第二話 コーヒーと女刑事
2014年、8月14日。
お盆の中日。街が帰省客で静まり返る中、俺の作った「殺人現場」だけが、テレビの中で熱狂を生んでいた。
正午。
俺は表向きの城である「葛城リフォーム」の事務所で、昨日使用した「加圧式噴霧器」のノズルを分解洗浄していた。
業務用の次亜塩素酸ナトリウムに浸し、DNAはおろか、タンパク質の構造すら破壊する。
このノズルは、本来は防蟻剤(シロアリ駆除剤)を床下に撒くためのものだ。まさか昨夜、人間の動脈血を壁に撒き散らしたとは、メーカーも思うまい。
証拠隠滅を終え、俺がコーヒー豆を挽き始めた時だった。
カランカラン。
ドアベルが鳴った。
「……いらっしゃいませ」
俺は「人の良さそうな店主」の仮面を被り、顔を上げた。
そこに立っていたのは、目の下に濃い隈を作ったスーツ姿の女性――一ノ瀬玲奈だった。
「あら、ごめんなさい。お昼休憩中だった?」
「いや、暇してましたよ。……ひどい顔ですね、一ノ瀬さん」
「失礼ね。徹夜明けのレディに向かって」
彼女はふらりとカウンターに近づき、いつもの丸椅子に腰を下ろした。
県警捜査一課のエース。
俺が最も警戒すべき天敵であり、皮肉なことに、この店の一番の常連客だ。
「コーヒー、淹れますよ。いつものでいいですか」
「ええ、お願い。ミルク多めで。……あと、砂糖も二つ入れて。頭が回らないの」
「……一応言っておきますけど、ウチは喫茶店じゃないんですよ」
「知ってるわよ。でも、署のコーヒーは泥水みたいで飲めたもんじゃないの。あなたの淹れるコーヒーじゃないと、目が覚めないのよ」
やれやれ、と俺は肩をすくめた。
彼女がここに来るのは、仕事の愚痴をこぼすためか、あるいは俺にリフォームの専門知識(という名目の捜査協力)を求めるためだ。
今日はどうやら、その両方らしい。
「昨日のニュース、見ましたか?」
「ああ、あのアパートの事件ですか」
俺はハンドドリップでお湯を注ぎながら、何食わぬ顔で答えた。
ペーパーフィルターの中で、粉がふっくらと膨らむ。
「ええ。現場検証が難航してるの。私が指揮を執ってるんだけど……お手上げよ」
「犯人が見つからない?」
「犯人どころか、指紋ひとつ落ちてないのよ」
彼女はカウンターに突っ伏したまま、恨めしそうに言った。
「おかしいと思わない? あんなに派手に血を撒き散らして、部屋中をめちゃくちゃに暴れ回った形跡があるのに、犯人の足跡ひとつ、毛髪一本落ちてないなんて」
「……用意周到なプロなんでしょうね」
「プロ? いいえ、あれは異常者よ」
玲奈は顔を上げ、俺を真っ直ぐに見た。
その瞳の奥にある鋭い光に、俺は心臓を鷲掴みにされたような錯覚を覚える。
「被害者の女性の遺体が見つからない。運び出された形跡もない。まるで、最初からそこに誰もいなかったみたいに、煙のように消えてるの」
「……怖いですね」
「ええ。でもね、葛城くん」
彼女はスマホを取り出し、画面を俺に向けた。
そこには、俺が昨夜作り上げた「作品」――血まみれのリビングの写真が映っていた。
「この壁の血痕を見て。どう思う?」
試されているのか?
