第二十八話 二年越しの確信
2016年、8月26日。
午後1時45分。
市内を一望できる高級タワーマンションの最上階。
ターゲットである沙織が軟禁されている一室に、俺とレイ(一ノ瀬さん)は清掃業者に変装して侵入していた。
リビング、ダイニング、キッチン、さらには寝室の入り口まで。
天井の四隅に設置された計8台のネットワークカメラの赤いランプが、不気味に点滅している。
「……夫が役員会議に入るまで、あと3分。ここから15分間だけ、奴はスマホを見られない」
ボブヘアを清掃用のキャップに押し込んだレイが、間取り図のタブレットを見ながらインカム越しに囁く。
「葛城くん。リビングの第三カメラの『死角』は、大型ソファの裏、わずか幅80センチ、奥行き30センチのスペースだけよ」
「十分だ」
俺はソファの死角に身を潜めながら、工具箱から小型の高圧コンプレッサーと、須藤から調達した特製血液のパックを取り出し、素早くチューブを繋いだ。
ただ血をぶちまければいいわけではない。
警察の鑑識は、飛沫血痕の角度や形状、広がり方を見るだけで「どのような凶器で、どの角度から、どう致命傷を与えられたか」を正確に割り出す。不自然な血の撒き方をすれば、すぐさま「偽装」だと見破られてしまう。
「レイ、飛沫の角度の計算は?」
「完璧よ。刃渡り15センチのサバイバルナイフで、右の頸動脈を深く切断された場合の、心拍による動脈血の噴出パターン。床から高さ120センチの位置で、壁に対して斜め下45度に向けてコンプレッサーを解放して」
俺はノズルを構え、バルブに手をかけた。
ソファの横で、青白い顔をした沙織がガタガタと震えている。
「沙織さん、大丈夫。深呼吸して」
レイの落ち着いた声が室内に響く。
「今からあなたは、見えない殺人鬼に首を掻き切られます。カメラに向かって最高の悲鳴を上げて、そのままソファの裏に倒れ込んでください。……3、2、1、アクション!」
「きゃあああああああああああっ!!」
沙織が、喉が裂けるような悲鳴を上げて床に倒れ込む。
(......名演技だ)
同時に俺は、コンプレッサーのバルブを全開にした。
プシュウウウウッ!!
圧縮された赤黒い液体が、完璧な放物線を描いてリビングの白い壁と大理石の床に激しく叩きつけられる。
カメラのレンズの端にも、べっとりと赤い飛沫が飛び散った。
ソファの裏から、どくどくと大量の血が流れ出し、凄惨な血の海を作っていく。
モニター越しに見れば、誰がどう見ても「妻が何者かに殺害された」決定的な瞬間だった。
「クリア! 葛城くん、沙織さんを回収袋へ! 夫の会議が終わるまであと11分――」
ピンポーン。
突然、静まり返った部屋にインターホンの無機質な音が鳴り響いた。
俺とレイの動きが、同時に凍りつく。
『……コンシェルジュ・デスクです。奥様、いらっしゃいますか?』
スピーカー越しに、焦ったような男の声が聞こえた。
『今、旦那様から「妻の悲鳴が聞こえた、カメラに血のようなものが映っている」と緊急の連絡がありまして……マスターキーで開けますよ!』
舌打ちが出た。
あのパラノイアの夫め、会議に入る直前のわずかな隙に、音声をオンにしてチェックしやがったのか。
玄関の電子錠が、ガチャリと音を立てて開錠される。
血の海のリビング。隠しきれないコンプレッサー。そして、生きたままの沙織。
今の状況を見られれば、偽装殺人だということが一瞬で露見する。
「葛城くんは作業を続けて!」
レイがインカムをむしり取り、清掃用のキャップを床に叩きつけた。
彼女は押し込んでいた髪を解放し、美しい金髪を乱しながら、玄関へと猛ダッシュした。
コンシェルジュがドアに手をかけた、まさにその瞬間。
「入らないでッ!!」
レイがドアを内側から体重をかけて押さえ込み、コンシェルジュを廊下へ押し返した。
彼女の服には、さっきわざと拭き取った赤い血糊がべっとりと付着している。
「な、なんだ君は! 清掃業者か!? 奥様は――ひっ!」
「私は非番の警察官です!! たまたま悲鳴を聞いて飛び込んだら、奥さんが血まみれで倒れていました!」
レイの凄まじい剣幕と、その整った顔立ちに浮かぶ「プロの警察官」としての圧倒的な覇気に、コンシェルジュの男は完全に気圧され、一歩後ずさった。
「い、生きてるんですか!?」
