第十七話 さようなら
2014年、8月19日 午後7時58分。
港湾地区、第9倉庫。
重厚な鉄扉が軋み、夜の底から這い出たような男が倉庫内に入ってきた。
黒いパーカーのフードを目深に被った男――吸血鬼だ。
彼は周囲を警戒しながら、中央のソファに歩み寄った。
そこには、毛布を頭から被り、小さく震えている(ように見える)人影があった。
男は口元を歪め、安堵と嘲笑が入り混じった息を吐いた。
「……ハッ、真面目に待ってやがったか」
男は警戒を解いた。ターゲットは恐怖で萎縮している。抵抗する気配もない。
簡単な仕事だ。
男は持参したポリタンクの蓋を開け、ドボドボと液体を撒き始めた。
鼻をつくガソリンの揮発臭が、瞬く間に倉庫内を充満していく。
天井の闇の中。
梁の上に潜む葛城湊は、暗視ゴーグル越しにその光景を見下ろしていた。
心拍数は平常。指先は冷え切っている。
(……いいぞ。もっと撒け)
吸血鬼が撒いているガソリンは、ソファに座るマネキンと、その足元に葛城が隠した「特製ナパーム剤(粘着燃料)」に浸透していく。
舞台装置は整った。あとは点火するだけだ。
「あばよ、刑事さん」
吸血鬼は空になった容器を放り捨て、オイルライターを取り出した。
カチン。小さな炎が揺れる。
男はそれを無造作に放り投げた。
炎が放物線を描く。
床のガソリンに着火するコンマ一秒前。
シュッ!
葛城はネイルガンの引き金を引いた。
圧縮空気の破裂音と共に放たれた釘が、天井に設置された「テルミット焼夷筒」の底を正確に撃ち抜く。
マグネシウム着火剤が発火した。
カッッッ!!
ライターの火など比較にならない、青白い閃光が天井から降り注いだ。
摂氏2500度。鉄すら蒸発させる熱の雨。
それが、ガソリンとナパーム、そして血液を吸ったマネキンに直撃する。
ズドオオオオオン!!
爆轟。
ソファを中心とした空間が、一瞬にして太陽の表面のように白熱した。
ボンドを混ぜたナパーム剤が爆発的に燃え上がり、対象にへばりつく。
マネキンは溶ける暇もなく気化し、体内に仕込まれたスマートフォン(GPS)もろとも、原子レベルで崩壊していく。
「うわあぁぁっ!?」
吸血鬼は凄まじい熱波に吹き飛ばされ、床を転がった。
顔を上げると、そこには地獄があった。
鉄骨が飴細工のようにぐにゃりと曲がり、溶け落ちてくる。
(ヤバい、死ぬ!)
男は本能的な恐怖に駆られ、這うようにして裏口へと走った。
車がある。ここから出なければ、自分も燃え尽きる。
男は閉ざされた鉄扉に、全力で体当たりをした。
ガシャアアアン!!
軽い音だった。
葛城が工作していた蝶番が砕け、重厚な鉄扉が枠ごと外れて内側に倒れ込んできた。
外の空気が入る――そう思った瞬間。
ズズズン……!
支えを失った入り口上部のコンクリートと瓦礫が雪崩を打ち、開いたはずの出口を完全に塞いでしまった。
「あ、あぁ……!?」
男は瓦礫に埋もれかけた足を引き抜き、絶叫した。
出口がない。
背後からは、猛烈な勢いで炎が迫ってくる。皮膚がチリチリと焼ける熱さ。
残された道は一つ。正面玄関だけ。
男はパニックになり、火の海を背にして正面へと走り出した。
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午後8時05分。
倉庫正面。
ドォォォォン!!
