第十話 天井裏の誓い
2014年、8月18日 午後5時00分。
港湾地区、闇診療所。
埃の味がした。
舌の上でざらつく、乾いた死骸の味だ。
俺は天井裏の太い梁の上にうつ伏せになり、ボロ雑巾のようにへばりついていた。
高さ五十センチあるかないかの狭小空間。
カビと、ネズミの糞の甘ったるい腐臭が、防毒マスクのフィルター越しにねっとりと絡みついてくる。
心臓が早鐘を打っている。
全身から噴き出す汗が、作業着の中で気味悪く這いずり回る。
だが、震えの原因は「警察に見つかる恐怖」じゃない。
たった今、俺が犯そうとした「過ち」への吐き気だ。
――俺は、何をしようとした?
右手に握りしめたネイルガンが、鉛のように重い。
あいつを、あの『吸血鬼』を、この釘で貫こうとした感触が指に残っている。
「殺す」。
その一線を超えようとした瞬間、俺の中で何かが弾け飛んだ。あの熱狂。あの恍惚。
(素人かよ、クソが……)
奥歯を噛み締める。
俺の仕事は「失踪請負」だ。
被害者を隠し、加害者に「対象は死んだ」と思わせて諦めさせ、社会的に抹殺する。それが俺の流儀だ。
直接手を下すなんて、三流の殺し屋のすることだ。
だが、相手があいつだとわかった瞬間、俺はプロであることを放棄した。
10年前の私怨に飲まれ、ただの復讐鬼に成り下がろうとした。
『俺を殺せば、真実は闇の中だ』
あいつの嘲笑が耳にこびりついている。
そうだ。死なせてしまえば、それは奴への「救済」になる。苦しみも恐怖もない世界へ逃がすことになる。
そんな慈悲を、くれてやる義理はない。
二度と間違えるな。
殺すな。
俺のルールで、あいつを完全に包囲し、逃げ場を塞ぎ、生きたまま「人間」としての機能を停止させてやる。
それが俺の復讐だ。
その時、床板の隙間から甲高い声が突き刺さった。
「現認! 被疑者は逃走! 周辺を封鎖して!」
一ノ瀬玲奈だ。
薄い石膏ボード一枚隔てた真下。
隙間から覗くと、彼女のつむじと、腰を抜かしたヤブ医者が見える。距離にして二メートルもない。
「おい、あんた! 逃げた男は誰!?」
「し、知らねえよ! いきなり入ってきて暴れだしたんだ!」
「嘘をつくな! この部屋、消毒液以外の臭いがする……鉄と、オイルの臭い」
玲奈が鼻をひくつかせた。
心臓が凍る。
俺の作業着に染み付いた、コンプレッサーのオイル臭だ。
「それに、この釘……」
彼女は壁にめり込んだコンクリート釘を睨みつけた。
「建築用のネイルガン……。これほどの威力、ただの工具じゃない。プロの職人の仕業よ」
彼女の視線が、ゆっくりと上へ――天井へと滑っていく気配がした。
まずい。
勘が鋭すぎる。
もし今、彼女が俺の潜り込んだ「点検口」を見上げれば、違和感に気づくかもしれない。
数十秒前の記憶が蘇る。
――警察だ! 動くな!
