8月27日。午前8時。
昨夜のニュース速報から一夜が明け、世間は異様な熱狂と混乱に包まれていた。
この二年間、日本全国で奇妙な事件が多発していた。
家庭内暴力、陰湿ないじめ、悪質なストーカー被害。そうした逃げ場のない「社会的弱者」ばかりが、ある日突然、文字通り「跡形もなく」神隠しのように消え去るのだ。
警察がいくら捜査しても死体はおろか、生活の痕跡すら見つからない。いつしかネットの住人やメディアは、この不可解な連続失踪事件の黒幕を『失踪請負人』と呼ぶようになった。
普通に考えれば、快楽殺人鬼が被害者を殺し、死体を巧妙に隠蔽しているだけの最悪な事件だ。当然、世論の大多数は「ゴーストは連続サイコパス殺人鬼だ」と糾弾する『否定派』だった。
だが一年前、ネット上のとある特定班が、一つの事実に気がついた。
『消えているのは、日常的に虐げられていた人間ばかりだ。これは、誰かが意図的に彼らを地獄から「逃がして」いるんじゃないか?』
その考察を皮切りに、「ゴーストは法で救えない命を救うダークヒーローだ」と主張する『肯定派』が徐々に勢力を伸ばし始めたのだ。
現在、世論はおおよそ『否定派7:肯定派3』。
警察庁も主要メディアも注視する、日本中を巻き込んだ社会現象にまで発展していた。
そんな中――二年間、ただ静かに人が消えるだけだった神隠しの法則が破られ、突如として「凄惨な血の海」を伴う失踪事件が、一日で二件も連続して起きたのだ。世論がパニックに陥らないわけがなかった。
「……最悪よ、葛城くん」
隠れ家の薄暗いリビングで、ノートパソコンの画面をスクロールする一ノ瀬さんが、冷え切った声で呟いた。
「昨日の夕方に起きたタワーマンションの事件と、夜の中央区のアパートの事件。警察は別々に処理しようとしてるみたいだけど、まとめサイトが二つの事件をくっつけて大炎上させてるわ。肯定派も動揺して、否定派のバッシングが一気に加速してる」
俺は淹れたてのコーヒーを二つのマグカップに注ぎ、彼女の隣に腰を下ろした。
画面には、毒々しい赤文字の見出しが躍っている。
『【猟奇】一日で二件の血の海! 死体なき連続殺人鬼・ゴースト、ついに本性を現す!』
『肯定派息してる? ただのサイコパスじゃねえか』
『警察の無能。また被害者が出たぞ』
「……好き勝手言ってくれるな」
俺はブラックコーヒーを喉に流し込みながら、舌打ちをした。
「タワーマンションの沙織さんは、今頃シェルターでゆっくり朝食を食べてるってのに」
「世間はそうは思ってくれないわ。血の海だけが残されて、人が消えている。どちらの現場も、完全に私たちのシグネチャーだもの」
一ノ瀬さんは自分の腕を抱きしめるように震えた。
「でも、アパートの方は違う。私たちはやっていない。……ねえ、葛城くん。これって偶然? それとも、誰かが意図的に私たちの手口を真似て、あの部屋の住人を『逃がした』の?」
「意図的な模倣犯だろうな」
俺はパソコンを操作し、ニュースサイトに上がっているアパートの現場写真を拡大した。
規制線の外から望遠レンズで撮られた、画質の荒い写真だ。
「一ノ瀬さん、この壁の血痕を見てみてください」
「……不規則に点在しているわね。それに、床の血だまりに向かって、擦れたような跡がある」
「ええ。俺たちがタワーマンションで作ったのは、コンプレッサーを使った計算通りの『動脈からの噴出』です。だが、こっちのアパートの血痕は、まるでその辺のバケツで適当に血をぶちまけて、モップで引きずったように雑だ」
俺は画面を指差しながら、呆れたように息を吐いた。
「偽装の基礎もなっていない、三流以下の素人仕事だ」
「素人……。じゃあ、犯人は私たちを真似て、あの部屋の女性をDVか何かから救おうとしたってこと?」
「分からない。だが、もし俺たちの『神隠し』を真似て人助け気取りをしてるんだとしたら、迷惑千万だ」
不快感が胸の奥で渦巻いていた。
俺たちの技術は、警察の鑑識を完全に欺くために、計算に計算を重ねた『芸術』だ。
こんな血をばら撒いただけの雑な偽装現場を残せば、いずれ警察に「偽装」だと見破られ、逃がしたはずの被害者まで危険に晒すことになる。
「……葛城くん、どうするの? このままじゃ、西園寺刑事はもちろん、警視庁の全勢力が『血に飢えた連続殺人鬼』として私たちを狩りに来るわ」
「ああ、警察も世間も、二つの事件を同一犯だと思い込み始めている。このままじゃ俺たちも動きづらい」
俺は立ち上がり、壁のフックにかけてあったジャケットを手に取った。
「警察に目をつけられる前に、俺たちでこの不器用な『偽物』を引きずり出す。俺たちのブランドを傷つけられたままにはしておけない」
「引きずり出すって……どうやって?」
「まずは、情報だ」
俺はスマホを取り出し、暗号化された回線で一つの番号に発信した。
数回のコールの後、相手が出た。
『……珍しいな、葛城。そっちから連絡してくるとは。昨日のタワーマンションの件、見事だったぞ』
電話の主は、NPO法人アジールの代表・狐塚だった。
「狐塚さん。単刀直入に聞く。昨日の中央区のアパートの件、あんたの耳に何か入ってないか?」
『……ああ。ネットで騒がれている「ゴーストの連続犯行説」のことか。お前さんが関わっていないことは分かっている。お前さんは、無計画な仕事はしないからな』
「なら話が早い。警察の捜査資料が欲しい。消えた女性の身元、発見時の詳細な状況、鑑識の初動報告。……あんたのところに流れてこないか?」
電話の向こうで、狐塚が少しだけ沈黙した。
『……実は、昨夜のうちにうちの暗号メールに資料が届いていた。差出人は「A」とだけある。いつものやつだ』
「『A』……またあの内部告発者か。一ノ瀬さんの殉職の真実を暴露し、西園寺を一時期行動不能にした、例の」
『ああ。警察組織の中に、Kの存在を嗅ぎつけて、密かに抵抗している人間がいるんだが、誰なのかは俺にも分からない。だが、こいつが流してくる情報はいつも正確だ』
狐塚の声が、わずかに低くなった。
『……危ない橋だぞ、葛城。警視庁は今、ものすごい熱量で動いている。西園寺という男が、特捜本部を立ち上げるよう上層部に掛け合っているらしい』
「だからこそ、先を越されるわけにはいかない。俺たちの名前を使って中途半端な真似事をしてる奴に、失踪請負人の掟を教えてやる」
俺の声にこもった苛立ちを感じ取ったのか、狐塚は短く息を吐いた。
『……分かった。一時間後に、お前の暗号化メールにデータを送る。だが、無茶はするなよ』
通話が切れ、俺はスマホをポケットにしまった。
振り返ると、一ノ瀬さんが真っ直ぐに俺を見ていた。
「一ノ瀬さん。警察の資料が来たら、あんたの知識が必要になる」
「ええ、任せて。私たちの真似をしてるのが誰なのか、絶対に突き止めてやりましょう」
その瞳には、かつての優秀な刑事としての鋭い光が宿っていた。




