第二十七話 亡霊たちのリスタート
2016年、8月25日。
あの大火災から、二年が経っていた。
午後2時。
うだるような暑さは変わらないが、空の高さだけが少し秋めいている。
俺、葛城湊は、アパートの窓際で換気扇を回しながら、気怠げに煙草の煙を吐き出した。
ここは俺の表向きの「店」ではない。
市内から離れた、築40年の木造アパート『コーポ・サツキ』の一室。
俺が緊急時のセーフハウスとして借り上げていた、新しい隠れ家だ。
「……葛城くん、コーヒー入ったわよ」
背後から声がした。
振り返ると、そこには淡いホワイトブロンドのボブヘアにニット帽を被った女が立っていた。
帽子の隙間からこぼれる白金色の髪が、室内の光を柔らかく反射している。
透き通るような肌に、淡い色の瞳。
整った顔立ちは、まるで異国の血が混じっているかのようだった。
ダボっとしたパーカーに細身のパンツという、ごくありふれた格好。
袖口から覗く指先は白く細く、布に半ば隠れるその様子が、かえって彼女を華奢に見せている。
どれだけ肩の力を抜いた装いをしても、どこか育ちの良さのような気配は消えない。
強さを前面に出していた頃とは違う、静かに距離を取るような佇まい。
だが、マグカップを置くその手つきだけは、昔と変わらぬ慎重さと、かすかな品を残していた。
「……一ノ瀬さん。言ったでしょう、砂糖は二つだって」
「あ、ごめんなさい。つい、ブラックの癖で」
女――一ノ瀬玲奈は、慌ててスティックシュガーを探り始めた。
彼女は死んだ。
少なくとも、戸籍上と世間的には。
二年前の倉庫火災で、彼女は身代わりのマネキンと共に「燃え尽きた」ことになっている。
この二年間、警察の目を掻き潜りながら、俺たちは裏社会で幾度となく法で救えない被害者を『消滅』させてきた。今の彼女は、名もなき幽霊。俺の共犯者であり、優秀な『失踪請負人』の助手だ。
「その名前もやめてください。ここでは『レイ』だ」
「……はいはい、レイです。わかってるわよ」
一ノ瀬さんは不服そうに唇を尖らせた。
元・捜査一課のエリート刑事の面影は、今の彼女にはない。俺が施した「変装」の出来栄えは完璧だった。
部屋のスピーカーからは、低い音量で「野球中継のラジオ」が流れている。
これは俺がいない時でも「男が住んでいる」と思わせるための生活音擬態だ。センサーライトも、不規則なタイミングで点灯するように改造してある。
「で、仕事の話よ」
一ノ瀬さんはマグカップを俺に押し付け、テーブルの上の封筒を指差した。
差出人は『NPO法人アジール』。
「新しい依頼が来たわよ。……重度のDV夫からの逃走案件」
「アジールって……あの、被害者支援団体の?」
「ええ。代表の狐塚って男からよ」
俺は封筒の中身をぶちまけた。
依頼人の写真と、凄惨な暴力の痕が残る診断書。そして、分厚い札束。
「狐塚代表は、俺の数少ない『上客』ですよ。法で救えない被害者を、裏ルートで俺に回してくる」
「……警察も手が出せない案件を、民間の団体が?」
「ああ。ターゲットの夫は地元の名士で、警察の生活安全課にも顔が利く。妻は完全に軟禁状態で、家中に8台のネットワークカメラが仕掛けられている異常なパラノイアだ。まともに家出をしたところで、翌日には連れ戻されて殺される」
俺の言葉に、一ノ瀬さんが顔を曇らせた。
彼女はまだ、自分が守るべきだった法が機能していない現実と、組織への不信感の間で揺れている。
「だから俺たち失踪請負人の出番だ。カメラの前で、妻が惨殺された完璧な殺人現場を作り上げ、死体ごと消滅させる。……どうした?」
「不思議ね。NPO法人に、こんな大金を払う余裕があるなんて」
一ノ瀬さんが札束を見つめて呟いた。
鋭い。腐っても元刑事だ。
「寄付金が集まってるらしいですよ。……特に最近は、警察庁の偉いさんがバックについたとかで、羽振りがいいそうだ」
「警察庁?」
「倉木聖人……とか言ったかな。長官官房の審議官だ」
その名前を聞いた瞬間、一ノ瀬さんの手がピタリと止まった。
「……倉木審議官? 知ってるわ。テレビによく出ている、犯罪被害者支援のスペシャリストよ。『警察の良心』なんて呼ばれてる」
「へえ。聖人君子ってわけですか」
俺は鼻で笑った。
警察の裏金がNPOに流れ、その金で俺のような「掃除屋」が動く。美しい食物連鎖だ。だが、その金の出処が俺たちを追いつめる『K』だとしたら?
