第十三話 正義の仮面
2014年、8月19日 午前8時15分。
県警本部、捜査一課フロア。
「一ノ瀬、顔色が悪いぞ。昨日の始末書がそんなに堪えたか?」
デスクでパソコンに向かっていた玲奈は、背後からかけられた声にビクリと肩を震わせた。
振り返ると、直属の上司である捜査係長――剣崎が、缶コーヒー片手に立っていた。
「……いえ。少し寝不足なだけです、剣崎係長」
玲奈は平静を装い、作り笑いを浮かべた。
心臓が嫌な音を立てている。
剣崎は、新人時代から玲奈の面倒を見てくれた恩人だ。
正義感が空回りして孤立しがちな玲奈を、いつも「まあまあ」と庇ってくれた、温厚な上司。
だが、今はその笑顔が能面の張り付いたマスクに見える。
(この人は、どっち?)
玲奈の視線が、剣崎の目、口元、そして社員証へと這うように動く。
昨日聞いた録音データ。『K』の声。
ボイスチェンジャーで加工されていたが、独特の「間」や、言葉の選び方。
もし、この優しい上司が、裏で私を殺そうとしている『K』だとしたら?
いや、係長だけじゃない。
電話をしている同僚。コピー機の前で談笑している先輩。
昨日まで「仲間」だったはずの全員が、今日は「処刑人」に見える。
これが、葛城くんの見ていた世界……。
昨夜、あのまま玲奈の部屋に居座った葛城は、冷めたコーヒーを飲みながらこう言った。
『誰も信じないでください。あなたの行動は全て筒抜けだと思った方がいい』
『普段通りに出勤し、普段通りに振る舞うんです。少しでも動揺を見せれば、彼らは勘づいて計画(事故死)を前倒しにする』
玲奈はデスクの下で、スカートの生地をきつく握りしめた。
怖い。
犯人を追いかける恐怖とは質が違う。
足元の床が腐り落ち、底なしの沼に立たされているような浮遊感。
私は、警察官だ。法を守る側の人間だ。
それなのに、犯罪者(葛城)と手を組み、仲間を疑っている。
これは裏切りだ。汚職だ。
ふと、一年前の記憶が蘇る。
初めての現場でミスをして、辞表を書こうとしていた雨の日。
濡れた制服のまま飛び込んだリフォーム屋で、葛城は何も聞かずにタオルと熱いコーヒーを出してくれた。
『……雨漏りですか』
『え? いえ、私は……』
『家の雨漏りは直せますが、心の雨漏りは専門外だ。……でも、雨宿りくらいならしていってください』
あの時、彼の店だけが、私が唯一息のできる場所だった。
その彼が、裏では法を破る「掃除屋」だったなんて。
皮肉な話だ。
正義を語る組織が私を殺そうとし、悪に染まった男が私を生かそうとしている。
その時。
フロアの空気が一変した。
カツ、カツ、カツ。
硬質な革靴の音が響き、入り口から数名の男たちが入ってきた。
全員が高級スーツに身を包み、鋭い眼光を放っている。
県警の人間じゃない。本庁(警視庁)のキャリア組だ。
その先頭を歩く男を見て、フロア中の刑事が息を呑んだ。
30代前半。
銀縁の眼鏡の奥に、感情の読めない人工知能のような瞳を持つ男。
警視庁捜査一課・管理官、西園寺鏡介。
「……西園寺管理官?」
玲奈が小声で呟く。
「歩く検知器」の異名を持つ、警察庁きっての切れ者。
なぜ、本庁のキャリアがここに?
西園寺はフロアの中央で足を止め、冷ややかな視線で刑事たちを見回した。
そして、その視線は玲奈の場所でピタリと止まった。
背筋に氷柱を突き刺されたような寒気が走る。
彼は迷いなく玲奈のデスクへ歩み寄ってきた。
「一ノ瀬巡査部長」
低く、よく通るバリトンボイス。
機械音声とは違う。だが、底知れない冷徹さは共通していた。
「は、はい」
「昨日の港湾地区での逃走劇。君の報告書を読ませてもらった」
西園寺は手元のタブレット端末を操作しながら言った。
「犯人は窓から逃走し、君はそれを追ったが見失った。……そう書いてあるな」
「……事実です」
嘘だ。
本当は、天井裏に気配を感じていた。
だが、あの場では見逃した。
嘘の上に嘘を重ねている。私の舌は、もう二枚舌だ。
「ふむ」
西園寺は眼鏡の位置を指で直した。
「奇妙だな。鑑識の報告によると、現場の天井点検口の枠に、極めて微細だが『不自然に埃が拭き取られた痕跡』があったそうだ」
ドクン。
心臓が跳ね上がった。
「君ほどの刑事が、頭上の違和感を見落とすとは考えにくい。……あるいは、何か別のものに気を取られていたのかな?」
試されている。
この男は、私の嘘を見抜いている。
いや、もしかしたら――。
玲奈の脳裏に、葛城の言葉が蘇る。
『K』。警察内部の協力者。
まさか、この男が?
「……ご指摘の通り、私の未熟さゆえの失態です。返す言葉もありません」
玲奈は深々と頭を下げた。
表情を見せてはいけない。動揺を悟られてはいけない。
西園寺はしばらく無言で玲奈の頭頂部を見下ろしていたが、やがて鼻で笑った。
「まあいい。君の処遇は後で検討する。……今回の件、本庁が指揮を執ることになった。地方警察の生ぬるい捜査ごっこは終わりだ」
西園寺は踵を返し、部下たちに指示を飛ばし始めた。
玲奈は机の下で、震える手で携帯を取り出した。
宛先は、登録名『リフォーム屋』。
彼女は震える指で、短いメッセージを打ち込んだ。
『化け物が来た』
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同時刻。
葛城リフォーム。
「……西園寺か」
俺は玲奈からのメールを見て、顔をしかめた。
最悪のカードが切られた。
西園寺鏡介。感情を排し、データと論理だけで犯人を追い詰める男だ。
もし奴が『K』なら、俺たちの命運は尽きたも同然だ。
だが、奴が『K』でないとしても、奴の捜査能力は俺たちにとって脅威になる。
俺と玲奈の、生まれたばかりの「共犯関係」など、奴の前ではガラス細工のようなものだ。
俺は吸血鬼の手帳を開いた。
『K』の正体を暴くヒントは、この中にあるはずだ。
俺は、あるページに記された「奇妙な支払い記録」に目を留めた。
『2004.08.20 報酬受領 現金500万 受渡場所:×××』
美咲が殺された一週間後。
現金の受け渡し。
銀行振込じゃない。足がつかない現金手渡しだ。
この500万という大金。
個人のポケットマネーにしては多すぎる。かといって、組織の裏金にしては処理が雑だ。
俺は店のパソコンを立ち上げ、裏サイトの検索エンジンにアクセスした。
ターゲットは「2004年当時の警察の未解決事件の報奨金」と「裏金リスト」。
「……尻尾を出せよ、K」
モニターの青白い光が、俺の眼球を照らす。
外では蝉が鳴いている。
10年前と同じ、暑くて不快な夏が、また始まろうとしていた。




