この世界は生き辛い-大人になったら生き辛い-
嫌な気持ちになりたい人だけ読んでください。
もう本当にどうしようもないことなのだが、生きているといつか成人して、世間的には大人になる。
一応、成人して大人になれた、というのは世界に対して感謝すべきことなのかもしれない。
でもそれは一旦置いておいて、普通に大人になってただ悲しいという話をする。
正直に言うと、子供という立場は素晴らしい。大体の失敗が許され(もちろん許されない致命的なものもあるが)、うまく行けば基本的に褒められる。
「子供なのに偉いね。まだ若いのに凄いね。」
こういった言葉に、子供扱いされて悔しい、とか思う人もいるようだが、僕の場合は全く違う。
「凄いね。」
なんと甘美な響きではないか。自己承認欲求の塊である僕は、正直褒められれば何でもいい。
別に、「コイツ学校では一番ポ◯モンが強いらしい。」とか、噂されるだけでも認知欲が満たされる。(当然そんな学校に広がる噂はされた覚えはないが)
それが大人になったら何だ。
「こいつ(大人なのに)こんな事もできない。」
「こいつ(大人なのに)こんな事も知らない。」
大人なのに、という言葉は、もちろん大人しかいない場所ではわざわざ言われることはないが、子供の頃は、この()に「子供だから」が入っていたと思うと悲しい気持ちになる。
そもそも僕は、他人が何かをできないことや知らないことを馬鹿にするのは、本当に良くないと思っている。馬鹿にされた側はただ不快で、コミュニケーションとしては最悪である。
そもそも自分の常識が世間一般と同じだと思っている時点でおこがましすぎる。
でも、やってしまう。
人を馬鹿にすることで得られるのは優越感である。優越感のために他者を食い物にしている。
最近、話していて、相手が「それ知らないな」となったときの口癖が「まあそういうこともある。」である。
心の中では「まじか。こんなことも知らないの?」と完全に馬鹿にしているし、何なら「義務教育の敗北か・・・。」などとすら思っている。その上で、精一杯出る言葉がこれである。
これはフォローなのか?何かいい方法はないかと考える。何も言わないで説明するのが吉か、ただそれだと知識をひけらかすだけの人になってしまいやしないか。
結局、他人を心の中では馬鹿にしている自分が嫌になる。心の中で他人を馬鹿にしているせいで、自分が知らないことを他人が知っていると、特に何か言われた訳でなくても馬鹿にされたように感じてしまう。
そのせいで知ったかぶりしたり、分かっているふりをしたりして、どれだけ人生を損してきたか数え切れない。
途中で的外れなことを言って、「あっ、こいつ何もわかってなかったんだな・・・。」となったときを思い出すとあまりに辛い。
他人を馬鹿にする人が嫌いなのに自分で他人を馬鹿にするせいで他人が嫌いになる自分が嫌いである。
さて、大人と子供という対比がどうしてこんなに問題になってしまうかというと、端的に言えば、僕が凄くないからである。
凄ければ、子供であっても大人であっても当然正当な評価を受け、輝かしい人生を歩めるだろう。(晩年になってやっと評価されたり、死後に評価されたりする人もいるらしいが)
自分が凄くないというただその事実が、子供と大人に落差をもたらしたのである。
そもそも、今まで同年代の人間たちとしか比べられていなかったのに、突然大人として「大人なんだから全年代の人と戦ってね」なんて酷じゃないか?
この劣等感を感じ続けて生きているからこんなに辛いのだ。
皆が凄いわけではない、というのは励まし(言い訳)の言葉として適切ではない。自分より凄いやつが無数に存在することから目を背けているだけだからだ。
「向上心があっていいことじゃないか。」なんて言う人もいる。僕も最初は、確かにそうかもしれない、と思ったものだが、今ではハッキリと違うと断言できる、
なぜなら、僕は勝手に嫉妬して勝手に萎えているだけだからだ。そこにあるのは停滞と苦痛だけである。
結局必要なのは、自分が人より優れている「何か」探すことかもしれない。
そういう場として、面接というのは人生で大きな役割を果たすものである。しかし、僕は嘘や見栄は得意(というか無限に思いつく)ので、なぜか難なく切り抜けられてきた。
こうやって作り出した理想の自分との乖離も、今苦しんでいる理由かもしれない。
ここまで行くと、前回語った成功体験の無さがうんたらかんたら、に続いてしまいそうだ。
同じ辛いことを繰り返し書いていたら終わりがないので、あとはもういいでしょう。
上を見て上を見出し、誰かが凄いから、そこに至らないまでも、自分も出来る限り頑張らなくちゃな、となるのが理想である。
本当は、「こんな理想の状態になりたいものだ」で締めくくりたいのだが、そんな風に投げやりに言ったって、成れないものは成れないのだから、気楽に嫉妬しながら生きていこうと思う。