第十二話 告白
2014年、8月18日 午後11時15分。
県警本部から徒歩15分にあるマンション。
一ノ瀬玲奈は、鉛のように重い足を引きずって帰宅した。
最悪の一日だった。
港湾地区での捕り物は失敗。犯人には逃げられ、現場に残されたのは大量の血痕と、不可解な建築用釘だけ。
上層部からは「単独行動の責任」を追及され、始末書を書かされた。
「……はぁ」
エレベーターの中で深い溜息をつく。
疲れた。
泥のように眠りたい。
彼女は自分の部屋――305号室の鍵を開け、ドアノブを回した。
カチャリ。
重厚なドアが開く。
真っ暗なリビング。慣れ親しんだ柔軟剤の匂い。
そこは彼女にとって、唯一鎧を脱げる「聖域」のはずだった。
だが。
玲奈は玄関で靴を脱ごうとした瞬間、凍りついた。
違和感。
柔軟剤の香りに混じって、別の匂いが漂っている。
香ばしく、苦味のある、深い香り。
挽きたてのコーヒーの匂いだ。
(――誰?)
玲奈の身体が、瞬時に「刑事」のそれに切り替わる。
ホルスターから拳銃を抜き、安全装置を解除する。
音もなく廊下を進む。
リビングのドアの隙間から、月明かりが漏れている。
誰かいる。
ソファーに、人影が見える。
玲奈は呼吸を止め、一気にドアを蹴り開けて銃口を向けた。
「動くな! 警察だ!」
怒号が響く。
だが、人影はピクリとも動じなかった。
月明かりに照らされたその男は、まるで自分の家でくつろぐかのように、湯気の立つマグカップを傾けていた。
「……お疲れですね、一ノ瀬さん」
聞き覚えのある、少し眠そうな声。
男がゆっくりと顔を上げる。
「葛城……くん?」
玲奈の思考が停止した。
そこにいたのは、いつもの作業着姿のリフォーム屋――葛城湊だった。
「なんで……あなたが、ここに……?」
「鍵なら、ピッキングで開けました。古いディスクシリンダー錠だ。防犯性が低い。早めに交換したほうがいい」
彼は悪びれもせず、淡々と言った。
不法侵入。住居侵入罪。
だが、それ以上に玲奈を混乱させたのは、彼の醸し出す異様な「冷たさ」だった。
いつもの「優しい店主」の顔じゃない。
もっと鋭利で、危険な、刃物のような空気を纏っている。
「ふざけないで! 銃を捨てて、手を頭の後ろに!」
玲奈は銃口を突きつけたまま叫んだ。
だが、葛城は静かにマグカップをテーブルに置いた。
「一ノ瀬さん。俺を逮捕するのは構いませんが、その前に一つだけ聞いてほしい」
葛城はポケットから、黒革の手帳を取り出し、テーブルの上に滑らせた。
「これは?」
「今日の夕方。港湾地区の診療所から逃げた男が落としたものです」
玲奈の心臓が跳ねた。
診療所。逃げた男。
なぜ、それを葛城が持っている?
「……まさか。あの現場にいたのは」
天井裏に隠れていた「職人」。
建築用釘を打ち込む工具。
点と点が繋がる。
「ええ。俺です」
葛城はあっさりと認めた。
「俺が、あの『吸血鬼』を殺そうとして失敗した男です」
「な……っ!」
玲奈の指が引き金にかかる。
やはり、彼はクロだった。
この男こそが、私が追っていた連続誘拐犯であり、殺人未遂の現行犯だ。
「動くかないで! 公務執行妨害および殺人未遂、それに……連続殺人の容疑で逮捕する!」
玲奈が叫ぶと、葛城は呆れたように肩をすくめた。
「連続殺人? ……ああ、誤解しないでください。俺は今まで、一人も殺していませんよ」
「は……? 何言ってるの? あの団地のストーカー被害者も、権田優太くんも、消えたじゃない! 死体こそ出てないけど、彼らはもうこの世に……」
「ええ、この世にはいません。『前の名前』ではね」
葛城は玲奈の目を真っ直ぐに見据えた。
「消したんです。殺したんじゃなく、社会的に『透明』にしただけです」
「透明……?」
「一ノ瀬さん。日本で、一年間にどれくらいの人間が行方不明になるか知っていますか?」
唐突な問いに、玲奈は眉をひそめた。
「……八万人前後よ。でも、その大半は一週間以内に発見されているわ」
「ええ。ですが、残りの数千人は『特異行方不明者』として処理され、やがて捜索は打ち切られる。……俺が作っているのは、その『捜査する価値のない数千人』の枠です」
葛城は淡々と、恐ろしいことを口にした。
「戸籍なんて弄る必要はない。そんなリスクを犯さなくても、人間ひとりを消すのは簡単だ」
彼は指を三本立てた。
「第一に、携帯、口座、保険証。足のつくデジタルな紐付けを全て廃棄させる。
第二に、住民票を『職権消除』されるまで放置する。その間、生活の実態が確認されなければ、行政はそれ以上追えない。
そして第三に……ここが一番重要ですが、警察に『事件性がない』、あるいは『捜査しても解決の見込みがない』と思わせることです」
