第十九話 藍色の太陽
2004年、7月15日。
運命の日まで、一ヶ月を切った。
葛城工務店(湊の実家)。
湿気を帯びた風が、蚊取り線香の匂いを運んでくる。
親父が現場に出ている昼下がり、俺は作業場で扇風機の修理をしていた。
そこに、不釣り合いな客が現れた。
「……ごめんください」
一ノ瀬玲奈さんだ。
今日は制服姿だが、暑さのせいかスカーフを少し緩めている。
この炎天下の中迷ったのか、少し頬が赤い。
「一ノ瀬さん? どうしたんですか、わざわざ」
「あ、あのね……これ」
彼女が鞄から取り出したのは、ソニー製のポータブルMDプレーヤーだった。
かなり古いモデルだが、大切に使われているのがわかる。
だが、シェルの一部に、鋭利なもので無理やりこじ開けようとした無数の傷がついていた。
「読み込みエラーになっちゃって……。自分で直そうとしたんだけど、余計におかしくなっちゃって」
彼女は消え入りそうな声で言った。
「メーカー修理に出さないんですか? こじ開けたら保証対象外になりますよ」
「……出せないの」
彼女は視線を落とし、MDプレーヤーを強く握りしめた。
「親に知られたら、捨てられちゃうから」
「え?」
「うちは……勉強以外のものは『ノイズ』だから。音楽なんか聴いてる暇があったら参考書を開けって、父さんが……。これが見つかったら、今度こそ本当に壊される」
彼女の声が微かに震えていた。
県内トップの進学校。成績優秀な優等生。
だが、その言葉からは、家の中に彼女の「逃げ場」がないことが痛いほど伝わってきた。
このMDプレーヤーだけが、彼女が息を吸える唯一の場所なのかもしれない。
俺はため息をつき、それを受け取ろうとした。
その時、彼女がサッと左手を背中に隠したのが見えた。
「……手、どうしたんですか?」
「え? な、なんでもないわ」
「見せてください」
俺は作業台を回り込み、彼女の左手首を掴んだ。
彼女がビクリと震える。
強引に手を開かせると、人差し指の腹と親指の付け根に、ざっくりとした切り傷があった。化膿しかけていて、熱を持っている。
カッターか何かでこじ開けようとして、何度も滑らせた痕だ。
「なんでもなくないでしょう。……これ、結構深いですよ」
「だ、大丈夫よ。家に帰ったら消毒するから……」
「ダメだ。こんなに腫れてるのに」
俺は彼女を丸椅子に座らせると、MDプレーヤーを放置して、棚から救急箱を取り出した。
「ちょ、ちょっと葛城くん? 修理は……」
「機械は逃げませんけど、痛みは待ってくれないんで」
俺は消毒液を脱脂綿に含ませ、彼女の傷口を拭った。
しみるのか、彼女の指がぴくりと跳ねる。
俺は無言で軟膏を塗り、包帯代わりのガーゼとテープで丁寧に固定した。
彼女の手は、驚くほど冷たかった。
夏だというのに、血が通っていないみたいに。
「……ごめんなさい」
彼女が震える声で言った。
「私、不器用で……。勉強以外は何にもできなくて。直そうと思ったのに、壊して、怪我して……本当にバカみたい」
自分を卑下する言葉。
普段、親からそう言われ続けているのだろうか。「勉強以外は無価値だ」と。
俺はガーゼを留めるテープを切りながら、静かに言った。
「バカじゃないですよ」
彼女が顔を上げる。
「直そうとしたんでしょう? 自分の手でなんとかしようとした。……その気持ちがあるなら、失敗してもバカじゃありません」
俺は彼女の手を離した。
「あんたは不器用だけど、何もしてない奴よりずっとマシだ」
一ノ瀬さんの瞳が揺れた。
その目から、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。
「……え、あ……ごめん、私……」
「あー、泣かないでください。俺が泣かせたみたいになる」
俺は慌ててティッシュを箱ごと渡した。
彼女は涙を拭きながら、俺が巻いた包帯を愛おしそうに撫でた。
相当辛い生活を送っているのだろう。
「俺が一ノ瀬さんの家庭を直接どうにかすることは難しい」
「でもせめて、ここにいる間は全てを忘れて、ゆっくりしていってくださいね」
俺は精一杯の励ましをしたつもりだったが、彼女はさらに泣いてしまった。
(何かまずいことを言ってしまったか......?)
その後、俺は10分でMDプレーヤーを直した。
ゴムベルトを交換し、レンズを清掃するだけで、音楽は蘇った。
「……ありがとう。本当に」
彼女がイヤホンを耳にし、安堵の表情を浮かべたその時。
ガララッ!!
