第十五話 遺された弾丸
2014年、8月19日 午後3時00分。
葛城リフォーム、事務所。
夏の日差しがブラインドの隙間から差し込み、デスクの上に縞模様の影を落としていた。
その光と影の中に、二つの「遺物」が鎮座している。
阿久津誠二が、その命と引き換えにこの世に残した、回転式拳銃と大学ノートだ。
俺は、掌に残る鉄の塊の感触を確かめるように、リボルバーを握り直した。
ニューナンブM60。日本の警察官の象徴。
だが、そのグリップは摩耗し、黒光りする銃身には無数の傷が刻まれていた。
シリンダーを弾き出すと、カチリという乾いた金属音が静寂に響く。
残弾は二発。空薬莢が三つ。
現場に発砲痕はなかった。つまり、この三発は過去に撃たれたものだ。
阿久津は、たった一人で『K』の刺客と戦い、この銃で生き延びてきたのだ。誰にも言えず、警察という組織の中で孤立しながら。
「……重いな」
物理的な重量ではない。そこに込められた執念が、俺の腕にずしりと圧し掛かる。
俺はこの銃をオイルクロスで包み、ツールボックスの底、二重底の下へと沈めた。
警察には渡さない。これは遺品であり、これから始まる戦争のための、俺たちの牙だ。
次に、デスクに置いた大学ノートを開く。
ページをめくるたび、阿久津の無念が立ち上る気がした。
『サクラ』――警察内部の非公式互助組織。
『吸血鬼』――組織の飼い犬となった殺人鬼。
そして、『K』――10年前、現場の無線を掌握できる立場にいた裏切り者。
俺はノートを閉じた。
静寂が戻る。だが、その静けさは以前とは違う。
嵐の前の、張り詰めた静けさだった。
(……引き継ぐぞ、阿久津さん。あんたが書ききれなかった結末は、俺が書く)
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同日、午後6時00分。
阿久津誠二殺害現場。
夕闇が迫る古い団地に、鑑識班の投光器が青白い光を投げかけていた。
西園寺鏡介は、遺体が搬出された後の和室には目もくれず、玄関のドアノブの前で腕を組んでいた。
そこに、息を切らせた鑑識課員が駆け寄ってきた。
「管理官! 科捜研から緊急分析の速報が入りました」
「言え」
「ドアノブの付着物ですが……昨夜の港湾地区で確保された証拠品(建築用釘)と、付着していたオイルの成分構成が『極めて酷似している』とのことです。誤差は0.01%以下。同一の工具油と見て間違いありません」
西園寺はゆっくりと頷いた。
発見から約3時間半。断定までは数日かかるだろうが、捜査の「矢印」を決めるには十分な情報だ。
「確率は90%以上か。……やはり、いたか」
西園寺の目が細められた。
阿久津が殺された直後、まだ体温の残る部屋に滑り込み、何かを持ち去った第三者。
一ノ瀬玲奈の背後にちらつく、正体不明の薄汚いネズミ(リフォーム屋)。
(私の計算式にない変数が、また一つ)
西園寺は胸ポケットから携帯を取り出し、短縮ダイヤルを押した。
相手は、捜査一課の剣崎係長。
「私だ。一ノ瀬巡査部長はどうしている?」
『はっ、予定通りです。例の端末を持たせて待機させております』
「よし。MDM(モバイルデバイス管理)の稼働状況を確認しろ。GPSログに一瞬でも乱れがあれば報告するんだ」
西園寺は通話を切った。
これでネズミに首輪がついた。
あとは、チーズを置いて待つだけだ。
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同日、午後6時15分。
葛城リフォーム、事務所。
俺はスマホを手に取り、深く息を吐いてから玲奈に電話をかけた。
伝えなければならない。最悪の事実を。
数コールの後、通話が繋がった。
『……もしもし、葛城くん?』
「一ノ瀬さん。……落ち着いて聞いてください」
俺の声の硬さに気づいたのか、玲奈が息を呑む気配がした。
「阿久津さんが、死にました」
長い沈黙があった。
電波の向こうで、時が止まったようだった。
やがて、掠れた、信じられないというような声が返ってきた。
