第二十二話 紅紫色の闇に包まれて
2004年8月3日。
運命の日まで、あと10日。
午前2時15分。所轄署、刑事課フロア。
深夜の警察署は、ひどく静かだった。
当直の若手刑事が数人、パイプ椅子を並べて仮眠をとっている寝息と、古びたエアコンの駆動音だけが響いている。
その薄暗いフロアの片隅で、阿久津誠二のデスクのデスクランプだけが点灯していた。
紫煙が立ち昇る。
阿久津は、灰皿に置いたハイライトから目を離し、目の前のホワイトボードを睨みつけていた。
そこには、上層部によって「事件性なし」として処理された、あの廃ビルの見取り図や、独自に集めた不審車の目撃情報、そして北条美咲の通学ルートがピンで留められている。
「……見えたぞ、クソ野郎ども」
阿久津は、充血した目で低く唸った。
点と点が、完璧な線として繋がったのだ。
犯人の行動パターン。下見の周期。マーキングの法則。その全てが、ある一つの「特異日」に向けて収束している。
8月13日。
駅前商店街から河川敷までを巻き込む、市内で最も大規模な夏祭り。そして、花火大会。
数十万人が密集し、警察の警備網が完全に飽和するその夜。
犯人(吸血鬼)は、その喧騒と暗闇を利用して、北条美咲を「狩る」つもりだ。
阿久津は赤の油性マーカーを手に取り、カレンダーの『13日』に乱暴に丸をつけた。
上層部が動かなくとも関係ない。日程と狙いが分かれば、対処はできる。
当日は非番の警官や信頼できる同僚を総動員して、美咲の周囲を私服警官で完全に囲い込む。餌に群がってきたホシを、一網打尽にすくい上げる。
勝てる。
刑事としての阿久津の執念が、得体の知れない怪物の喉元に、確かに刃を突きつけた瞬間だった。
その時。
阿久津のスーツの胸ポケットで、携帯電話がマナーモードの振動を始めた。
署の支給品ではない。プライベート用の、折りたたみ式携帯だ。
「……こんな時間に、誰だ」
液晶画面を見る。
表示されているのは『非通知設定』の文字。
阿久津は眉をひそめ、通話ボタンを押して耳に当てた。
「……阿久津だ」
返事はない。
ただ、電話の向こうから、車のロードノイズのような低い音と、微かな「しゃくりあげるような声」が聞こえた。
『……ぱぱ……?』
阿久津の心臓が、ドクン、と嫌な音を立てて跳ねた。
全身の毛穴が粟立つ。
「……彩花か? 彩花なのか!? どうした、ママは……」
『ぱぱ、こわいよぉ……まっくらで、おじちゃんが……』
「おい! どこにいる彩花!!」
阿久津が思わず立ち上がった、その瞬間。
ノイズが走り、電話口の声が切り替わった。
『――夜分遅くに申し訳ありません、阿久津刑事。少しだけ、お嬢さんを夜のドライブにお連れしています』
スピーカーから流れてきたのは、異常なほど丁寧で、静かで、冷徹な男の声だった。
ボイスチェンジャーを使っているのか、年齢も感情も一切読み取れない。
ただ、その声の奥底には、人間を人間とも思っていない絶対者の「傲慢さ」が張り付いていた。
「きさま……何者だ。娘に指一本でも触れてみろ、地の果てまで追い詰めてぶち殺すぞ!!」
阿久津は声を殺しながらも、獣のような殺気を放って呻いた。
『まあまあ、そう興奮なさらないでください。……三列後ろのデスクで仮眠をとっている、松田刑事が起きてしまいますよ』
阿久津の呼吸が、ピタリと止まった。
『それに、あなたが今飲んでいる微糖の缶コーヒーがこぼれて、せっかくあなたが書き上げた「8月13日の警備計画」のメモが汚れてしまいます』
阿久津は、弾かれたように周囲を見回した。
誰もいない。松田刑事は三列後ろで寝ている。フロアの入り口にも、窓の外にも、誰も。
警察署の内部。捜査一課のフロア。
セキュリティゲートを越えなければ入れないこの密室で、こいつは『今』、俺の行動を完全に監視している。
監視カメラへのハッキングか、あるいは、すぐそばに「内通者」がいるのか。
「……お前……『K』か……」
阿久津の喉から、乾いた音が漏れた。
『あなたが素晴らしい刑事だということは、私も高く評価しています。だからこそ、敬意を表して直接お願いに上がりました』
電話越しの声は、まるで世間話でもするかのように優雅だった。
『8月13日。あの少女の護衛から、手を引いてください。あなたの書いたその警備計画も、今すぐシュレッダーにかけていただきたい』
「……ふざ、けるな。俺がそんな要求を呑むと……」
『呑むしかありませんよ、阿久津誠二』
Kの言葉が、冷たい刃となって阿久津の首筋に突きつけられた。
『あなたという「優秀な個」がどれほど足掻こうと、あなたを包んでいる警察という「システム」そのものが、すでに私の手の中にあります。……証拠に、今から10秒後、あなたのデスクの内線電話が鳴ります』
「……は?」
10、9、8……。
Kがカウントダウンを始める。
冗談だろ。ここは警察署のど真ん中だぞ。
3、2、1。
ジリリリリリリリッ!!!
静まり返ったフロアに、阿久津のデスクの内線電話のベルが、けたたましく鳴り響いた。
仮眠をとっていた松田刑事が「ん……電話……」と寝返りを打つ。
阿久津は震える手で、内線の受話器を取った。
『夜間警備室です。……あの、阿久津さん宛てに、正門に「落とし物」が届いていまして。赤いランドセルなんですけど……』
阿久津の手から、受話器が滑り落ちた。
ガチャン、と無機質な音を立ててデスクに転がる。
右手の携帯電話からは、Kの静かな声が続いていた。
『ご理解いただけましたか? あなたの正義は、私の盤面の上では何の役にも立たない。……お返事は、明日の朝8時までに。あなたが賢明な父親であることを祈っています』
プツン。
通話が切れた。
ツーツーという電子音だけが、阿久津の耳に虚しく響き続けている。
勝てない。
こんな化け物を相手に、俺の腕っぷしや正義感だけで、どうやって勝てというんだ。
一歩でも動けば、彩花が殺される。
だが俺が動かなければ、美咲ちゃんが殺される。
デスクランプに照らされたホワイトボード。
そこに貼られた、満面の笑みを浮かべる北条美咲の写真。
阿久津は、右手に携帯電話を持ったまま、ただその写真を虚ろな目で見つめていた。
左手の指先に挟まれたハイライトから、長く伸びた灰が、ボロボロと音もなくデスクの上に崩れ落ちた。
最強の刑事が、ただの「無力な父親」へと引きずり下ろされた、絶望の夜だった。




