第二十六話 赤の設計図
2004年8月9日。
運命の日まで、あと4日。
午前中、俺と一ノ瀬さんは、美咲を連れて再び所轄署を訪れていた。
昨夜のパニックが嘘だったかのように、美咲は落ち着いた様子で生活安全課のカウンターに座り、若い警官の質問に答えて「被害届」の書類にサインをした。
「手続きは完了しました。パトロールの強化と併せて、相手が特定でき次第、ストーカー規制法に基づく接近禁止命令を出します」
「ありがとうございます!」
警察署を出た時、一ノ瀬さんが大きく伸びをして笑った。
「よかった。これでひと安心だね、美咲ちゃん。警察が動いてくれれば、あのストーカーももう手出しできないよ」
「うん。湊、玲奈先輩、昨日は心配かけてごめんね」
美咲は、完全ではないが笑顔で俺たちに謝った。
「阿久津さんも、きっと忙しいのが終わったら戻ってくるよ。だから13日の夏祭りは、思いっきり楽しもうね!」
彼女の笑顔を見て、俺の胸の中にあった靄も晴れていくようだった。
警察という強固なシステムが動き出した。接近禁止命令という法的な盾もある。阿久津さんもいつか戻ってくる。俺たちは完全に守られている。
この日、被害届を出してからの数日間、何も起きない平和な日常の中で、俺たちはすっかり安心し切っていた。
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2004年8月13日。運命の日。
午後7時。駅前から河川敷へと続くメインストリートは、数十万人の見物客と屋台の熱気でごった返していた。
俺と浴衣姿の一ノ瀬さんは、待ち合わせ場所である駅前の時計塔の下で、人混みを掻き分けながら立っていた。
「もう……美咲ちゃん、遅いなぁ。そろそろ花火始まっちゃうよ」
「あいつのことだから、途中でりんご飴でも買って寄り道してんじゃないですか」
呆れたように笑い合った直後、俺のズボンのポケットで携帯電話が震えた。
美咲からのメールだった。
『ごめん、ちょっと神社の裏手にいるから、二人とも先に来て!』
「神社の裏? 何やってんだあいつ。花火が見えないだろ」
「しょうがないなぁ、迎えに行こっか」
俺たちは人混みを抜け、祭りの喧騒から外れた神社の裏手へと向かった。
屋台の提灯の光が届かなくなり、アスファルトから砂利道へと変わる。周囲は木々に囲まれ、蝉の声と遠くの祭囃子だけが聞こえていた。
「美咲ー? いるのかー?」
俺が声を上げた、その時だった。
「――ひっ!」
隣を歩いていた一ノ瀬さんが、短い悲鳴を上げてその場にへたり込んだ。
彼女の視線の先。鬱蒼と茂った木々の根元に、白いワンピース姿の「何か」が転がっていた。
俺は息を止め、一歩、また一歩と近づいた。
暗闇に目が慣れてくる。
うつ伏せに倒れた白いワンピース。泥だらけの足。
「みさ、き……?」
俺は膝をつき、その肩を揺さぶった。
ぐらりと仰向けになった彼女の顔は、信じられないほど青白く、そして、氷のように冷たかった。首元には、無残な傷跡。
「......っ!! 嫌だ、誰か、誰か来てッ!!」
一ノ瀬さんが声にならない声を上げ、俺の隣で泣き崩れた。
夜空で「ドンッ!」という重低音が響き、一発目の大輪の花火が上がった。
鮮やかな火花が、血の気を失った美咲の顔と、ただ唖然と膝をつく俺の姿を照らし出していた。
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通報から数十分後。
祭りの喧騒はサイレンの音に掻き消され、神社の裏手は赤色灯の不気味な光とブルーシートに包まれていた。
パトカーの脇で毛布に包まれた一ノ瀬さんは、声を枯らして泣き続けている。
俺は、規制線の外側で、ブルーシートの隙間から見える美咲の泥だらけの足を、ただ放心状態で見つめていた。涙は一滴も出なかった。
その時に聞こえた言葉を俺は今でも覚えている。
現場検証をしていた鑑識課員と、制服警官の会話。
事務的な、感情のない声だった。
『被害者は北条美咲、17歳。即死ですね』
『またストーカーか。……数日前から相談来てた案件だろ?』
警官は手帳に何かを書き込みながら、吐き捨てるように言った。
『ったく……。もう少し早く、決定的な証拠があれば逮捕できたんだがなあ』
その言葉が、俺の鼓膜を突き刺した。
時が止まった。
決定的な証拠?
もう少し早く?
ふざけるな。
美咲は相談していた。怯えていた。
被害届も出ていた。法的には完璧に守られていたはずだった。
だが、そんな紙切れ一枚、狂った暴力の前では何の意味もなかった。
美咲が冷たくなってから、「証拠」が揃った?
死ぬことが、唯一の「決定的な証拠」だったなんて。
そんな馬鹿げた話があるか。
俺の中で、何かが音を立てて砕け散った。
悲しみよりも先に、どす黒い憎悪と、冷徹な殺意が全身を支配していく。
(こんな世界、間違ってる)
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葬儀から数日後。
うだるような暑さの午後。俺は一人で、葛城工務店の秘密基地にいた。
テーブルの上には、主を失った通学カバンが置かれたままだ。
俺はジャンク品のラジオのスイッチを入れた。ノイズ混じりに、オレンジレンジの『ロコローション』が流れてくる。俺は数秒だけそれを聞き、すぐにスイッチを切った。
階段を上る足音がして、黒い喪服姿の一ノ瀬さんが現れた。
彼女の目は真っ赤に腫れ上がり、あの優等生の面影はどこにもなかった。
「……葛城くん」
「なんですか」
「私、警察官になる」
一ノ瀬さんは、震える手で強く拳を握りしめていた。
「警察組織の末端から這い上がって、絶対に……絶対に、あの犯人を見つけ出す。自分の手で、捕まえる」
「……そうですか」
俺は、ハンダゴテを見つめたまま短く返した。
一ノ瀬さんは踵を返し、階段を降りていく。
引き戸に手をかけたところで、彼女は一度だけ立ち止まり、背中越しに言った。
「葛城くん……間違ったこと、しないでね」
俺は、何も言わなかった。
一ノ瀬さんが去り、再び静寂が降りた秘密基地。
俺はソファから立ち上がり、一階の作業場へと降りた。壁に掛けられた工具の中から、一番重く、冷たい鉄のレンチを手に取る。
窓の外で、けたたましく蝉が鳴いている。
息の詰まるような、蒸し暑い夏だった。
法なんてものは、人間を守らない。
警察も、大人も、誰も助けてはくれない。
法に頼れないのなら、誰を頼ればいい?
俺は俺のやり方で、被害者を救う。
たとえそれが、どんなに間違った方法だとしても。
(第二章 了)




