第一話 殺人現場の作り方
2014年、8月13日。
平成という時代がゆっくりと黄昏に向かうこの夏、世間が死者を迎えるお盆の夜に、俺は一人の生者を「葬る」準備をしていた。
深夜二時。
カーテンの閉め切られたアパートの一室で、俺は女の細い腕に注射針を刺していた。
「……痛いですか?」
「い、いえ。大丈夫です」
俺はシリンジをゆっくりと引き、暗赤色の液体を吸い上げていく。
200cc。献血一回分にも満たない量だ。
だが、現場に残す「名刺」としてはこれで十分だ。
今回の依頼人は、この部屋に住む24歳の女性。
元上司からの執拗なストーカー被害に遭っていた。
警察には何度も相談したらしい。だが、警察は「実害が出るまで動けない」の一点張り。
実害。つまり、「刺されるか、殺されるか」するまで、彼らは動かないということだ。
そして昨日、ついに男から『今夜、殺しに行く』というメールが届いた。
だから、俺が依頼を受けた。
実害がないなら、作ってやればいい。
それも、男が二度と手出しできないほどの、決定的な「死」という実害を。
「……よし、取れましたよ」
俺、葛城湊は、抜き取ったばかりの彼女の血液を、足元のタンクへと注いだ。
そこにはすでに、大量の赤い液体が波打っている。
それは、医療廃棄物処理場の裏ルートから横流しさせた「期限切れの輸血パック」の中身だ。
もちろん、血液型は彼女と同じA型に合わせてある。
動物の血や絵の具なんて使わない。科捜研をナメたらいけない。
大量の「人間の血」をベースにしつつ、最後に本人の「新鮮な血液」をトップコートとして上塗りする。
こうすることで、現場に漂う「生臭さ」と、初期捜査で採取されるDNA情報をカモフラージュするのだ。
今の科学捜査技術でも、この混合血液の違和感を見抜くには、最低でも数日はかかる。
その数日が、俺たちの勝機だ。
「さて、始めますか」
俺は、リフォーム業で使っている「加圧式噴霧器」のノズルを握った。
本来は害虫駆除や消毒液の散布に使うものだが、ノズルを改造してある。
ターゲットは、玄関からリビングへ続く廊下の壁。
俺はレバーを握り、リズミカルに指に力を込めた。
プシュッ、プシュッ、プシュッ。
一定の間隔で、赤黒い飛沫が壁に叩きつけられる。
心臓の収縮に合わせて、動脈から血が噴き出したような「脈動」のある飛沫痕だ。
高さ150センチ。頸動脈が切断された位置。
俺は冷徹に、死に至るプロセスを壁に描いていく。
次に、俺は自身の靴裏に血をつけ、床に擦れるような足跡をつけた。
リビングの中央にあるローテーブルを蹴り倒す。上の飲みかけのマグカップが割れ、破片が散らばる。
そこへ、さらに血を撒く。
今度は、低い位置から高い位置へ。
倒れた被害者が、必死に抵抗して暴れた痕跡を演出する。
仕上げに、俺は血だまりの上に大きなラグマットを被せ、それを玄関までズリズリと引きずった。
床に残る、幅広の血の筋。
「死体を運び出した痕跡」だ。
これで、死体がないことへの説明がつく。
俺は計算して血を撒く。
人間一人の全身の血液量は、体重の約8%。致死出血量はその3分の1。
約1.5リットル。
この部屋に、それだけの量をぶちまければ、警察は認めざるを得ない。
「医学的に、被害者の生存は不可能である」と。
死体がなくても、出血量が死を証明する。
それが、完全な「偽装殺人」のトリックだ。
俺は道具を片付けながら、ふと、十年前の光景を思い出していた。
――2004年のあの日も、こんな蒸し暑い夜だった。
俺の幼馴染だった少女は、ストーカー被害を警察に訴えていた。
接近禁止命令も出ていた。法的には完璧に守られていたはずだった。