「ま、金さえ払えば客は客だ。カメラの死角とルミノール反応の計算は頼みますよ、元刑事さん。……行きますよレイ。資材の調達だ」
「了解、ボス」
一ノ瀬さんは慣れない様子で軽く手を挙げ、俺の後についてきた。
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午後4時。
市内、産業廃棄物処理場。
重機が唸りを上げ、鉄屑とコンクリート片が山のように積まれている。
その一角にあるプレハブ小屋。
「……よう。生きてたか、葛城」
油まみれの作業着を着た男――須藤が、俺の顔を見るなりバツが悪そうに視線を逸らした。
この男は、俺に「訳ありの資材」や「血液」を横流ししている裏社会の調達屋だ。
俺は無言で車を停め、運転席から降りた。須藤は、へらへらとした愛想笑いを浮かべて擦り寄ってくる。
「おいおい、そんな怖い顔すんなよ。……ほら、今日は特製の偽装血液、2リットル分サービスしてやるからさ。前のことは水に流してくれよ」
俺は須藤の胸ぐらを掴む衝動を抑え、冷たく言い放った。
「……よくヘラヘラ笑えるな、須藤。二年前のあの日、お前が俺に何を渡したか、忘れたわけじゃないだろ」
「だ、だから悪かったって! 俺も知らなかったんだよ、あの血が『本物の吸血鬼』の事件と繋がってるなんて!」
須藤は大げさに両手を上げた。
この男の神経はどうなっているんだ。一歩間違えれば俺が連続殺人鬼として逮捕されていた大失態を、まるで「発注ミス」程度にしか思っていない。
「黙って積め。時間がない」
「へいへい。……たく、怒らせると怖えなあ」
俺はため息をつき、タバコを取り出した。
本来なら二度と関わりたくない相手だ。だが、身分を偽装して動いている今、正規のルートでターゲットの血液型に合わせた特殊溶剤を手に入れることは不可能に近い。足元を見られているのは俺の方だ。
須藤は俺の剣幕に肩をすくめ、黙々と車のトランクに資材を積み始めた。
その時、助手席に座る一ノ瀬さんに気づいたようだ。一ノ瀬さんは不機嫌そうにガムを噛み、スマホをいじって無視している。
「……新しい恋人か? 美人な姉ちゃんだな」
「余計な詮索はしない約束だ」
俺が釘を刺すと、須藤は鼻を鳴らした。
「へっ、愛想がねえな。……ま、前のインテリっぽい女刑事よりはマシか」
(……バレてないな。いや、待てよ)
俺の手が、ピクリと止まった。
こいつ、なんで俺が「女刑事(一ノ瀬さん)」と接触していたことを知っている?
確かに、表向きのリフォーム屋としての葛城湊に、一ノ瀬さんが相談に来ていたことはある。だが、須藤とは『失踪請負人』としての裏の仕事でしか会っていないはずだ。
まさか、俺の表の生活まで尾行していたのか?
俺は感情を完全に押し殺し、煙を吐き出した。
「……あの刑事ならとっくに死んだ。倉庫の火事でな」
「ああ、ニュースで見た見た。おっかねえなあ。警察は隠蔽しようとしたらしいが、内部の誰かにリークされて炎上してたよな。いやぁ、マジで火の車ってやつだ」
須藤は一人で下品に笑いながら、トランクを乱暴に閉めた。
その横顔には、死者に対する哀悼の色など微塵もない。ただの「ゴミ処理」の話をしているような軽さだ。
ふと、強烈な違和感を覚えた。
こいつはただの小悪党だ。金に汚く、脅しに弱い。
だが、二年前のあの血液混入。あれは本当に「偶然」だったのか?
タイミングが良すぎた。
「……なぁ、須藤」
「あ?」
「あんたの下の名前、なんて言うんだ?」
俺の唐突な問いに、須藤は怪訝そうな顔をした。
「なんだよ急に。……健一だよ。健康一番の、健一」
健一。
イニシャルは、『K』。
俺の脳裏に、12年前から俺たちを縛り付ける、あの見えない怪物の名が過ぎる。
まさか。
こんな、金とギャンブルの話しかしない薄汚れた男が?
いや、ありえない。だとしても、こいつの背後に誰かがいる可能性は捨てきれない。
「……いい名前だな」
「だろ? 親父がつけてくれたんだ」
須藤はニヤリと笑った。
その笑顔の奥に、何か粘着質なものがへばりついている気がして、俺は軽く寒気を覚えた。
「行くぞ。……代金はツケておけ」
「おいおい! NPOの狐塚さんとこからガッポリ貰ってんだろ? 次は現金で頼むぜ!」
須藤の軽口を背に、俺たちは処理場を後にした。
バックミラーの中。
須藤は手を振ることなく、じっとこちらを見送っていた。
……笑っているのか?
逆光で表情はよく見えない。だが、その立ち姿は、いつもの小汚い作業員とは違って、どこか冷ややかな影を帯びているように見えた。
俺はアクセルを踏み込んだ。
背中に張り付いた不快な汗が、いつまでも乾かなかった。