玲奈の声がした瞬間、俺は部屋を見渡した。
窓からは逃げられない。入り口には彼女がいる。
残された道は「上」しかなかった。
俺は部屋の隅にある背の高い「薬品棚」に足をかけた。
リフォーム屋なら知っている。業務用の空調や配管がある場所の近くには、必ずメンテナンス用の入り口があることを。
棚の天板に乗り、手を伸ばす。
あった。45センチ四方のアルミ枠。天井点検口だ。
俺は枠を押し上げ、懸垂の要領で体をねじ込んだ。
腕の筋肉が悲鳴を上げたが、火事場の馬鹿力で引き上げた。
すぐさま蓋を戻す。
その直後だった。玲奈がドアを蹴破って入ってきたのは。
タッチの差。
だが、ただ隠れただけじゃない。
俺は閉じる寸前、手袋でアルミ枠を丁寧に拭き上げ、積もっていた埃の乱れを指先で再現した。
さらに、枠の裏側にある回転式の留め具。あれをドライバーで限界までキツく締め上げてロックした。
これなら、下から棒でつついた程度ではビクともしない。
「長年、一度も開けられていない開かずの扉」にしか見えないはずだ。
それでも、彼女なら。
あの目なら、見抜くかもしれない。
刑事と犯罪者。
その境界線が、今、天井の一枚板で仕切られているだけだ。
(見ないでくれ、一ノ瀬さん……)
祈るように息を止めた、その時。
ドタドタと別の足音が飛び込んできた。
「一ノ瀬刑事! 裏の路地に血痕が続いています! 窓から逃げた男のものです!」
「……!」
玲奈の意識が弾かれたように逸れた。
彼女は一瞬だけ天井を見上げたが、すぐに踵を返す。
「追うわよ! 鑑識は現場の指紋を全部採って! 釘も証拠品として押収!」
遠ざかる怒号と足音。
俺は肺に残っていた空気を、長く、静かに吐き出した。
首の皮一枚。
だが、安堵に浸っている暇はない。
鑑識が入ってくれば、天井裏にサーモグラフィーでも向けられるかもしれない。
脱出だ。
俺はヘッドライトを点けず、手探りで梁の上を四つん這いで進んだ。
普通の人間なら、ここは袋小路だ。
だが、リフォーム屋の視点は違う。
この手の古い長屋造りの倉庫には、致命的な欠陥がある。
界壁の不備だ。
本来、建物と建物の間には、屋根裏まで完全に塞ぐ防火壁が義務付けられている。火災の延焼を防ぐためだ。
だが、増改築を繰り返したこの地区の違法建築に、そんな常識は通用しない。配管を通すために壁をぶち抜いたまま放置されているのがオチだ。
ほら、あった。
闇の奥にぽっかりと口を開ける、隣の倉庫へと続く四角い穴。
ネズミとゴキブリの高速道路。そして今夜は、俺の逃走ルートだ。
俺は体をよじり、埃まみれになりながら隣の区画へと滑り込んだ。
壁などない。あるのは「通り道」だけだ。
三分後。
俺は隣の空き倉庫の天窓から、屋根へと這い出ていた。
潮風が生温かい。
眼下では、パトカーの赤色灯が動脈血のように明滅しているが、それはまだ「診療所」を中心とした包囲だ。
俺は屋根の上に伏せたまま、周囲の地形を確認した。
この倉庫街は、長屋のように建物が密集して海沿いに並んでいる。
警察は陸側の道路を封鎖しているが、海側――防波堤沿いはまだ手薄だ。
俺は中腰になり、猫のように隣の屋根、さらにその隣へと音もなく移動した。
三つ先の倉庫まで移動したところで、俺は排気ダクトの影に身を隠した。
ここで「脱皮」する。
俺は目立つ白い防護服を素早く脱ぎ捨て、小さく丸めた。
防毒マスクとゴーグルも外す。
それらをバッグに押し込み、中から普通の「作業帽」を取り出して被る。
これで、俺はただの「残業帰りの作業員」だ。
俺は建物の裏側に設置された錆びた非常階段を使い、地上へと降りた。
そこは、黒い海が広がる岸壁だ。
テトラポッドに波が打ち付ける音が、サイレンの音をかき消してくれる。
俺は岸壁の縁――警察車両のヘッドライトが届かない死角を、前だけを見据えて歩き出した。
俺はポケットから、さっきのヤブ医者の部屋で回収したものを取り出した。
逃げた怪物が、診察台の下に落としていったものだ。
黒い革の手帳。
そして、画面の割れたスマートフォン。
バッグの中のネイルガンが、ズシリと重い。
殺すのは罰じゃない。救済だ。
必ず「生け捕り」にして、死よりも辛い地獄を味わってもらう。
本来の俺の流儀で、あいつを追い詰めてやる。
「……リフォームの時間だ」
俺は誰にともなく呟き、テトラポッドの影を伝って包囲網の外へ行き、あらかじめ見つからないように駐車していた軽トラに乗ってその場を去った。
この時はまだ知らなかった。
その手帳が、俺と玲奈、そして警察組織を巻き込む爆弾だったことを。