屋根の一部が熱で崩落し、夜空に巨大な火柱が上がった。
周囲を包囲していた西園寺鏡介は、その異常な火力に眉をひそめた。
「管理官! 一ノ瀬のGPS信号、消失しました!」
部下の悲鳴のような報告。
西園寺は手元のタブレットを見た。
倉庫の中央で静止していた光点が、プツリと消えている。
熱による端末の物理的破壊。
つまり――所有者の死。
「……くそッ、遅かったか」
西園寺が拳を握りしめた、その時だった。
もうもうと黒煙を上げる正面玄関から、一人の男が転がり出てきた。
煤で顔は真っ黒になり、激しく咳き込んでいる吸血鬼だ。
「ゲホッ、ゲホッ……! 熱ちぃ……!」
男が四つん這いで這い出た瞬間、待ち構えていた機動隊員たちが一斉に殺到した。
地面にねじ伏せられ、手錠がかけられる。
「確保! 実行犯確保!」
騒然とする現場。
西園寺は大股で男に歩み寄り、その胸ぐらを掴み上げて顔を覗き込んだ。
「一ノ瀬はどうした! 中にいるのか!」
「ひ、ひぃ……! 燃えた! 一瞬で何もかも燃えちまったんだよ!」
男は半狂乱で叫んだ。
その瞳孔は開ききっている。
「俺はライターを投げただけだ! なのに、あんな……あんな爆発が起きるなんて聞いてねえ! 骨も残ってねえよ!」
西園寺の手から力が抜けた。
男の目に嘘の色はない。本物の恐怖だ。こいつは本当に「殺した」と確信している。
西園寺は燃え盛る倉庫を見上げた。
今から水を撒いたところで、炭素の塊しか残らないだろう。
裏口は崩落して塞がっていたという報告が入る。
一ノ瀬玲奈が逃げる場所は、物理的になかった。
GPS消失。犯人の自供。生存不可能な現場状況。
全てが「死」を指し示している。
「管理官、どうしますか。生存の可能性は……」
「……限りなくゼロだ」
西園寺は低く答えた。
だが、彼の胸中には微かな棘が刺さっていた。
(あまりにも手際が良すぎる。……まるで、最初からこうなるように設計された舞台のような)
しかし、論理は感情を否定する。
今の警察組織にとって、彼女は「死んだこと」にするのが最も都合が良い。
これ以上の捜査は、組織の闇に触れ、システム自体を揺るがすことになるからだ。
「公式発表は保留する。だが、内部的には『行方不明による暫定的な殉職』として処理しろ」
西園寺は背を向けた。
負けだ。
もし生きているなら、この炎の向こう側で、奴は俺を笑っているのだろう。
ならば、次に会う時が本当の勝負だ。
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同時刻。
地下搬送路。
地上の爆発音と喧騒は、分厚いコンクリートに阻まれ、遠い波音のように響いていた。
冷たい地下水路の暗闇。
シリコンスプレーで加速したシューターを滑り落ちた二つの影が、旧焼却場跡に降り立った。
葛城と玲奈だ。
玲奈は煤で汚れた自分の手を見つめ、膝から崩れ落ちそうになる身体を壁で支えていた。
震えが止まらない。
それは恐怖ではなく、自分が「自分でなくなった」ことへの喪失感と、奇妙な高揚感だった。
「……うまくいったな」
葛城が懐中電灯を点けた。
光の束が、湿った通路を切り裂く。
「犯人は?」
「正面から逃げて逮捕されたはずだ。裏口は俺が塞ぎましたから。彼の証言が、あなたの死を補強するでしょう」
「西園寺管理官は……」
「燃え尽きるのをモニターで見ていたでしょう……感情よりも論理で動く男だとあなたは言いましたね。状況証拠が揃えば、死を認めざるを得ない」
葛城は玲奈の方を向いた。
その顔は、リフォーム屋のそれではなく、共犯者の顔だった。
「おめでとう、一ノ瀬さん。……いや、一ノ瀬玲奈は今夜死んだ」
玲奈は涙を拭い、顔を上げた。
警察手帳も、名前も、経歴も、全て地上の炎の中に置いてきた。
「これからどうするの?」
「ここを抜けて、俺が用意したセーフハウスへ向かう。……そこからが、俺たちの本当の『捜査』の始まりです」
葛城はポケットに入れた阿久津のリボルバーを軽く叩いた。
警察という鎖から解き放たれた、二人の共犯者。
法で裁けぬ悪(K)を裁くための、長い夜が始まる。
「行きましょう。……私の新しい人生へ」
玲奈の声は、暗闇の中でもはっきりと響いた。
二人の足音が、地下の奥深くへと吸い込まれていく。
地上では、盛大な炎が、一人の刑事の死を厳かに証明し続けていた。
(第一章 了)
第一章を読んでいただき本当にありがとうございました!
今まで続けられたのも応援してくれる読者様のおかげですm(_ _)m
第一章はこれで終わりとなります。
これからは、共犯となった一ノ瀬玲奈と葛城湊の生活、西園寺の暗躍、
そして知られざる10年前のゴーストを生んだ事件を描きます。
ここまで読んでくれたあなたは、きっとこの物語の“共犯者”です。
もしよければ、ブクマや評価で自首してくれませんか?




