第二十話 紺屋の明後日
2004年、7月22日。
運命の日まで、あと三週間。
夏休みに入って数日後。葛城工務店、資材置き場。
工場の扇風機が、生ぬるい風をかき混ぜている。
俺、葛城湊は、親父に言いつけられた廃材の整理をしていた。
油と木の匂いが充満する作業場。
入り口の引き戸が遠慮がちに開き、制服姿の少女が顔を出した。
「……あの、葛城くん」
一ノ瀬玲奈さんだ。
手には、先日俺が修理したMDプレーヤーが握られている。
彼女は少し躊躇った後、意を決したように顔を上げた。
「その……またここに来ても、いいかな?」
その瞳は不安げに揺れていた。
家に居場所がない優等生が、必死に探り当てた避難所。それを拒絶されることを恐れている目だ。
俺は軍手をしたまま、無愛想に答えた。
「別にいいですけど。ここは油臭いし、埃っぽいですよ」
「ううん、それがいいの。……ここは息ができるから」
彼女が安堵の表情を浮かべた、その時だ。
背後から元気な声が飛んできた。
「もっちろん! 大歓迎ですよ玲奈先輩!」
北条美咲だ。
いつの間にか俺の後ろに回り込んでいた彼女は、ニカッと笑って玲奈の手を引いた。
「よし、決まり! 今日からここ、私たちの『秘密基地』ね!」
「秘密基地……?」
「そう! 学校でも家でもない、大人に見つからない場所。……なんかワクワクしません?」
美咲の無邪気な強引さに、一ノ瀬さんが目を丸くし、やがて小さく吹き出した。
「ふふ、そうね。……秘密基地、いい響きだわ」
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それから数時間後。
俺たちは資材置き場の中二階にある、今は使われていないロフトスペースを占拠していた。
廃材で作った即席のテーブル。拾ってきたソファ。
西日が差し込み、舞い上がる埃さえも黄金色に輝いている。
「湊、これ何?」
ソファでアイスを食べていた美咲が、俺の手元を覗き込む。
「ジャンク品のラジオだ。コンデンサがいかれてたから交換した」
俺がスイッチを入れると、ノイズの向こうから軽快な音楽が流れてきた。
ORANGE RANGEの『ロコローション』。
この夏のヒット曲だ。
「あ、これ好き! テンション上がるー!」
美咲がリズムに合わせて身体を揺らす。
隣に座る一ノ瀬さんも、最初はぎこちなかったが、次第に緊張が解けたように微笑んだ。
その笑顔は、学校で見せる優等生の仮面とは違う、年相応の少女の顔だった。
「……こんな風に笑ったの、久しぶりかも」
一ノ瀬さんがポツリと呟いた。
美咲がアイスの棒を咥えたまま笑う。
俺はハンダごてを握りながら、その光景を眺めていた。
油の匂い。炭酸の抜ける音。ラジオのノイズ。
学校の序列も、家の事情も関係ない。
ただの「湊」と「美咲」と「玲奈」でいられる時間。
(ずっと、続けばいいのに)
柄にもなく、そんなことを思った。
この青い夏が、永遠に続いてくれればいいと。
だが。
その幸福な時間は、美咲の何気ない一言でひび割れた。
「……そういえばさ」
美咲がふと思い出したように言った。
「最近、誰かに見られてる気がするんだよね」
ラジオの音楽だけが陽気に響く中、空気が一瞬止まった。
俺は手を止めて美咲を見た。
「見られてるって……誰に?」
「わかんない。でも、登下校中とか、あと家の前とかで……背中がゾワゾワするっていうか」
美咲は自身の二の腕をさすった。
「気のせいだろ。お前、目立つからな」
「そうかなぁ? でも、学校の下駄箱にね、変なメモが入ってたりもするんだよ」
「メモ?」
一ノ瀬さんが身を乗り出した。
「どんな?」
「うーん、なんかね。『今日も可愛いね』とか『髪切った?』とか。……名前は書いてないんだけど」
美咲は苦笑いをして見せたが、その瞳の奥には微かな怯えがあった。
俺と一ノ瀬さんは顔を見合わせた。
気持ち悪いが、美咲は学校のアイドル的存在だ。隠れファンからのイタズラという可能性も高い。
「……ただの悪ふざけじゃない? 北条さん、人気あるし」
玲奈が努めて明るく言うと、美咲も「だよねー! 考えすぎか!」と笑い飛ばした。
俺たちはその話題を打ち切り、再び花火大会の話に戻った。
深刻になりたくなかったのだ。
せっかく手に入れたこの完璧な聖域を、不気味な話で汚したくなかった。
だから、俺たちは気づかなかったふりをした。
いや、全てを気づけるほど俺たちはまだ大人じゃなかったんだ。
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午後6時30分。
日は傾き、空がどす黒い赤に染まり始めていた。
「じゃあね! また明日!」
美咲が工務店の前で手を振り、自転車に跨った。
一ノ瀬さんも「気をつけてね」と微笑んで見送る。
俺はシャッターを下ろしながら、なんとなく胸騒ぎがして美咲の背中を目で追った。
美咲の自転車が、夕闇の路地へと消えていく。
そのサドルの後部。
革がめくれた小さな傷があった。
美咲自身も気づいていない、カッターナイフで切りつけられたような鋭利な傷跡。
まるで「ツバ」をつけるかのような、執拗で粘着質なマーキング。
秘密基地の外にある電柱の影。
そこには、誰もいなかった。
だが、アスファルトの上には、吸い終わったばかりのタバコの吸殻が、じりじりと燻りながら落ちていた。
俺たちの夏は、もうすでに「彼」の掌の上にあったのだ。




