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ゴースト・ライセンス―その「殺人」は、被害者を救う―  作者: あおいろぱりお
第二章 Original Sin

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第二十三話 無

 2004年8月4日。

 運命の日まで、あと9日。

 午前7時30分。市立第二小学校前の通学路。


 茹だるような真夏の太陽が、アスファルトを容赦なく照りつけていた。

 けたたましい蝉時雨の中、徹夜明けの阿久津誠二は、通学路のガードレールの脇に立ち尽くしていた。

 無精髭は伸び放題で、スラックスはシワだらけ。目は血走り、呼吸は浅く荒かった。


 昨夜、Kからの電話が切れた後。

 阿久津は狂ったように自宅へ車を走らせた。妻は泣き崩れ、彩花は明け方近くになって、家の前の路上に「置き去りにされる」形で無事に解放された。身体的な傷は一つもなかった。

 妻が彩花をなだめ、何事もなかったかのように学校へ送り出した後、阿久津は署に戻るふりをして、この通学路に先回りしていた。

 自分の目で、確かな「現実」を見るために。


 やがて、黄色い通学帽の列の中に、見慣れた赤いランドセルを見つけた。


「……彩花」


 阿久津は歩道に膝をつき、駆け寄ってきた娘の小さな体を力任せに抱きしめた。

「……彩花、怪我は……痛いところはないか」

「ぱぱ、くるしいよ」

 彩花は困ったように笑ったが、阿久津の腕の中にあるその背中は、微かに震えていた。

「あのね、まっくらな車のおじちゃんが、ぱぱに伝えてって」

 彩花の大きな瞳に、ふと、7歳の子供には不釣り合いな暗い恐怖がよぎる。

「『いいこでおやくそくをまもれば、みんなたすかるよ』って。……ぱぱ、おやくそくって、なに?」

 阿久津の心臓が、冷たい手で鷲掴みにされた。

 この子は、一生消えない恐怖の底で、得体の知れない怪物の「声」を聞いたのだ。

「……ああ。パパが、大事な約束をしたんだ。もう大丈夫だぞ」


 阿久津は、引き攣る頬を無理やり持ち上げて笑った。

「ほら、友達が待ってる。気をつけて行けよ」


 彩花は小さく頷き、阿久津から離れた。

 数歩歩いてから、振り返る。


「バイバイ、パパ!」


 太陽の下で、娘が満面の笑みで手を振った。

 その無邪気な笑顔を見た瞬間――阿久津誠二の中で、張り詰めていた鋼の糸が、音を立ててプツリと切れた。


 (……俺は、この笑顔を天秤にかけることなんてできない)


 市民の安全。警察の誇り。刑事の正義。

 そんなものは、この小さな体が一晩味わった恐怖に比べれば、ただのゴミクズだ。

 阿久津は、遠ざかる赤いランドセルを見送ったまま、アスファルトに膝をつき、両手で顔を覆った。


 刑事・阿久津誠二が死に、ただの「父親」になった瞬間だった。


----------×--------------------×--------------------×


 同日、午前8時15分。

 所轄署、刑事課フロア。


 朝礼前の慌ただしいフロアを抜け、阿久津は剣崎係長のデスクの前に立った。

 剣崎は、手元の決裁書類に判子を押し続けている。


「……剣崎係長。一つ、ご報告が」

「なんだ、阿久津。手短にな」


 阿久津は、乾ききった唇を舐めた。


「駅前の不審者情報の件ですが。……これ以上の捜査は不要と判断しました。パトロールの強化リストから、北高の生徒(北条美咲)の重点警護を外してください」

「……」

「本件から、手を引かせていただきます」


 フロアの空調の音だけが響いた。

 阿久津は、怒鳴られる覚悟をしていた。あるいは「急にどうした」と問い詰められることを。

 だが、剣崎は書類から目を離さず、判子を押す手も止めなかった。


「……そうか」


 ただ、一言。

 それだけだった。

 理由も聞かず、驚きもせず、まるで「最初からそうなること(阿久津が降りること)」を知っていたかのような、ひどく事務的なトーン。


 阿久津の背筋に、氷を滑らせたような悪寒が走った。

 『あなたを包んでいる警察という「システム」そのものが、すでに私の手の中にあります』

 昨夜の、Kの声が脳内で再生される。


 剣崎がKの息がかかった内通者なのか、それとも上層部から「阿久津が降りると言ったらそのまま受理しろ」という圧力が下りてきていたのか。どちらかは分からない。

 だが、俺の敗北すらも、この署内では「既定路線」だったのだ。

 阿久津は深く一礼し、自分のデスクに戻った。


 机の上には、昨夜、自分が徹夜で書き上げた「8月13日の警備計画書」と、見取り図が置かれている。

 阿久津はそれを無造作に束ねると、デスクの下のゴミ箱へ放り投げた。


 最後に残ったのは、満面の笑みを浮かべる北条美咲の写真だった。

 彼女は何も知らない。

 「阿久津さんが守ってくれるから安心だ」と、俺を信じ切って、夏祭りの夜に向かって笑っている。


 (……すまねえ。俺は、お前を見殺しにする)


 阿久津は、自分の下した決断を「正しいことだ」とは一秒たりとも思わなかった。

 大義名分もない。自己正当化もしない。

 ただ、自分は他人の娘よりも、自分の血を分けた娘を選んだ、卑怯で最低な大人なのだと、その重い罪悪感だけを肺の奥に飲み込んだ。


 阿久津は、指先を震わせながら、美咲の写真に手を伸ばした。

 そして、その笑顔を見つめ返すことができず、静かに、写真を裏返した。


 窓の外では、今日もけたたましく蝉が鳴き続けている。

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