勢いよく引き戸が開き、元気の塊が飛び込んできた。
「湊ーーっ! アイス食べよーーっ!!」
美咲だ。
Tシャツに短パン、汗ばんだ肌。生きるエネルギーの塊のような笑顔。
美咲は俺と一ノ瀬さんを見て、ピタリと固まった。
その大きな瞳が、驚きと――何かを察知したように揺れる。
「あ……一ノ瀬先輩?」
「ほ、北条さん……」
一ノ瀬さんが、弾かれたように俺から距離を取った。
その表情が曇る。
光り輝く美咲と、日陰にいる自分。その対比に気圧されたように。
「なになにー? 湊、先輩と何してたの? ……あ、先輩泣いてる?」
「う、ううん! 目にゴミが入っただけ!」
「ふーん……」
美咲は俺たちの間に割って入ると、持っていたアイスを俺の口に強引に突っ込んだ。
「んぐっ……何すんだよ!」
「なに女の子泣かせてんの!……先輩も、アイス食べます?」
美咲がもう一本のアイスを差し出す。
その笑顔には裏表がない。だからこそ、孤独な人間には眩しすぎて、痛い。
一ノ瀬さんは苦笑しながら首を振った。
「ううん、私はいいわ。……お邪魔してごめんなさい。葛城くん、これ、修理代」
彼女は机の上に500円玉を置き、逃げるように店を出て行った。
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同日、午後6時30分。
駅裏の公園。
帰宅した一ノ瀬玲奈は、ベンチで一人、白い包帯を眺めていた。
家に帰りたくなかった。
帰ればまた、冷たい食卓と、成績の話しかない。
父にとって私は「自慢の娘」というトロフィーで、母にとって私は父の機嫌を取るための道具だ。
私が何を好きで、何に傷ついているかなんて、誰も興味がない。
でも、あの場所は違った。
油と木の匂いがする作業場。
ぶっきらぼうだけど、私の痛みに気づいてくれた男の子。
『俺が一ノ瀬さんの家庭を直接どうにかすることは難しい』
『でもせめて、ここにいる間は全てを忘れて、ゆっくりしていってくださいね』
その言葉が、あの眩しいほどの笑顔が、冷え切った心に熱い杭のように打ち込まれていた。
ジンジンとする傷の痛みが、生きていることを実感させてくれる。
(私、いていいのかな)
でも、あの場所には美咲ちゃんがいる。
太陽みたいに明るくて、まっすぐな彼女。
私みたいな、暗くて歪んだ人間が入り込む隙間なんて、ないのかもしれない。
「……はあ」
深いため息をついた時、ベンチの隣に誰かがドカリと座った。
タバコの匂い。
「ため息つくと幸せが逃げるぞ、優等生」
阿久津誠二だ。
ヨレヨレのスーツ姿で、缶コーヒーをあおっている。
この人だけだ。親でも教師でもなく、私を一人の人間として見てくれる大人は。
かつて、家出しかけた私を補導せずに、ラーメンを奢って話を聞いてくれた人。
「あ、阿久津さん……」
「なんだ、辛気臭い顔して。……また家でなんか言われたか?」
「……別に。いつものことです」
玲奈は膝を抱えた。
阿久津は彼女の手の包帯に気づき、眉をひそめた。
「怪我したのか?」
「……葛城くんに、手当てしてもらいました」
「あいつにか?」
阿久津は少し驚いた顔をして、それからニヤリと笑った。
「いい腕してんな、あいつ。包帯の巻き方が丁寧だ」
「……はい」
「で、惚れたか?」
阿久津の直球に、玲奈は顔を上げた。
「……わかりません。ただ、救われた気がしました。私が壊そうとしたものを、彼は直してくれて……私の失敗も、バカじゃないって言ってくれて」
これが恋なのか、ただの依存なのか、玲奈自身にもわからなかった。
ただ、もっと彼の傍にいたい。あの作業場の空気を吸っていたい。
でも、そこには太陽(美咲)がいる。
「私、あの二人の輪に入ってもいいんでしょうか。……邪魔じゃないかな」
弱音を吐く玲奈の頭に、阿久津の大きな手が乗った。
ゴツゴツしていて、温かい手。ちょっとタバコ臭いけれど。
父の手とは違う、守ってくれる大人の手。
「バカ野郎」
阿久津は優しく、彼女の髪をくしゃりと撫でた。
「お前は邪魔者なんかじゃねえよ。……居場所がないなら、自分で作ればいい。あいつらは拒絶なんてしねえさ」
阿久津の三白眼が、夕日に染まって優しく細められる。
「警察官になりてえんだろ? なら、まずは自分の心を確保しろ。……迷ってる暇があったら、踏み込め」
確保。踏み込む。
彼の言葉が、背中を押してくれた気がした。
「……はい」
阿久津は立ち上がり、空き缶をゴミ箱に放り投げた。
カコン、という音が響く。
「ま、たまには息抜きも必要だ。……今度、あいつら誘って飯でも行くか」
「えっ、いいんですか?」
「俺の奢りだ。……ただし、夜道には気をつけろよ。『吸血鬼』が出るからな」
阿久津はひらひらと手を振り、闇の濃くなり始めた街へと消えていった。
玲奈は胸元のMDプレーヤーと、包帯を握りしめた。
(踏み込んでみよう。……私も、あの場所へ)
彼女の中で、小さな勇気が芽生えた瞬間だった。