「頸動脈をやられています、出血多量で意識不明! まだ犯人がベランダ側に潜んでいる可能性があります! 今すぐ一階に降りて、エントランスを完全封鎖してください! 共犯者が逃げるかもしれない!」
「わ、わかりました! すぐに警察と救急車を――」
「110番はもう私がしました! あなたは住民の避難誘導と、エントランスの封鎖を! 今すぐ!!」
元・捜査一課のエリートが放つ、完璧な現場指揮のオーラ。
パニックに陥った素人は、強烈な権威と具体的な指示を与えられると、思考停止してそれに従ってしまう。
この2年、失踪請負人として生きていたのは伊達じゃないな。
「は、はいッ!」
コンシェルジュは弾かれたように踵を返し、エレベーターホールへと走っていった。
「……レイ、ナイスだ」
俺はその数秒の間に、沙織を医療廃棄物用の分厚いダストカートに押し込み、コンプレッサーなどの機材を底に隠し終えていた。
レイは乱れた金髪を再び素早くポニーテールにまとめ上げながら、清掃員のキャップを被り直す。
「行くわよ。あと3分で所轄が来る」
「ああ」
俺たちはダストカートを引き、業務用エレベーターへと駆け込んだ。
降下していく箱の中で、俺たちは荒い息を吐き出す。ダストカートの中の沙織には「絶対に声を出すな」と厳命してある。
チン、と軽い音が鳴り、一階の搬入口に着いた。
扉が、ゆっくりと開く。
「――おや」
俺の心臓が、冷たい手で鷲掴みにされたように跳ね上がった。
開いたエレベーターの目の前に、一人の男が立っていた。
ピシッとしたスーツ。整った黒髪マッシュヘア。そして、獲物を狙う猟犬のような、ギラついた鋭い双眸。
警視庁捜査一課、西園寺鏡介。
たまたまなのか、それとも目をつけていたのか、近くをパトロールしていて、無線を聞きつけて誰よりも早く駆けつけたのだ。
「清掃業者さん。上の階で騒ぎがあったと聞いたが、何か見なかったか?」
西園寺が、ポケットに手を入れたまま気怠げに尋ねてくる。
隣に立つレイの肩が、微かに強張るのがわかった。
かつての上司だ。もしここで顔を覗き込まれれば、いくら変装していても「死んだはずの一ノ瀬玲奈」だとバレる危険がある。
そして何より、このカートの中には「死体」が入っている。
もし今、沙織がパニックを起こして少しでも身じろぎすれば、俺たちはこの場で逮捕される。
「いえ……俺たちは下の階のゴミを回収していただけなんで。何かあったんですか?」
俺は声を低くし、レイを背後に庇うようにして西園寺の横をすり抜けようとした。
西園寺の鼻が、ヒクッと動いた。
「……鉄の匂いがするな」
西園寺が、俺の押すダストカートに冷たい視線を落とした。
「随分と重そうなゴミだ。中身はなんだ?」
背中に冷や汗が流れる。
コンマ数秒の沈黙が、永遠のように感じられた。
「……医療系の特殊廃棄物です。上の階のクリニックからの回収品でして」
俺は表情一つ変えずに答えた。「中を開けると、バイオハザードの規定に引っかかりますが、確認しますか?」
西園寺は俺の目をじっと見つめ返し、やがて、フッと口角を上げた。
「いや、いい。仕事の邪魔をして悪かったな」
西園寺は道を譲り、俺たちが乗ってきたエレベーターへと乗り込んだ。
扉が閉まる直前。
「……随分と、綺麗な金髪だな。お嬢さん」
西園寺のその一言に、レイの背筋が凍りつくのが分かった。
扉が閉まり、箱は上の階へと昇っていく。
俺たちは無言のままダストカートを押し、一気に搬入口のワゴン車へと駆け込んだ。
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最上階のリビング。
西園寺は、現場保存の規制線が張られる前の血の海の中に、一人で立っていた。
壁に飛散した完璧な動脈血のしぶき。大理石の床に広がる、致死量を超える血液の海。
防犯カメラの映像には、確かに首を切られて倒れ込む妻の姿が映っていた。
誰もが「凄惨な殺人事件」だと信じて疑わない光景。
だが、西園寺は床の血を指ですくい、鼻を近づけた。
「……美しすぎる」
西園寺は、血まみれの部屋の中心で、歓喜に震えるような笑みをこぼした。
「飛沫の角度、血の量、すべてが『教科書通り』の完璧な殺人だ。だが、完璧すぎる現場には、人間の泥臭い感情が欠如している」
西園寺は立ち上がり、先ほどすれ違った清掃業者の残り香を嗅ぐように、目を細めた。
「これは殺人じゃない。芸術だ。……とうとう尻尾を掴んだぞ、失踪請負人」