玲奈はハッとした。
団地の現場。そして今回の権田家の現場。
どちらも「派手な血痕」はあったが、「死体」も「凶器」もなかった。
「現場に血は流れているが、死体はない。……警察はどう動きますか?」
「……殺人の可能性を視野に入れつつも、失踪事件として捜査する。でも、物証が出なければ……」
「手詰まりになる。上層部は、成果の出ない捜査に予算も人員も割きたくない。やがて調書は倉庫の肥やしになり、彼らは『ただの家出人』として忘れ去られる」
葛城は冷ややかな目で玲奈を見据えた。
「警察は真実を探す組織じゃない」
「“事件として扱う価値があるか”を選別する組織だ」
その言葉は、鋭い刃物のように玲奈の胸に突き刺さった。
否定できない。
自分たち刑事は、目の前の事件を「検挙できるか否か」で選別している。
葛城は、そのシステムの「穴」を完璧に突き、被害者たちをその穴の中に隠していたのだ。
「権田優太くんは今、北関東のシェルターにいます。名前も変えていない。ただ、行政の目が届かない場所で、現金だけで生活している」
「じゃあ、あの団地の女性は?」
「彼女は今、九州の山奥にある提携農園で住み込みで働いています。携帯も電波も届かない場所ですが、少なくともストーカーに刺される心配はない」
玲奈は唇を噛んだ。
彼のやり方は、決して魔法ではない。
被害者に「社会的な死(不便な生活)」を強いる、泥臭く、残酷な救済だ。
だが、警察にはそれすらできなかった。
「費用はかかります。彼らの生活の基盤を整えるだけで数百万は飛んだ。保険証もないから、病院にも行けない。……それでも、俺は彼らを『死者』として逃がすしかなかった」
(この人は……)
玲奈は銃を下ろした。
彼は狂っている。
だが、その狂気は、あまりにも悲痛な「現実」に基づいていた。
「俺は人殺しじゃない。……ですが、これからあなたを殺そうとしている奴らは違います」
葛城は手帳の上に、画面の割れたスマホを置いた。
「奴らはシステムを利用する側じゃない。システムそのものだ。邪魔な人間を、公権力を使って物理的に消しに来る」
「……どういうこと?」
「聞いてください。これが、あなたの組織の正体です」
再生ボタンを押す。
ノイズ混じりの音声が、静まり返ったリビングに流れる。
『――失敗したそうだな、掃除屋』
『次の指示を出す。……一ノ瀬玲奈だ』
『あの女刑事は嗅ぎ回りすぎた。事故に見せかけて処理しろ』
玲奈の顔色から血の気が引いた。
その声を知っているわけではない。
だが、背後に聞こえる警察無線の音。そして、自分を「処理」するという明確な殺意。
「……これ、声が変えられてる?」
「ええ。市販のボイスチェンジャーです。あえて機械音を残すことで、声紋特定を避けている。プロの手口です」
「そんな……じゃあ、私の組織の中に……」
玲奈は崩れ落ちそうになり、壁に手をついた。
信じていた組織。
正義の砦。
その中枢が、自分を殺そうとしている。
「一ノ瀬さん。あなたは組織に裏切られた。明日、あなたは『不慮の事故』に見せかけて殺される」
葛城は立ち上がり、玲奈との距離を詰めた。
玲奈は後ずさりするが、背中は壁だ。
葛城は自分の両手を差し出した。
「選んでください」
葛城は玲奈の目を真っ直ぐに見つめた。
「俺を今ここで逮捕して、明日、何も知らないまま殺されるか。……それとも、俺と手を組んで、あなたを殺そうとしている『K』を狩るか」
「て、手を組むって……あなたは犯罪者よ!?」
「ええ。だからこそ、警察のルールに縛られずに動ける」
葛城は一歩踏み出し、玲奈の銃口を自分の額に押し当てた。
狂気の沙汰だ。
だが、その体温が、震える玲奈の手に伝わってくる。
「俺はあなたを利用する。あなたも俺を利用すればいい。……正義のためじゃない。生き残るための『共犯関係』です」
玲奈の呼吸が乱れる。
刑事としての義務。
目の前の男への疑惑。
そして、組織への不信感。
数秒の沈黙が、永遠のように感じられた。
玲奈の脳裏に、警察学校で習った誓いの言葉が過る。法を守る。秩序を守る。
だが、その法が自分を殺そうとしているなら?
(……私は、死にたくない)
刑事である前に、一人の人間としての生存本能が、倫理のブレーキを焼き切った。
玲奈は、吐き出すように息を漏らし、震える手で銃を下ろした。
「……コーヒー」
「え?」
「勝手に人の家の豆を使ったんでしょ。……一杯、淹れ直して」
それは、彼女なりの精一杯の「契約成立」の合図だった。
葛城は微かに口元を緩め、眠そうな目に戻った。
「追加料金になりますけどね」
二人の奇妙な共犯関係は、冷めたコーヒーの香りとともに始まった。