俺は慎重に言葉を選んだ。
「……ひどい惨状ですね。怨恨ですか?」
「そう見えるでしょ? でもね、鑑識課長が首を傾げていたわ。『臭いが変だ』って」
俺の手が、一瞬止まりかけた。
「臭い?」
「ええ。現場は血の海で、鉄錆のような臭気が充満していたわ。でもね、血だまりの『表面』と『奥』で、成分の劣化具合が違う気がするって」
――そこまで嗅ぎ分けるか。
俺は背中に冷たいものが走るのを感じた。
ベースに使った廃棄血液と、トップコートに使った新鮮な血液。そのわずかな鮮度の差を、現場の嗅覚で感じ取ったというのか。
「……血が乾く時間の差じゃないですか? 最初に流れた血と、最後の方に流れた血とか」
「そうかもしれない。でも、鑑識官は『まるで古いペンキの上に、新しいニスを塗ったみたいだ』って言ってたわ」
俺は平静を装い、コーヒーカップを彼女の前に置いた。
「考えすぎじゃないですか? 刑事さんの悪い癖ですよ」
「そうね……。今はDNA鑑定の結果待ちよ。まあ、数日はかかるけど」
数日。
その言葉に、俺は内心で安堵のため息をついた。
2014年の今、DNA鑑定には時間がかかる。その間に、依頼人は国外へ逃げおおせる。
鑑定結果が出て「他人の血が混ざっているかもしれない」と気づく頃には、もう手遅れだ。
「ねえ、リフォーム屋さんの視点で教えて。もしあなたが、この部屋から死体を運び出すとしたら、どうやる?」
彼女はコーヒーを受け取りながら、上目遣いで俺を見た。
無邪気な問いかけ。
だが、その質問は核心を突いている。
俺は、ここで嘘をつきすぎると怪しまれることを知っている。
あえて、少しだけ専門的な知識を披露する方が信頼を得られる。
「俺なら……そうですね。業務用のブルーシートで部屋全体を養生しますかね。それから、遺体を解体するより、家具の中に隠して運び出すかも。タンスとか、冷蔵庫とか」
「なるほど、家具ごと移動させるフリをして……。盲点だったわ」
彼女は手帳を取り出し、サラサラとメモを取った。
俺のアイデアが、俺を追い詰めるための捜査資料になっていく。
「ありがとう、参考になったわ。やっぱり餅は餅屋ね」
「お役に立てて光栄です。……でも、ほどほどに休んでくださいよ。犯人を捕まえる前に、あなたが倒れたら元も子もない」
それは本心だった。
彼女には笑っていてほしい。
俺という悪党を追いかけることで、彼女が傷つくのは見たくない。
「優しいのね、葛城くんは」
彼女は少しだけ頬を緩め、コーヒーを飲み干した。
「この犯人、絶対に許さない。被害者の女性、まだ24歳だったのよ。未来があったはずなのに……こんな形で奪われるなんて」
彼女の拳が震えている。
違う、と言いたかった。
彼女は死んでいない。未来ならある。俺が用意した新しい土地で、新しい名前で、今頃怯えることなく暮らしているはずだ。
でも、それは口が裂けても言えない。
真実を言えば、彼女の安全が崩壊するからだ。
俺は黙って、空になったカップを下げた。
彼女は立ち上がり、スーツの襟を正した。
「ごちそうさま。美味しかったわ」
「またどうぞ。……あ、コーヒー代、ツケときますね」
「もう、ケチなんだから」
彼女は苦笑して出て行った。
カランカラン、という軽やかなベルの音が、やけに重く響いた。
ふぅ、と息を吐き出した時、ポケットの中の「仕事用携帯」が震えた。
非通知設定。
次の依頼だ。
タイミングが悪すぎる。今は動くべきじゃない。
無視しようとした指が、画面を見て止まった。
送られてきたショートメッセージには、短い文章と、一枚の画像が添付されていた。
『助けてください。殺されます』
画像には、傷だらけの幼い男の子が、暗い押し入れの中で膝を抱えている姿が写っていた。
背景には、高級そうな調度品が見える。
俺は舌打ちをした。
見て見ぬふりができれば、どんなに楽だろう。
だが、俺にはそれができない。
そのために、この呪われたライセンス(技術)を持っているのだから。
「……商売繁盛で結構なことだ」
俺は携帯を握りしめ、再び「掃除屋」の目に戻った。
警察の包囲網が狭まる中、次の現場は、さらに難易度の高い「密室」になりそうだ。




