第二十一話 紫電一閃
2004年、7月25日。
運命の日まで、20日を切った。
夏休みに入って最初の週末。葛城工務店。
俺が親父の仕事場からくすねたモーターと廃材で「全自動かき氷機(初号機)」を組み立てていると、店先に珍しい客が現れた。
一ノ瀬玲奈さんだ。
いつもの制服姿ではない。白いワンピースに麦わら帽子。
まるで避暑地から抜け出してきたお嬢様のような出で立ちに、俺は持っていたドライバーを取り落としそうになった。
「……また暇になったんですか? 今日はMD壊れてないでしょうね」
俺は軽口を叩きながら手を止めた。
もう彼女がここに来るのは日常になりつつある。
だが、今日の彼女はいつものように笑わなかった。
「違うの。今日は……仕事の依頼に来たの」
彼女は周囲を警戒しながら、声を潜めた。
「『技術屋』としてのあなたに、力を貸してほしいの」
大層な言い方だが、要するに「ICレコーダーのノイズ除去」と「鍵開け」の相談だった。
俺は呆れて溜息をついた。
「で、そんなことして何をする気なんです?」
「証拠を撮るの。……北条さんが言ってた『視線』や『メモ』、やっぱりおかしいわ。ただの悪戯じゃない」
一ノ瀬さんは真剣だった。
美咲が笑って誤魔化した不安を、彼女だけはずっと考えていたのだ。
「駅裏の旧雑居ビルに、最近不審な男が出入りしてるって噂があるの。美咲さんの家の方向と合致するわ。……警察に通報したけど『事件性がない』って動いてくれない。だから私が確かめる」
「はあ? バカなんですか? 相手がもし本当に『吸血鬼』だったら、殺されますよ」
俺は即座に却下した。
正義感が強すぎる。この優等生は、俺の言葉を真に受けて、変な方向に勇気を出してしまっている。
「でも、放っておけない。……私、あの子に笑っていてほしいから」
その時。
ガララッ! と勢いよく扉が開いた。
「湊ー! 海行こ海ー! ……って、あれ?」
噂の本人、北条美咲だ。
浮き輪を首からかけ、サングラスを頭に乗せている。完全なバカンス装備だ。
美咲は俺と、お嬢様ルックの一ノ瀬さんを交互に見て、大きな瞳をパチクリさせた。
「あ、一ノ瀬先輩! ……また湊と密会?」
「ち、違うわよ! 捜査会議よ!」
「捜査? なになに、面白そう!」
美咲が食いついた。
一ノ瀬さんが渋々事情を話すと、美咲の目がキラキラと輝き出した。
「肝試しじゃん! 行こうよ湊! その吸血鬼退治!」
「退治じゃねえよ。……ああもう、わかったよ! 俺がついていくから無茶するな!」
結局、海に行くはずだった予定は変更され、俺たちは三人で駅裏の廃ビルへ向かうことになった。
これが、最初で最後の「探偵ごっこ」になるとも知らずに。
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同日、午後4時00分。
駅裏、旧雑居ビル。
湿ったカビの臭いが鼻をつく。
立ち入り禁止のロープをくぐり、俺たちは薄暗い階段を登っていた。
先頭は懐中電灯を持った美咲。最後尾は俺。真ん中で一ノ瀬さんが震えている。
「ちょ、ちょっと北条さん、早いわよ……」
「えー? 先輩が言い出したんでしょ? ほら、ここが怪しい部屋!」
美咲が3階の奥まった部屋のドアを指差す。
錆びついた鉄扉。鍵がかかっている。
一ノ瀬さんが俺を見た。
俺はため息をつき、ポケットからピッキングツールを取り出した。
「……今回だけですよ」
カチャリ。数秒で解錠。
俺の技術は、こういう「侵入」のために磨いたわけじゃないんだが。
ギギギ……と蝶番が鳴き、ドアが開く。
その瞬間、強烈な異臭が俺たちを襲った。
腐った弁当、タバコの吸殻、そして何とも言えない獣のような体臭。
「うっ……くさ」
美咲が鼻をつまんで中に入る。
室内には、生活の痕跡があった。散乱したカップ麺の容器。ボロボロの毛布。
そして――壁一面に貼られた、無数の写真。
「……なに、これ」
一ノ瀬さんが息を呑む。
写真は全て「盗撮」だった。
望遠レンズで撮られたであろう、街を歩く女子高生、公園で遊ぶ子供。
だが、その中でも異様に枚数が多い被写体があった。
「……美咲?」
俺は戦慄した。
通学路、教室の窓際、体育に励む姿、そして俺と歩いている後ろ姿。
数百枚はあるだろうか。
写真の中の美咲の首元には、全て赤いマーカーで×印がつけられていた。
