第二十五話 朱に染まる日
2004年8月8日。午後7時。
北条家の前に停まったパトカーの赤色灯が、夕闇の迫る住宅街を不気味に照らしていた。
通報を受けて駆けつけた制服警官たちが、土足で二階の部屋に上がり込み、散乱した衣服や教科書の写真を撮っている。
家の外で待たされていた俺と一ノ瀬さんの前に、生活安全課の若い巡査がメモ帳を手にして降りてきた。
「……君たちの言う通り、ひどい荒らされようだ。でも、奇妙だな」
巡査は首をひねりながら、ペンで頭を掻いた。
「机の上のブランド財布も、数万円の現金もそのまま。貴金属類も一切手つかずだった。空き巣だとしても、普通は目につく金目のものから持っていく。これじゃあ、ただ部屋の中を滅茶苦茶に散らかしただけだ」
その言葉に、俺と一ノ瀬さんは顔を見合わせた。
どういうことだ。なぜ犯人は漁るだけ漁って、何も盗まないんだ?
疑問は絶えず浮かんだが、今はそれどころじゃない。
「そんなことより、美咲は! 北条美咲を探してください!」
俺は巡査に詰め寄った。
「さっきまで俺たちと一緒にいたんです。サンダルが片方落ちてて、電話にも出ない。絶対に事件に巻き込まれてる!」
「分かってる、ご両親にも連絡はついた。近隣のパトロールも強化するし、心当たりがあるなら捜査班も動く。……ただ、家出の可能性も捨てきれないからな」
事務的な対応に、俺は苛立ちを隠せなかった。こんな紙切れ一枚の調書で、あの異常なストーカーから美咲を守れるわけがない。
「阿久津さんはいないんですか!」
一ノ瀬さんが、すがるような声で叫んだ。
「刑事課の阿久津さんに伝えてください。あの人なら、美咲ちゃんが危ないって分かってくれるはずです!」
阿久津の名前を出した瞬間、巡査の顔からスッと表情が消えた。
彼は周囲を気にするように声を潜める。
「……阿久津さんには、連絡がつかないよ」
「え?」
「今日の朝から、無断欠勤してるんだ。自宅に行っても奥さんは口を閉ざすばかりで、携帯も電源が切られている。……署内でも、ちょっとした騒ぎになっててね」
足元の地面が、ぐらりと揺れた錯覚に陥った。
無断欠勤。あの、何よりも現場の正義を重んじていた阿久津さんが。
「祭りの日は俺が必ず護衛につく」と約束してくれた最強の刑事が、警察から姿を消した。
俺たちを守る盾は、もうどこにもない。
警察の規制線が張られた北条家を背に、俺と一ノ瀬さんは暗い夜道を歩いた。
「……大丈夫だよね」
一ノ瀬さんが、自分に言い聞かせるように呟いた。
「美咲ちゃんだよ。あんなに元気な子、誰かに攫われたって、逆に相手を蹴っ飛ばして逃げてくるに決まってる」
「……ああ。あいつはバカだからな。案外、どっかのコンビニで立ち読みでもしてて、ケロッと帰ってくるかもしれない」
俺も無理やり笑って見せたが、その声はひどく上擦っていた。
交差点で一ノ瀬さんと別れ、俺は一人で葛城工務店へ戻った。
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同日、午後11時30分。
俺は暗い自室のベッドに横たわり、天井の木目を睨みつけていた。
首を振る扇風機の音だけが、やけに大きく耳に響く。目を閉じると、片方だけ落ちていたひまわりのサンダルと、滅茶苦茶に荒らされた部屋の光景がフラッシュバックして、呼吸が浅くなる。
ブブブッ、ブブブッ。
枕元に放り投げていた携帯電話が、唐突に震えた。
俺は弾かれたように身を起こし、画面を開く。
新着メール。差出人は『北条美咲』。
『ごめん、今工務店の前にいる』
俺は携帯を握りしめ、階段を転げ落ちるように一階へ向かった。
工務店の引き戸を勢いよく開け放つ。
生ぬるい夜風の中、街灯の薄暗い光の下に、彼女は立っていた。
「……美咲!」
俺が駆け寄ると、美咲はビクッと肩を揺らし、ゆっくりと顔を上げた。
服が破れているわけでも、目立った外傷があるわけでもない。だが、片足は裸足のままで、足の裏からふくらはぎにかけて、酷く泥で汚れていた。
「お前、今までどこにいたんだよ! 靴も片方落ちてるし、部屋の中滅茶苦茶で……!」
「湊……」
美咲は俺の顔を見た瞬間、糸が切れたようにへたり込んだ。俺は慌てて彼女の肩を支える。
いつも太陽みたいに眩しかった瞳が、ガラス玉のように虚ろに濁っていた。
「家の近くまで帰ったら……黒い服の男の人が、私の部屋の窓を割って入っていくのが見えて……」
美咲は、ガタガタと震える手で自分の腕を抱きしめた。
「目が、合っちゃったの。……怖くて、無我夢中で逃げた。途中で転んで靴も脱げちゃって、でも止まれなくて……ずっと、神社の裏の暗い茂みに隠れてた。怖くて、一歩も動けなくて……」
なるほど、それで泥だらけだったのか。
俺は奥歯を噛み締めた。どれだけの時間、こいつは一人で暗闇の中で震えていたんだ。
「分かった。よく無事で帰ってきた。……今すぐ警察に行こう。ご両親も一ノ瀬さんも死ぬほど心配してる。パトカーも来てるから――」
「嫌だッ……!!」
美咲が、弾かれたように俺の腕を強く振り払った。
俺は驚いて目を見開いた。
「なんでだよ、お前を狙ってる奴が部屋に入ったんだぞ! 早く警察に保護して――」
「嫌だ! 絶対に行かない! お願い、嫌だ……ッ!」
美咲は両手で耳を塞ぎ、首を激しく横に振った。理屈も何もない、ただ何かに酷く怯えきった、異常なほどの拒絶だった。
何を言っても、彼女は「嫌だ」と繰り返して泣きじゃくるばかりだ。
俺は、それ以上強く問い詰めるのを諦め、深く息を吐き出した。
「……分かったよ。無理にとは言わない」
「……っ、湊……」
「とりあえず、一ノ瀬さんとお前の親には『俺と一緒にいて無事だ』って連絡だけ入れとく。今夜は二階のソファで寝ろ。……でも、明日の朝になったら、絶対に俺と一緒に警察に行って『被害届』を出すんだ。それならいいな?」
俺の言葉に、美咲はビクッと肩を震わせた後、ゆっくりと、力なく頷いた。
「……うん。ありがとう、湊」
美咲は涙を拭い、ひどく無理をして作ったような笑顔を浮かべた。
その目に映るのは、底知れぬ闇だった。




