第十四話 沈黙の値段
2014年、8月19日 午後1時00分。
葛城リフォーム、事務所。
「……ビンゴだ」
俺はキーボードを叩く手を止め、画面に表示された検索結果を睨みつけた。
吸血鬼の手帳に残された、10年前の記録。
『2004.08.20 報酬受領 現金500万』
日付、金額、そして当時の県警の会計記録(裏帳簿のリークデータ)。
三つの要素がパズルのように噛み合った瞬間、一つの名前が浮上した。
『捜査協力謝礼金 5,000,000円 受領者:阿久津誠二』
阿久津誠二。
俺はその名前に見覚えがあった。
10年前、美咲が殺された事件の捜査本部にいた、強面のベテラン刑事だ。
当時、17歳だった俺に「必ずホシを挙げる」と涙ながらに誓った男。
情に厚く、正義感の塊のような刑事だったはずだ。
その阿久津が、美咲が殺された一週間後に、警察組織から500万を受け取っている。
名目は「捜査協力謝礼金」。
だが、現職の刑事が謝礼金を受け取るなどあり得ない。
これは、口止め料だ。
あるいは――吸血鬼への「仲介料」か。
プルルルル……。
デスクの上の「仕事用ではないスマホ」が震えた。
画面には『共犯者』の文字。
俺は即座に通話ボタンを押した。
「……どうした、一ノ瀬さん」
『葛城くん、今話せる? トイレの中だから手短に言うわ』
玲奈の声は潜められているが、極限まで張り詰めていた。
『西園寺管理官が動いたわ。彼、10年前の事件資料をすべて押収して、ある人物の自宅に向かった』
「ある人物?」
『阿久津誠二。……当時の捜査主任よ、あなたも覚えているでしょう」
俺は舌打ちをした。
一足遅かったか。
西園寺は、俺たちが裏ルートから辿り着いた事実に、正規のルート(圧倒的な推察力)で並んでみせたのだ。
「西園寺の狙いは?」
『わからない。でも、彼は「当時の捜査員が全員、事件直後に不自然な退職や異動をしている」ことに気づいている。阿久津さんはその筆頭よ。事件の一ヶ月後に依願退職して、今は郊外で警備員のバイトをしているわ』
退職。
500万を受け取って、警察を辞めた。
典型的な「トカゲの尻尾切り」だ。阿久津さんは何かを知っている。あるいは、彼自身が『K』の手先だった可能性がある。
正直、あの人が金の亡者だったとは考えにくいが。
『それと……もう一つ。こっちが重要よ』
玲奈が声をさらに潜めた。震えを抑え込むような声だった。
『さっき、剣崎係長から指令が出たわ。「今夜8時、港湾地区の第9倉庫に来い」って』
「……第9倉庫?」
『ええ。極秘の潜入捜査だそうよ。一人で来いって』
俺の背筋に冷たいものが走った。
港湾地区の倉庫街。夜8時。一人。
潜入捜査なんて名目だ。
これは「処刑」の呼び出しだ。
「一ノ瀬さん。……絶対に行くなと言いたいところだが、行かなければ奴らは強硬手段に出るだろう」
『わかってる。……これが、私のリミットね』
今夜8時。
残り時間は7時間弱。
それまでに『K』の正体に繋がる決定打を見つけ、西園寺の目を盗んで、玲奈を「死んだこと」にする準備を整えなければならない。
「俺が行く。阿久津さんの口を割らせて、生きて連れ帰る。……あんたは普段通りに振る舞え」
俺は通話を切り、住所データをカーナビに転送した。
阿久津誠二。
あの実直そうだった刑事が、本当に金で魂を売ったのか。
それとも、彼もまた、システムに食い潰された被害者なのか。
俺は軽バンに乗り込み、アクセルを踏み込んだ。
リフォーム道具一式と、建築用釘を撃ち出すネイルガンを積んで。
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午後2時30分。
県西部、寂れたニュータウン。
昭和の高度経済成長期に建てられたとおぼしき、古びた団地の一角。
阿久津の部屋は、その最上階にあった。
俺は作業着姿で、インターホンを押す前にドアノブを確認した。
鍵は開いている。
いや、ピッキングされた痕跡がある。
誰かが先に入ったか? 西園寺か? それとも――。
俺はバッグからネイルガンを取り出し、コンプレッサーのスイッチを入れた。
静かにドアを開ける。
「……誰だ」
リビングの奥から、しわがれた声が聞こえた。
俺は銃口を下げたまま、廊下を進んだ。
六畳一間の和室。
そこには、酒瓶とコンビニ弁当の空き殻に埋もれるようにして座る、一人の初老の男がいた。
白髪交じりの無精髭。黄ばんだランニングシャツ。