だが、紙切れ一枚の命令書なんて、狂った暴力の前では何の意味もなかった。
俺たちが駆けつけた時、彼女はもう、冷たくなっていた。
現場検証をする警察官が言った言葉を、俺は一生忘れない。
『もう少し早く、決定的な証拠があれば逮捕できたんだが……』
死ぬことが、唯一の「決定的な証拠」だったなんて、そんな馬鹿げた話があるか。
俺はその日、誓ったのだ。
法で守れないなら、俺がルールを書き換える。
被害者が殺される前に、「被害者という存在」を殺して隠してしまえばいい。
社会的に「死者」になれば、誰も死者を殺すことはできないのだから。
「……終わりましたよ」
俺は淡々と告げ、アパートを出て軽トラに乗り込んだ。
助手席には、震える依頼人の女性が座っていた。
彼女は、俺の服についた返り血を見て、ヒッと息を呑んだ。
「ほ、本当に、これで……あの男は諦めるでしょうか」
「諦めますよ。彼はあなたを『自分のモノ』にしたかった。でも、あなたはもう『死者』だ。死体を所有することはできないし、警察が彼を重要参考人として徹底的にマークします。彼にあなたを探す余裕なんてなくなりますよ」
彼女は涙を流した。
それは恐怖の涙か、それとも安堵の涙か。
「なんで……ここまでするんですか? あなたは犯罪者になってしまうのに」
「俺は、幽霊ですから」
俺は自嘲気味に笑った。
俺の人生は、十年前のあの日から止まったままだ。彼女たちを救うことでしか、俺の時間は動かない。
「ありがとうございます……っ」
彼女は深々と頭を下げた。
俺は何も答えず、アクセルを踏んだ。
彼女を港まで送り届けたら、俺はただのリフォーム屋に戻る。
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翌日。
俺は自宅の事務所で、カップラーメンをすすりながら昼のニュースを見ていた。
『――速報です。昨夜未明、市内アパートの一室で、大量の血痕が発見される事件がありました。警察は、現場に残された血液量から被害者の生存は絶望的と判断し、殺人・死体遺棄事件として捜査本部を設置しました。部屋の住人の女性は行方不明となっており……』
テレビ画面には、ブルーシートで覆われるアパートと、規制線の外で野次馬整理をする警察官たちの姿が映っている。
大騒ぎだ。
コメンテーターが「卑劣な犯行です」「一刻も早い逮捕を」と憤っている。
俺は麺をすすり、鼻で笑った。
「大成功だな」
これで彼女は自由だ。
俺は世界中を敵に回し、警察の捜査リソースを無駄遣いさせ、世間を不安に陥れた。
紛れもない大悪党だ。
だが、一人の女性の命は救った。
それでいい。
その時。
テレビの画面が切り替わり、現場で指揮を執る刑事の姿がアップになった。
鋭い眼光。後ろで束ねた黒髪。
スーツ姿の女性刑事。
一ノ瀬 玲奈
県警捜査一課のエースであり、俺の店の常連客だ。
彼女は、カメラのマイクが拾うか拾わないかの小さな声で、現場の鑑識官にこう呟いていた。
『……おかしいわね』
俺の手が止まる。
『血の量が多すぎる。まるで、私たちに見せつけるためのショーみたい』
俺は背筋が冷たくなるのを感じた。
彼女の勘は鋭い。
野生動物のような嗅覚で、俺が作った「完璧な舞台」の違和感を嗅ぎ取っている。
画面の中の玲奈が、ふとカメラの方を向いた気がした。
レンズ越しに、俺と目が合う。
『犯人は、殺しを楽しんでいる異常者よ。絶対に許さない』
彼女の瞳には、燃えるような正義感と、深い憎悪が宿っていた。
俺はリモコンを手に取り、テレビを消した。
黒くなった画面に、俺の顔が映っている。
ひどく疲れた、犯罪者の顔だ。
「……お手柔らかに頼みますよ、刑事さん」
俺の「逃走劇」は、この日始まった。




