第十一話 悪魔の家計簿
2014年、8月18日 午後8時30分。
俺は店のブラインドを全て下ろし、たった一つのデスクライトだけを点けていた。
指が震えている。
恐怖じゃない。
さっきの逃走劇のアドレナリンが切れた反動と、目の前にある「ブツ」への生理的な嫌悪感だ。
デスクの上には、二つの戦利品。
画面のひび割れた旧式のスマートフォン。
そして、黒革の手帳。
どちらも、あの『吸血鬼』が持っていたものだ。
手帳には、どす黒いシミがついている。奴の血か、それとも誰かの返り血か。
鉄とカビの臭いがする。
俺はラテックスの手袋をはめ、慎重に手帳を開いた。
1ページ目。
そこには、几帳面すぎるほど整った文字で、日付と場所、そして「名前」が羅列されていた。
『2004.04.10 港区 工藤健介 処理済(転落)』
『2004.05.22 横浜 佐山由紀子 処理済(火災)』
『2004.06.15……』
ページをめくる音が、静まり返った店内に乾いた音を立てる。
ただの名簿じゃない。
これは「業務日誌」だ。
奴が殺してきた人間たちのリスト。
死因まで丁寧に記されているが、そのどれもが「事故」や「自殺」として処理された案件ばかりだ。
吐き気がした。
俺がやっていることと、同じだ。
俺は依頼人を「死んだこと」にして逃がす。
こいつは対象を「事故死したこと」にして消す。
ベクトルが違うだけで、やっている作業は変わらない。俺たちは鏡合わせの存在だ。
そして。
俺の手が止まった。
あるページの日付を見て、息が詰まる。
『2004.08.13』
10年前。あの日だ。
指先が冷たくなる。視線を右に滑らせる。
『北条美咲 処理済(刺殺)』
美咲の名前があった。
処理済。
たった三文字。
あいつにとって、美咲の死はその程度の事務処理だった。
「……クソが」
奥歯が砕けそうなほど噛み締める。
だが、違和感があった。
他の案件はすべて「転落」や「火災」など、事故に見せかけている。
なのに、美咲だけが「刺殺」――つまり、明らかな他殺体として発見されている。
なぜだ?
その答えは、名前の横にある『備考欄』にあった。
『※依頼主の要望により、見せしめとして執行。警察への通報を抑制するため』
依頼主。
やはり、あいつは単独犯じゃない。誰かに雇われた「掃除屋」だ。
俺は視線をさらに右へ、ページの端にある『依頼主』の欄に移した。
そこには、名前ではなく、無機質なアルファベットが一文字だけ記されていた。
『K』
K?
個人名か、組織の頭文字か。
俺はページを遡った。
他の案件の依頼主欄を見る。
『Y組』『政治結社・誠』……暴力団や政治ゴロの名前が散見される中、『K』という依頼主だけが、異常な頻度で登場している。
しかも、『K』の依頼ターゲットは、すべて「不起訴になった犯罪者」や「証拠不十分で釈放された容疑者」ばかりだ。
法で裁けなかった悪党を、事故に見せかけて消している?
まるで必殺仕事人だ。
だが、美咲は違う。彼女はただの被害者だった。なぜ『K』は彼女の殺害を依頼した?
その時。
机の上のスマートフォンが震えた。
ブー、ブー、ブー。
心臓が跳ね上がる。
俺は手帳から目を離し、ひび割れた画面を見た。
発信者通知はない。
『非通知設定』。
出るべきか。
いや、電波を発した時点で、基地局から位置を特定される可能性がある。
だが、これは相手の正体を知る千載一遇のチャンスだ。
俺は意を決して、通話ボタンをスライドさせた。
マイクを指で塞ぎ、耳に当てる。
こちらの音は漏らさない。
「…………」
沈黙。
相手も、こちらの様子を伺っているのか。
エアコンの送風音だけが、耳元でホワイトノイズのように響く。
数秒後。
受話器の向こうから、低い、機械的に加工された声が聞こえた。
「――失敗したそうだな」
俺は息を止めた。
その声色に聞き覚えがあったわけではない。
だが、その背後に微かに聞こえる環境音に、俺は戦慄した。
ザーッ、ザーッ。
無線だ。
それも、ただの無線じゃない。
『マル被、現時刻をもって確保』
『104、了解』
警察無線だ。
電話の相手は、警察署――あるいは、捜査本部の中にいる。
「まあいい。顔は見られていないな?」
相手は事務的に続けた。
「次の指示を出す。……一ノ瀬玲奈だ」
ドクン。
心臓が破裂しそうになった。
相手に聞こえていないか心配になるほどに。
「あの女刑事は嗅ぎ回りすぎた。事故に見せかけて処理しろ。期限は明日いっぱいだ」
プツリ。
通話が切れた。
ツー、ツー、ツー……。
俺は携帯を耳に当てたまま、凍りついたように動けなかった。
『K』。
警察無線。
そして、次のターゲットが一ノ瀬玲奈。
点と点が、最悪の形で線になった。
美咲を殺すように依頼した組織。
吸血鬼を飼っている飼い主。
それは、警察組織そのもの――あるいは、その中に巣食う「正義の皮を被った怪物」だ。
「……上等だ」
俺はスマホを握りしめた。
画面にヒビが広がる。
10年前の“あの日”を、また再現するつもりか?
そうはさせない。
今度こそは、俺が彼女を守る。
手帳をバッグに放り込み、立ち上がった。
リフォームのプラン変更だ。
今夜、俺は「犯罪者」としてではなく、「共犯者」として彼女に会いに行く。
たとえそれが、俺自身の破滅を招くとしても。