10年前の精悍な刑事の面影は、見る影もなかった。
だが、その手には、鈍く光るリボルバーが握られていた。
警察官が使うニューナンブではない。改造拳銃だ。
「リフォーム屋です。……阿久津誠二さんですね」
俺が言うと、阿久津は濁った目でこちらを睨み、口の端を歪めた。
「リフォーム屋だァ? ……ハッ、お前のような目をした職人がいるかよ。その目、10年前に見た『あのガキ』と同じ目をしてやがる」
彼は覚えていた。
俺はマスクをずらし、素顔を晒した。
「久しぶりです、阿久津刑事。北条美咲の幼馴染、葛城です」
「……やっぱりか。生きてやがったか」
阿久津は銃を下ろさなかったが、撃つ気配もなかった。彼は自分のこめかみをトントンと指差した。
「さっきまで、ここにエリート面した眼鏡の刑事がいてな。俺に『10年前の真実を話せ』と説教して帰っていったよ」
「西園寺か。……で、あんたは話したのか?」
「話すわけねえだろ。話せば殺される。……『K』にな」
K。
そのイニシャルが出た瞬間、室内の温度が下がった気がした。
「阿久津さん。あんたは500万で何を買った? 沈黙か? それとも美咲の命か?」
俺が一歩踏み出すと、阿久津は笑い出した。
乾いた、絶望的な笑い声だ。
「500万? はした金だ。あれは俺の退職金じゃねえ。……『娘の命の値段』だ」
「娘?」
「10年前、俺がホシ(吸血鬼)まであと一歩に迫った時、娘が誘拐された。……そして、上から取引を持ちかけられた。『捜査を打ち切れ。そうすれば娘は返す』とな」
阿久津は酒瓶をあおり、涙交じりに叫んだ。
「俺は刑事を捨てて、父親を選んだ……その結果がこれだ!娘は帰ってきたが、俺は魂を売った抜け殻だ。 ……葛城、お前も『K』を追うなら覚悟しろ。奴は警察組織そのものだ。正義なんて言葉は、奴らにとって都合のいい看板に過ぎねえ!」
俺はネイルガンを握る手に力を込めた。
この男も被害者だ。
そして、警察という巨大なシステムの犠牲者だ。
「『K』の正体を知っているなら教えてください。俺が終わらせる」
「……帰れ、葛城」
阿久津は急に声を潜め、俺を手で制した。
その視線は、俺ではなく、窓の外――向かいの団地の屋上付近に向けられていた。
「風が変わった。……わかるんだよ。俺も腐っても元デカだからな」
「何の話だ」
「西園寺が来たってことは、その後ろから『掃除屋』が来るってことだ。……奴らはもう、配置についてやがる」
阿久津の手が、小刻みに震えている。
恐怖ではない。死を受け入れた男の、最期の武者震いだった。
彼は座布団の下から、一冊の大学ノートを引き抜いた。
「窓際に立つな。……これを持ってけ」
「阿久津さん……」
「俺はもう逃げられねえ。だが、お前なら……このクソったれなシステムに風穴を開けられるかもしれねえ」
彼がノートを俺に放り投げた、その瞬間だった。
ドォン!
乾いた破裂音。
窓ガラスが砕け散ると同時に、阿久津の頭が後ろへ跳ねた。
血飛沫が古びた畳に散る。
俺は反射的に床に伏せた。
狙撃だ。
阿久津の言った通り、掃除屋はすでに見越していたのだ。
「阿久津さん!」
俺は匍匐で駆け寄ったが、即死だった。
眉間を正確に撃ち抜かれている。
死に顔は、どこか安らかだった。
10年間の罪悪感から、ようやく解放されたかのように。
ウウゥゥゥゥ――!
遠くからパトカーのサイレンの音が近づいてくる。
狙撃と同時に通報されていたのか。
この手際の良さ。西園寺が動けば、影で『K』が動く。完璧な連携だ。
10年前の思い出、いや『悪夢』がフラッシュバックした。
また俺は、助けられなかった。
手から血が出るほど拳を握る。
吸血鬼、それを操っている『K』。
そしてその組織が正義の象徴である警察。
反吐が出る。腐った世の中はリフォームしなければならない。
俺は阿久津が遺したノートと、彼のリボルバーを懐に入れた。
「これ、もらって行きますよ......あんたの仇は、必ず」
ベランダへ走りながら、俺は腕時計を見た。
午後2時45分。
口封じは遂行された。
『K』は邪魔者を消しにかかっている。
(次は、一ノ瀬さんだ)
俺の背筋に氷のような戦慄が走る。
阿久津は消された。ならば、もう一人の目障りな存在である玲奈も、予定通り消されるはずだ。
「......そうはさせない」
時刻は今夜8時。
残り5時間15分。
処刑のカウントダウンは、刻一刻と進んでいた。