「嘘……私?」
美咲の顔から血の気が引く。持っていた浮き輪が、手から滑り落ちた。
ここはホームレスの寝床じゃない。
獲物を物色し、解体する日を夢見る捕食者の巣だ。
そして、ターゲットは明確に美咲だ。
「逃げるぞ! 今すぐ!」
俺が叫んだ、その時だった。
コツ、コツ、コツ。
階段を登ってくる、重い足音が聞こえた。
帰ってきたのだ。この部屋の主が。
俺たちは袋小路のネズミだった。
「隠れろ!」
俺は二人を押し込み、錆びついたロッカーの陰に身を潜めた。
足音が近づく。ドアが開く。
獣のような荒い息遣いが、すぐそこまで迫る。
見つかる。殺される。
俺は震える手で、近くにあった鉄パイプを握りしめた。
もし入ってきたら、俺が盾になるしかない。
震える美咲の手を、一ノ瀬さんが強く握り返しているのが見えた。
二人とも、声を殺して泣いている。
男の影が、部屋の中央に伸びる。
心臓が破裂しそうだ。
「……おい」
頭上から、低くドスの効いた声が降ってきた。
ロッカーが乱暴に開けられる。
俺は死を覚悟して鉄パイプを振り上げた。
だが、そこに立っていたのは「吸血鬼」ではなかった。
鬼のような形相をした、阿久津誠二だった。
「……何やってんだ、ガキ共ォッ!!!」
阿久津の怒号が、ビル中に響き渡った。
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同日、午後6時00分。
駅前のラーメン屋『珍来』。
俺、美咲、一ノ瀬さんの三人は、カウンター席で小さくなっていた。
目の前には特製チャーシューメン。湯気が顔にかかる。
隣には、イライラと貧乏ゆすりをしながらタバコを吹かす阿久津。
「……食え。伸びるぞ」
「は、はい……」
俺たちは恐る恐る麺を啜った。
阿久津は、不審者情報のパトロール中に俺たちがビルに入るのを見かけ、慌てて追いかけてきたらしい。
あの部屋にいた「誰か」は、阿久津の接近を察知して、俺たちと入れ違いで逃げた後だった。
「いいか、二度とあそこには近づくな。写真の件は俺が処理する。鑑識も入れる」
阿久津の声は低かったが、ビルで怒鳴った時のような怒りは消えていた。
その代わりにあるのは、深い安堵と、隠しきれない焦燥だった。
「お前らが見たのは、大人の世界の汚い部分だ。……そんなもん、まだ見なくていい」
阿久津は俺のチャーシューを一枚奪って食べた。
そして、まだ青ざめている美咲の頭を、乱暴に、しかし優しく撫でた。
「狙われてるのはお前だ、お嬢ちゃん。……祭りの日は俺が必ず護衛についてやる。だから安心して学校へ行け」
美咲が泣きそうな顔で頷く。
一ノ瀬さんは、箸を握りしめて言った。
「阿久津刑事……警察は、動いてくれるんですか? あんな証拠があるのに」
「俺が警察だ。俺が動く」
阿久津はニヤリと笑った。
「組織なんざアテにならん。だがな、俺はこの街のガキを守るためなら、規則だって破るぞ」
その言葉に、俺たちは救われた気がした。
この人がいれば大丈夫だ。
最強の刑事で、ちょっと乱暴だけど優しいおじさん。
「ごちそうさまでした!」
美咲がようやく元気を取り戻して言った。
俺たちは店を出た。
夕焼けが街を赤く染めている。
帰り道。
一ノ瀬さんがボソッと言った。
「……怖かったけど、ちょっと楽しかった、かも」
「え?」
「三人で協力して、阿久津さんに助けてもらって……なんか、チームみたいで」
一ノ瀬さんが初めて見せた、年相応の照れ笑い。
美咲が「わかる!」と玲奈さんの腕に抱きつく。
「じゃあさ、今度の夏祭りも三人で行こうよ! 阿久津さんも誘ってさ!」
「ええっ? 阿久津さんは仕事中よ」
「いいじゃん! ね、湊も行くでしょ?」
美咲のキラキラした瞳と、一ノ瀬さんの期待に満ちた視線。
俺は頭をかいた。
「……わかったよ。荷物持ちくらいはしてやる」
二人が歓声を上げる。
このアスファルトに揺れる陽炎のように、実体のない、けれど確かな温かさを持った時間。
俺たちは、この時が「青春の頂点」だと気づいていなかった。
そして、その陽炎が消えた後に残るのが、冷たい現実だけだということも。
去り際、阿久津が俺にだけ耳打ちした言葉を、俺はまだ理解できていなかった。
『……もしもの時は、お前が二人を守れ』
その背中が、夕闇の中で微かに震えていたことに、俺たちはまだ気づけなかった。