『……え? 嘘……でしょ? だって、昨日も電話で……』
「事実です。自宅アパートで狙撃されました。即死です、守れませんでした」
『そんな……阿久津さんが……どうして……』
嗚咽が漏れ始めた。
唯一の理解者であり、警察組織の中で父親のように慕っていた阿久津の死。
彼女の心が音を立てて崩れていくのがわかる。
俺も本当は泣きたい。だが、俺がしっかりしていなければ誰が彼女に前を向かせられるんだ。しっかりしろ。葛城湊。
「一ノ瀬さん、泣いている時間はありません」
『う、うぅ……でも……』
「奴らは阿久津さんを消しました。……これで確定しました。今夜8時、第9倉庫での『潜入捜査』というのは真っ赤な嘘だ。あれは処刑の呼び出しです」
俺は心を鬼にして、冷徹な事実を突きつけた。
今、彼女を悲しみに浸らせておけば、数時間後には彼女自身が死体になる。
「生き延びてください。それが阿久津さんへの一番の弔いです」
『……っ、ぐすっ……わかった……』
玲奈は鼻をすすり、必死に声を整えた。
まだ震えているが、刑事としての理性が戻りつつある。
「それで、確認したいことがあります。その『潜入捜査』のために、何か機材を渡されませんでしたか? 無線機とか」
『機材……あ、そういえば剣崎係長から、新しいスマホを渡されたわ。「今回の任務用だ、肌身離さず持て」って』
俺の手が止まった。
任務用のスマホ?
捨て駒にする相手に、なぜわざわざ通信手段を与える?
「一ノ瀬さん。そのスマホの画面を見てください。キャリアのプリインストールアプリ以外に、見慣れないアイコンはありませんか? 例えば『システム管理』や『Device Policy』といった名前の」
『え……? 待って』
衣擦れの音。数秒の沈黙。
『あるわ。「システム管理」ってアイコンが……でも、タップしても開かない』
「……MDMだ」
俺は吐き捨てるように言った。
企業の営業マンがサボらないように、あるいは警察の管理職が機密漏洩を防ぐために使う、遠隔管理システム。
位置情報の常時取得はもちろん、マイクを遠隔で起動して盗聴することさえ可能だ。
そんな高価で危険なシステムを、一介の現場刑事に渡す理由は一つしかない。
「監視だ。西園寺は、一ノ瀬さんが確実に処刑台(倉庫)に登るか、空の上から見届けるつもりです」
『そんな……じゃあ、どうすればいい? 川に捨てたほうが……』
「いや、逆に利用します」
俺は即答した。
ピンチではない。これはチャンスだ。
西園寺の完璧主義が、奴自身の足元をすくう隙になる。
「西園寺が見ているのは、一ノ瀬さん自身じゃない。モニター上の『光点』だ。……ならば、その光点さえ倉庫にあれば、本人がいなくても『そこにいる』と信じ込むはずです」
俺の脳内で、バラバラだった要素が組み合わさり、一つの巨大な「絵」になった。
西園寺の監視の目。
迫りくる実行犯。
そして、誰もいない密室の倉庫。
これら全ての要素を使って、俺たちは世界を騙す。
「一ノ瀬さん。今夜8時、あなたの『葬式』を出します」
『葬式……?』
「西園寺にも、吸血鬼にも、あなたが死んだと思わせる。……それしか、この絶望的な状況で生き残る道はないでしょう」
電話の向こうで、玲奈が息を呑む気配がした。
葬式。それはすなわち、刑事・一ノ瀬玲奈としての死。
これまで積み上げてきたキャリア、名前、社会的な存在。
その全てを捨て去る覚悟を、俺は彼女に求めていた。
長い沈黙。
窓の外で、カラスが鳴いた。
「……やるしかない。生きるためです」
俺が重ねて問うと、微かだが、芯のある声が返ってきた。
『……わかった。あなたの、描いた筋書きに乗るわ』
その声には、もう迷いはなかった。
彼女もまた、阿久津の死を乗り越え、修羅の道を行く覚悟を決めたのだ。
通話が切れた。
俺はスマホを置き、立ち上がった。
車のキーを掴む。
完全な死を演出し、鑑識の科学捜査すら欺くためには、相応の「工作」が必要だ。
「……リフォームの時間だ」
俺は呟き、事務所を出た。
夕日が、俺の影を長く伸ばしていた。




